TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 11章

 

 幸福とは、偉大なる温もり。朝食のオニオンスープとチーズパンを胃に流し込み、歯磨きを済ませ、恋人にキスをせがんで、そのあと正午を迎えるまでの間、ふたりで毛布に包まり玉の汗の吹き出る皮膚と性器の熱情を味わい尽くしたあとに直観した真理。

 ベッドシーツの甘い匂いを執拗に嗅ぎながら、あの日、アモーゼ島の大穴から飛び降り自殺を決行しようとして大正解だったと発狂する私を優しく包む、天使の翼の先端を、事後の余韻に浸る女性器に触れさせ、囁いた。

「……また……朝日が昇るまで……」

「めっ……きょうは駄目な日でしょう……」

 そう言いながら笑顔で額に口づけをするのは卑劣にも程があるため口淫で妥協しようとしたら、それは凄く痛いから本当に止めてと怯えられたので、不満げな女体を右の人差し指だけで鎮めておいた。最高に時間を無駄遣いしたという自覚が歓喜を芽生えさせた。

「御二方。もうそろそろ礼拝の時間です」

 新世界に到達してもなお、口喧しさの変わらぬ使い魔からの事務的な連絡に嫌々ながら聞き入れる私の膨れっ面を見て、彼が悲しそうな顔をつくった。「やはり、あそこに行くのは、いまも辛いのか……?」

「全然! へっちゃら!」と本音半分嘘半分な返事をせざるを得ない。どこの馬の骨とも知れない娼婦よりも穢れた女の命を救ってもらったばかりか、衣食住の面倒まで見てくれている青年を困らせる我が儘を言えるわけがない。朝・昼・晩の食事のメニューの要望を尋ねられた時、デートの日の行き先を二人で決める時、お出かけ先での買い物の時、ベッドで愛を交わす時など、恋人と2人でいられる時間だけは欲張りになれるのだが、さすがに社会人としての彼に負担はかけられない。

 本来、自分自身は、今の世界そのものを賛美すべき存在であるのだ。おおよそ半年ほど前までは、ライトメイジとダークメイジが共存しているパラレルワールドがあるとは夢にも思わなかった。D側以外の者が、自分自身を一人の人間として尊重してくれる現実がやってくるなどとは思いもしなかった。また、この初めての恋人のことは、最初、神の使いかと思っていたような気がする。闇の底から翼をはためかせて現れ、深淵に堕ちた赤髪の少女を救い、しばらくも経たないうちに、この聖なる存在の正体が、ただの可憐な人間でしかなかったと気づいてから、我々の体感する、いくつかの奇跡というのは、世界の細部が複雑に絡み合って、それらが一つに纏まっただけの現象であるに過ぎないものも珍しくないのだろうと考えるようになった。漆黒が、透き通った青い海のような空に変わった、あのときを、最初にして最後の奇跡だと、おおよそ数ヶ月前までは定義していたはずなのだが、今では奇跡のような子供騙しに過ぎなかったのかもしれないと疑っている。

 ネーア、と愛しい彼の名を呼んでみる。彼の着用する白い半袖シャツの内部に収納された、ラブレターより薄くて丈夫で清らかな白い翼の根元となる後ろ首に、何気なく手を回してみる。きょうもホントは高い高いをして欲しくて、ふたりで、目的地を決めずに、お空を一緒に散歩したかったのと分かって貰いたくて触れてみた。すると、いつものように、「みゃん」と鳴いた。ほんのちょっぴり、触ってみただけで、くすぐったがる恋人が天使であるのは言うまでもないが、元々、ネーアがヒトではなく、とある老いぼれの聖術によって生まれ変わらされた猫であることは言っておくべきであろう。

 なぜならば、今回、あの馬糞のような匂いの漂う、格式の高い教会に足を運びたくないわけの一つだからだ。そもそも、ただの野良猫を人間に変身させるなど、いったい邪悪以外の何であるのだろう? 

