TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「旅のはじまり」

 時が止まっている。白い霧に視界が封印されている。悪魔の顔だけは見えている。それは美しい人間であるのかもしれないと思った。一瞬、ついに自分自身が、認知症を患ってしまったのだろうかとも疑った。心は今、生と死の境目を彷徨っているようである。激しい目眩に苛まれながら、私は青年の目を、じっと見つめている。真夜中の世界を照らす蝋燭を彷彿とさせる白く妖しい肌に温めてもらおうと、身体を必死に起こそうとする。
 しかし無理だ。私が死人だからだ。
 鏡の中に映る、私の双子の幽霊に、どうにか彼に取り憑いてくれないかと乞い願えば、できなくもないだろうか。
「お願い、貴女、こっちを見て」
 そう念じたところで巧みに操作できるような分身ではないと分かったため、ハンマーでもう一度、殺してやりたくなった。今度は鈍器だからロープでよりも楽に旅立てるかもしれないよ、と、頭の中で囁いておいた。
 窓の外に出てみると、ついに季節を感じられない存在に生まれ変わってしまったのだと実感してしまった。ベランダから一人で音楽鑑賞をする彼の横顔を見つめながら、はやくこっちに来て、と、泣き喚いていた。人の世の静寂が深夜0時と共に、かつて清らかな少女であったはずの悪霊を睨みつけている。
 部屋の中の青年が突然、人間の氷像と化していたのだが、私には、どうでもいいことだった。ただ単に本当の姿の一つが、今更になって現れただけだと分かりきっているから。
 殺せば俺の本当の姿は見えると主張しているような眼差しだけは、そのままだったのだけれど、それでも自分は死神にはなれない。慈愛ゆえに、ではなく、弱さゆえに。こんな姿になってもまだ、私は、世間体を意識してしまっている。もう幽霊であるはずなのに。
 衣服が脱げない、邪魔くさい、風呂に浸かりたい、しかし手と足を、どうやって動かせばいいのか分からないし、そもそも何が温水で何が温水でないのかの違いが分からない。
 それでも世間体だけは全身を縛り付ける縄のように残されてしまっている! 嫌われたくない、見られたくない、死にたいけど自殺したら家族に迷惑がかかるから、まだ旅立てないと死後であるにもかかわらず消えてない。まだ殺され足りないの? ううん、もう嫌だ!
 日記帳になりたい。鳥になりたい。鏡になりたい。死それ自体になりたい。でも私にそっくりな物にはなりたくない。私は死んでいるのに! 私は、とっくの昔に死んでる!
 頭が痛くないのに頭が痛い。この脳味噌あたりの不快感は、男の人が睾丸を蹴られた時の生き地獄に近そうだとも感じ取った。
 窓ガラスの奥にいたはずの彼は、すでにどこか遠くへ行ったのか、見知らぬ女のもとへ泊まりに行ったのか、とにかく家の中にいない。はやく、こっちに来て、と、念じる。何度も、何度も。そよ風だけは訪れてくれた。だが、こんなちっぽけなものでは、意識を溶かすための天国か地獄へ旅立てるわけがない。
 そう思った途端、正体は分からないが、とりあえず透明で不吉な何かを背後から感じ取った。やはり、予感した通り、辺りには何者も存在していなかった。
 たまらなく怖くなってきて、失禁してしまった。だが、この尿は、本当に私の下半身から流された液体であるのか、疑わしい。なぜって私は、死んでるからに決まっている。
 寒気がする。熱っぽい何かに殺されそうになってきた。男の手足が飛んでくる。大雨が降ってきた。叫び声が聴こえてきた。それが悲鳴であるのか歓声であるのかが分からない自分自身を粉々にしてやりたくなった。家の中には、まだ彼が戻ってきていない。私は、またしても泣き出してしまっていた。はやく朝になってと念じても頭が痛すぎて、朝顔が頭の中に咲き誇って欲しいと全く異なる願い事を真夜中に捧げてしまうから雨が止まない。
 ボールペンを握りしめる。私は、朝、気づいたら、子犬のぬいぐるみになっていた、という書き出しの小説を書き始めようとする。それだけで朝陽が昇ってきた! 彼も家の中に戻ってきた! しかも、なんと、青年は醜い豚のような姿に変貌していて、幽霊である私よりも幽霊みたいな生活をするようになっていた!
 私は喜びの歌を、空の青を祝福する小鳥を彷彿とさせる可憐で生命力に満ちた声で歌う。これでハッピーエンドだ、これで私は幽霊なんだと自分で自分を騙し通そうとしなくて済むようになるのである! 
 そして、ペンは剣や銃より強いんだぞ、わかったか、昨日まで王様気取りであった乞食野郎、と、高笑いをあげるのだ。日に日に大きくなっていく、数ヶ月前に首まわりにできた人面瘡のような赤い何かを睨みつけながら。