TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「灯火」

 金閣寺が燃えているかのような心が、窓の外で彷徨っているのを目撃した。その金色のローブを纏った死神が、俺を殺そうとしているのか、いま、絞縄が首に食い込んでいる。部屋の片隅に放置された段ボール箱の上には、まだ腐ってはいない蜜柑が乗せられている。
 天井の上から舞い降りてくる七個ほどの黒い平仮名を頭上で確かめる。かなしみとあい。天使はいない、地獄の使いもいない。まだ死んではいない。なぜだか自殺していない。
 だから、目を開けてみる。いつもの景色の強烈さに負けそうになる。目に映る全てが、何の変哲もない物でしかなくて、だからこそナイフで辺りを滅茶苦茶に切り裂いてみたくなる。しかし、たとえば財布などの中には空虚な過去の証としての虚無はあるのだ。それが、それだけが、そこらじゅうにある!
 そんなことを呪いつつも、今日も仕方なく歯を磨き、スーツを着用して外出し、いつもの電車に乗るのだ。夜になれば疲労困憊を目蓋と四肢に訴えかける身体を風呂に浸して、粗末な食事を嫌々ながらも口内に流し込んで、またしても眠りについてしまう。
 誰か俺を殺してくれ。この繰り返し自体が、激しい苦痛を呼び起こすのだ。金なんぞ要らない、女も欲しくない、現世という名と透明色の鉄檻と巨大な箱を用いて本質を隠匿する、この牢獄から脱出したいだけなのだ。
 またしても朝になる。ここで天使は生きてはならないという掟によって、あの穢れなき大空は天国になれない。と、口癖を口ずさむ。そして質素な朝食を摂って電車に乗り会社に向かう。気がつけば太陽は闇に紛れ、哀れなマリオネットは、ふたたび、死に夢想する。ある日、何かが通勤中に起こって、とんでもないドラマが大いなる檻を破壊してくれると期待している自分自身であれば、はっきりと自らの影の内に潜んでいると自覚している。
 だが、かと言って、この陰惨な自我と密接であり貧弱でもある肉体への、やましい自己愛までは消せないのだと、気づかせる出来事ならば、今でも時々、起こり得るのだ。
 起床する。いつものようにビジネスバッグを片手に持ち、会社に向かおうとして、玄関の扉を開ける。陽の光の眩しさを実感する。
 すると、どこからともなく、鋭利な刃物らしき物体が足元に飛んできた。道路には血飛沫が撒かれ、虚空に男の悲鳴が木霊する。私は、泣いてしまっていた。
 破れてしまったスラックスの下から生き血を、人差し指で掬うと、つい、母さん、と、甘えた声を発してしまっていた。だが、どうせ辺りに人はいないのだ。この美しい真紅の薔薇の茎の棘どもの気高さを、誰にも知られる場ではないのだから構いやしない。
 どこかに必ず向日葵を連想させる、名前のない花が咲いていると示唆する光が舞い降りてきたような気がして、久々に笑顔になれた。