 だが、しかし、事の是非を判断する意味のない状況に置かれている以上は、考える時間を捻出するのが勿体ない。肝心なのは、いかに恋人と末永く共生できるかだ。現時点では、いつまでも彼を、あそこに所属させるわけにはいかないという方針から外れた思考を巡らせていては闇雲に精神を消耗させるだけ。

 私は強者ではない。ネーアが傍にいなくては、いまにも世界の魔手によって押しつぶされそうな心を癒すための手段が、この次元においても見つかりそうにないのだから。

「ルナ、そろそろ飛んでも大丈夫かな?」

 ああ、そう、だった。我が家を取り囲む木々の陰に目を向けている場合ではなかった。

「心の準備は、できたかな?」

 生誕への、血潮に滾りし憎悪に相反する、しかし慈愛とは名付けられない泉から、一口分の清水を掬うと、彼の背中を抱きしめた。

「ね、ね。きょうも終わったら、なんでもいいから甘いものが食べたい!」

「わかった、わかった」と微笑む恋人の肩に掴まりながら、いつもの風の音を耳にした。ひゅわり。足底が空を感じ取った。

 いつのまにか私たちは青と一つになっていて、白い雲の上にいた。この時だけが救いなのだとレッドハーツの楽曲を下手くそに歌いたくなる。いや、宇宙を殴るように、彼等にしか書けなかった名フレーズを乱射したくなる。「ドブネズミみたいに美しくなりたい、神様にワイロを贈り天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか、ミサイルほどのペンを片手に面白いことをたくさんしたい、やさしさだけじゃ人は愛せないから、限られた時間の中で借り物の時間の中で本物の夢を見るんだ本物の夢を見るんだ、本当の声を聞かせておくれよ、君を離しはしない」

 そして新たなる歌詞、あるいは詩を、とにかく生命の孕んだ言葉を生み出したくなる。これだから青空は止められない。

 二人は、ゆったりと、地に降り立った。夢見を許さぬ、獣の糞の匂いが鼻をつく。

 礼拝堂の入口となる、木製の扉が開かれ、あのジジイ、もとい、司祭が現れた。

「おお、待っていたぞ、愛しき我が子よ」

 ありがとうございます、と愛想よく返答する彼の横で、「早く死なないかしら」と心の中で何度も念じつつ、無表情を貫き通していた。嫌悪感を目に滲ませてもいけないが、敵対心を持たれていると勘づかせてもならない。ジュドの透視によれば、こいつは道端で死にそうになっていた子猫を治療させるために聖なる術で人間の赤ん坊に変身させ、ネーアと名づけて一から教育をしていったらしいのだが、瀕死の状態であったのなら、さっさと逝かせてやるのが人情ではないのかという偏見と、そもそも転生させた当時の礼拝堂の近隣の病院には動物の診療も可能な医者が存命中であり、息を引き取って間もない生物であれば蘇らせることも難しくない腕利きであったというデータなどが原因で、はじめて目と目を合わせた時から警戒心が拭えそうにないのだ。

 愛しの彼と司祭は、礼拝の開始時刻となるまで、世間話に花を咲かせていた。その間、私は教会に併設された孤児院に足を運んでいた。そこには友達が、いるといえばいる。誰も彼もが四つから五つほど年下で、いわゆる悪童の類が一人もおらず、いい子ばかりが揃っており、不快感こそ覚えないのだが、なぜだか、どうにも接しにくさが拭えない。しかし彼等の中の何名かと仲良くしておけば、束の間の退屈しのぎにはなる。

「ルナ! ルナだー!」

 女の子に慕われるのは苦手だ。いったい自分の何に懐くのかが理解しかねる。彼以外の人間に抱きつかれるのは大嫌いだ、が、リンダから求められてしまうと拒めない。

「あ、あら、こんにちは」

 いつも、彼女の右の頬に刻まれた、白色の十字紋を目にするだけで、おそろしくなる。こんな自分であるにも関わらず、数週間前に会った際には高価なプレゼントまで渡してしまっているため、我ながら情けないと、不思議なものであるとは思う。私に子作りをする気はないのだが、意外にも一般的な人間と比べてみれば子ども好きな方なのだろうか?

