TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「死骸」

 扉を開けると、悪夢が広がっていた。「私は、悪いことなんてしてない」と泣き叫ぶ少女の声の喧しい空間に投げ出されていたのだ。
 黒い氷柱のような立体的な映像が頭上に降り注がれている。身体から血は流れていないが、鋭い痛みであれば生じている。その蜂の大群をも彷彿とさせる槍の雨は、窓のない部屋を覆い尽くす闇の中へ消えていく。
 そんな中、恐怖に縮こまる私の造り出したトンネルの入り口から、一匹の虫が滑り込んできたような気がした。握り締められた手の中に忍び込んできた物の感触から、子どもの頃に公園で見かけた蟷螂だと推測した。おそるおそる目を開け、ゆっくりとトンネルを崩していくと、たしかに生命線の上で蟷螂が、人間の眼球と共に蠢いている。精巧極まるガラス細工と思わせる、この泥団子から我々は世界を見渡しているのかと、なぜだか私は感激していて、口元に三日月を浮かべていた。
 いつのまにか蟷螂は死んでいて、黒い雨が止んでいる。しかし「私は何にも悪いことなんてしてない」という悲鳴の木霊は、未だに収まっていない。だが、よく耳を澄ませてみると、もしかすると声の主は、「泥棒なんてしてない、人殺しなんてしてない、気づいたら血塗れの財布を握り締めてて、足元にお父さんの死体が転がっていただけなの」と泣いているのかもしれない。ひどく弱りきった女の子の地縛霊の歌に宿った悪魔が、耳の中に入り込んで私を洗脳してやろうと企んでいるのだろうか。それだとすれば、なぜ部屋の中央部にて横たわる蟷螂の死骸を潰させようとしない? これは生きていても死んでいても、ただの虫けらに過ぎないから放置せよと?
 怒りを覚え、立ち上がった。開かれていた目を閉じ、そして再び開けてみた。もう少女の悲鳴は聞き取れなくなっていた。そのかわり「神様、助けて、神様たすけてぇ」と藁人形に縋りつく少年の姿をした映像が、両足の先に現れたので、踏み潰した。
 蟷螂の死骸を拾い上げてみると、それは青い雲の上に昇っていった。頭上には白い空が広がっている。白色や黒色や灰色や橙色の雲の何一つとして浮かんでいない大空が、現実のものとなっている。しかし、今から私が向かうつもりでいる場所には、この世界から失われた何かは絶対に現れないのか、それとも待ち構えているのかどうかは分からない。