TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「悪魔が来たりて」

「あくまがきたりて、かみをきる」
 幼い頃に祖母から教えられた、おまじないである。これを十三秒以内に言い切ると、地の底から「騎士」が詠唱者を守りに来る、らしい。詠唱を、けっして他者に聞かせない、というルールさえ守れれば、最強にして不死なる者を召喚できてしまう、らしい。良識ある読者諸氏からしてみれば、中二病を演じる趣味のある人間のジョークのようにしか思えないであろうが、どうやら、小学生だった頃の私は、その「騎士」の召喚に成功していた、らしいのである。真面目さと率直さだけが特徴的な両親の発言であったし、しかも「騎士」が、数年前に我が家に忍び込んでいた泥棒を殺したこともある、らしい。
 だが、そんな化物を呼び寄せた記憶は、一度たりともない。ましてや自宅に空き巣が侵入していたところを目撃した覚えすらないのだ。一応、おまじない自体が、祖母から教わっているというのは事実である、はずなのだ。
「あくまがきたりて、かみをきる」 
 ところで私は、先ほどから、これを、ずうっと唱えているにも関わらず、噂の騎士様は、なぜだか、いや、当然といえば当然なのだろうか一向に姿を表す気配がない。一階で両親が何者かに殺されたのかもしれないのに。
 恐ろしくて下に降りれないから事の詳細は不明なのだが、とにかく母親が数分ほど前に、助けてという悲鳴を二階にまで響かせていたのは確かなのだ。身体の震えが止まらない。ずどん、ずどん、と、大きな足音が聞こえてきた。部屋の窓から脱出したくて仕方がないのに、腰が抜けて動けない。「あくまがきたりてかみをきる、あくまがきたりてかみをきる、あくまがきたりてかみをきる」と半狂乱しながら念じるぐらいしか助かる道はない。
 そう、思っていた。
 瞼を閉じ、ただただ時間が過ぎるのを待っていたら、知らず知らずのうちに朝になっていたようだ。鼻歌を歌いながら扉を開けてみると、予想通り、目の前には何者も存在していなかった。静寂をもたらす廊下があるだけ。歩いてみると、気持ちがいい。
 一階には豚肉と牛肉が散らばっており、パックの中に詰められていないから不衛生だ、と思い、「あくまがきたりて、かみをきる」と、いつものように呻いてみる。しかし、余計にリビングが汚れるばかりで何の意味もなかった。あくまは、頭の中の消しゴムがわりにはならないのだと、未だに理解できない自分自身を俯瞰するだけでも、あどけなさが削がれていない。はやく殺したくて仕方がない。
 外に出たい。いい加減、家の外に出たくて堪らない。ただし誰かに助けてほしいとは全く思えそうにないのである。私のような鶏肉では、どうせ騎士ヅラした偽善悪魔に食い殺されて終わってしまうだけだ。あんな奴等の血肉で、騎士様の甲冑と銃を汚すわけにはいかない。おばあちゃんが教えてくれた、おまじないは、最高にして最悪の悪魔を裁くための、正義の呪文なのだから。
 目眩がしてきた。激しい頭痛が襲いかかってきた。私は鏡の前で、微笑んでみせた。