「遊ぼ遊ぼ! くんれん、くんれん!」

 遊びと聖術の訓練を一緒くたにできるって凄いと感心した。いくら生まれ育った環境が何から何まで異なるからとはいえ、仮にも魔術士である自分に師事するなど信じがたい。

 そして国が真に平和な証であるとも言えよう。またしても泣きそうになってしまった。

 教会のすぐ近くにある公園にて、リンダの赤髪を撫で撫でしながら、子どもなど、子ども心と比べてしまえば驚異ではないと思ってみると、ふと、かつての黒歴史のいくつかが、うっすらと蘇ってきた。今の次元において、魔術士の魔術に需要など皆無だ。少し前までいた世界であれば、多くの者が取得していた、手から火を放つ呪文すべてには我々の日常生活に利用できる場面がなく、つまり戦闘以外での用途の全く見出す余地のない性質を備えていたのだが、この文脈にて記された「手から火を放つ呪文」以外の全ての呪文すら同様に、戦闘、いや、対人戦以外では何の使い道もなかったのである。少なくとも私の目の前では、かつての世界の術士どもは、ヒトの心身に加える効果以外にも何らかの効果のある魔術など、誰一人として唱えられていなかった。ただしバベルなどを使用可能な自分自身という例外的な存在や、あの忌まわしき帝国が施した情報統制の政策が機能していた事実から考えてみれば、かつては対人戦のみで利用できるような魔術が一般に広まっていたとしても、おかしくはないだろう。

 さらなる余談を追筆しておく。昔のジュドが王の退屈つぶしのために用意してくれた陰謀論的な物語の一つを、あえて信じてみるならば、たとえば軍事用のヘリコプターを用いて、禁忌の粉を上空からバラ撒き、国民の世界史に関連する記憶の一部を、大国にとって都合のいいように改変する計画も、条件さえ揃えば実行できていたらしい。当時はフーンと鼻で笑いながら半信半疑にしか思っていなかった話になる、が、いつのまにか、魔術・聖術などという概念が実際にある以上は、生きるにあたって、多少なりとも意識しておかねばならない話と思うようになっていた。

 しかし、ともかく、あの頃の世界と、ルナ・カノンの犯した大罪の償いとして、白と黒の共生社会を守り、発展させていこうとするのは悪い道ではない。そう信じてみて、薄れていた、弟子への指導に必要となる集中力を高める。目を離してしまったら幼女の指に切り傷ができてしまうかもしれない。

「おおっ! ぴゅおー! リンダ、できたね! 成長したわね!」

 私たちは二人でキャッキャと歓喜の声を上げた。彼女のバッグの中に入れさせてあるはずの、数週間前に贈ったお守り、魔力を増加させる紫色の石の効力が発揮されたのであろうか。ありきたりな、風を起こす呪文、フロルスの発動に成功したのである。ブランコの傍に落ちていた一枚の葉っぱが、ピュラリィンと舞った。弟子が成長すれば、やがて岩をも運べるようになるかもしれないと想像するだけで楽しい。そして彼女の唱えるフロルスが、この公園にある何点かのベンチを覆う木陰のような、汗だくの労働者を涼ませる冷風になるのか、魔女の王の操れるような、悪魔の悪を溶かす熱風になるのかは分からない。

 葉っぱの次に、木の枝を持ち上げさせてみようと思い、砂場から、木々の生い茂る路に歩き出そうとすると、背後に浮かんでいたジュドに淡々と告げられてしまう。

「ルナ様、まもなく礼拝の時間です」

 私は心の中で舌打ちをし、弟子と二人で「神様なのか分かりかねる得体の知れないものに祈るなんて、アホくさ」と言いたげな苦々しさを醸し出しながら礼拝堂に戻り、ひどく長ったらしいあいだ、ネーアの傍で、聖なる言葉を摂取するための黙想をしていた。この厳粛なる雰囲気を、ぶち壊してやりたくなる毒々しさを毎回のように感じ取っているのは、自分一人だけなのだろうかと考えてみるだけで腹立たしくなってくる。おまけに怒りの感情のみならず、度々、吐き気までやってくる。幸い、現時点では、祈祷のさなかにゲロを床にぶちまけたことは一度もないのだが、かといって、ここに足を運ぶ恋人を一人きりにさせてしまうのも恐ろしいのである。

 いつの日か司祭だけ抹殺できればいいのだ。しかし奴の力は未知数であり、ジュドに探らせても全貌が把握できそうにない現状では、とりあえず大人しくしておかねばなるまい。

 軽やかな地獄の一時が、ようやく終わった。いつものように、ネーアの手を取り、礼拝堂から脱獄するように飛び出し、教会に最も近い街の宿屋で、夜が明けるまで汗に濡れた素肌で癒してもらい、朝が来てチェックアウトする前に口づけをして、元気で可憐な美少女に戻れたため、礼拝の前日から湧き上がっていた嘔吐感も掻き消えた。そうして帰宅する度に、この真っ白を死の寸前まで維持できれば自己救済も実現したに相応しいのだと痛感させられる。だからこそ、得体の知れない何かへの破壊衝動から眼を逸らしてはならないのだと、唇の裏側で反芻せざるを得ないのだ。

 

 ある日の夜に、ジュドが囁いた。「ルナ様、奴の姿を、例の場にて確認いたしました」

 隣で可憐な寝息をたてている恋人を起こさぬように、雄の情欲を掻き立てる裸体を包む毛布から、そっと抜け出して、暗がりの中、素早く黒の下着を身につけ、俊敏な動きをするに適した衣服を纏い、眼薬をさし、指先に殺意を、両の眼に血塗れの過去を宿す。玄関の扉を、音を立てずに開けて、総身に月明かりを浴びせる。今より私たちは冷たい風と共に、ある男の本性を確かめに向かうのである。

 例の教会付近の公園にて、司祭が何をしようとしているのかの見当はつく。おそらく彼は、自身の運営する孤児院の孤児たちの何名かを、どこかに監禁しており、さらった子どもたちを閉じ込めた空間に赴いているのである。非情にも、ネーアをはじめとした関係者各位は誰一人として気がついていないのだが、これには、わけがある。人間の認識を狂わせる術が、一定の区域に仕掛けられているためだと予測しているのだ。そのような小細工は魔女の王にこそ通用しないものの、誰々が行方不明になったという事実を人々の記憶から抹消されたり、おまけに最初から彼・彼女は実在していなかったのだと過去を書き換えられたりしてしまえば、残酷ながら打つ手がない。厳密に言えば、無力なる者どもの頭の中から失われた彼等を元に戻す呪文を知っているにも関わらず、それを体得できないと決まりきっているだけなのだが。

 ともかく真相を確かめに行かねばならない。奴が先述した大技を用いられるとなると、使い魔の過去を透視する能力を信じきるのも危険な気がしてならない。いま、私たちは上空から司祭の姿を、あの両耳と額の上部を煙草の灰で塗りたくったかのような白髪頭を捉えられている。だが、あれが尾行を撒くために生み出された幻影であったとすれば、敵に奇襲の隙を与える事態にもなりかねない。防御策は講じられているのだが、戦場では些細な油断が死に直結する。赤子を除いた全ての人間に備わる常識というやつだ。

「ルナ様」使い魔の鋭い声が脳裏に響き渡る。「敵が、聖術陣を敷こうとしております」

 なるほど。確かに、その通りである。懐中電灯に似た性質を備えた道具で、暗闇に十字型の光を、無能な労働者を彷彿とさせる緩慢な動作で描こうとしているのが分かる。書き終えた後に、周囲のどこかに隠された扉を発現させて、そこに入ろうとしているのだろう。

「……オードゥア……」

 白いカソックに隠された、枯木のような両腕に繋がる薄汚い手が、夜と重なる。神父が姿をくらます。間違いなく、あの聖なる十字の近くに隠蔽されていた、謎の空間に入っていったに違いない。例の報告の真偽も、これでようやく判明するに違いない。わずかな間、首元にかけられたネズミのペンダントを握り締めたあとに、数分ほど前まで神父が佇んでいた地点へ下降する。

「……コプスト……」

 呪文の詠唱後の気が残っている場で最後に使用された術を一つ、自分自身の手によって再生する魔術を唱えた直後に、殺意の炎や悪意の雷などは飛んでこなかった。そのため尾行には勘づかれておらず、それどころか警戒すらも大してされていないのだろうと判断した。コプスト、と、口ずさんでから、おおよそ三十秒もかからぬうちに、木製の扉が目の前に浮かび上がってきた。

「スイッチの準備はできておりますか?」

「当たり前じゃない……」

 なぜだか錆びついていて、ほんの少しの力を込めて握り締めただけで壊れそうなドアノブに手をかけ、侵入する。向こう側の薄闇に飛び込んだ瞬間に不思議のドアは掻き消える。辺りを見回す。私とジュドの目には、ここが岩山の中の洞窟であるように見受けられる。だが、この場所が、いかなる構造物であろうとも、とにかく今は、ひどく長ったらしいと思わしき一本道の階段を降りるしか無いのだと悟った。足音のみが鳴り響く。地下に進んでいくにつれ岩壁の横幅が徐々に狭くなり、この世の深夜に酷似した闇は濃くなり、いつのまにか閉所恐怖症を患う者を絶対に招いてはならないと確信させる路に変貌していた。

 足音のみが鳴り響く。

 やがて、どのような建物においても、入口として、あるいは裏口としてあるような鉄製の扉を発見する。それにガラス窓はついておらず、丸型のドアノブを回して潜入しなくては、何もかも見えてきそうにない。

(どう? 入っても問題なさそう? ……あたしは大丈夫だと思うんだけど)

【何とも言いようがありません。脳内に情報が全く届きません……が、無論、禍々しい気であれば、はっきりと伝わります……例の光景が真実であるという自信はあります】

 黒色のパンティの中から無数の悲鳴が聞こえてきた気がして、つい苦笑してしまった。

(どんな世でも人間が存在するかぎり……)

【つまらぬことは起こり続ける……ですか】

 がちゃり。開けてみて、入ってみて、すちゃん、と、閉めてみると、狭く短い廊下が現れた。おおよそ5歩、足を進めたところに、ガラスの小窓のついた扉があり、電気がついているのか呪文がかけられているのか、室内には灯りが点いている。意外にも少年少女の泣き叫ぶ声は全く聞こえてこない。ただ、獣の唸り声であれば聞こえてくる。心の中で舌打ちをして窓の向こう側を覗いてみる。予想通りの惨劇が広がっていた。

(男の人って羨ましい。いつも思うけど、ほんっと美味しそうね)

 部屋の中で、丸裸の女に覆い被さり涎を垂らしながら腰を振っているのが、例の司祭であるのは明白だ。ただ、あの目隠しと猿轡で目と声を封じられている赤髪の少女が、可愛い愛弟子のリンダであるとは、あまり認めたくなかった。彼女のバッグが無造作に放り投げられていて、例の紫色の石が床に転がり落ちていなければ、あれが誰であるのかの判別はできなかったであろう。

 危険を承知で、自分より先に忍び込んでくれた使い魔からの報告を受信する。

【すでに彼女は息絶えております。おそらく1時間ほど前に、絞殺され、その死が確かめられたのちに、男は行為をはじめました】

 正直、ほっとした。死んでいてくれて。

(ジュド、調査前に行った議論の結果、忘れていないでしょうね?)

【いかなる事態を目の前にしようとも、けっして敵を攻撃してはならない、でしたね】

(……撤退するわよ)

 使い魔に苦渋の命令を下すと、コートのポケットに忍ばせていたスイッチを押し、愛しきネーアの眠る家に帰還する。

(今日の尾行前にも何度か話し合ったとおり、暗殺を決行するにしても、野蛮な悪党を始末するのと、化けの皮を被った善人を現世から抹消するのとでは、重みが違いすぎるのよね……前者であれば、すんごく楽ちん)

【敵を即座に殺せぬ原因の、解決の手段を見つけ出す……まことに難問ですね】

(……あいつにバベルと唱えられないわけのうちの一つは、あんたに任せる……時間はかかるでしょうけど……)

【そして……改めて言っておきましょう……もう片方の障害の攻略に関しては……どこまでいっても絶望的との覚悟はなさって下さい】

(かと言って、見なかったことにしようとすれば、のちの災いの火種にもなる……)

【……明日から私は、手始めにドーム内からの脱出を試み、そして、この世界の魔術書・聖術書の類を片っ端から収集していく作業に着手していきます……】

(……あたしは翌朝から、リンダの代わりとなる、別の弟子を募集していくしかなさそうだけど……他に手立てはないのかしらね……)

 ジュドは、この悩みに反応をする素振りを一切見せようとはせず、淡々と壁の内に溶け込んでいき、窓の外の世界に飛び出ていった。

 誰か早く殺しにきてと呻きたい心持ちを抑え込むだけで、四肢を撒き散らしたくなる馴染み深い衝動に負けそうになる。生憎、かつての世に愛用のナイフは置いてきてしまっているのだが、いずれ彼の目の届かぬところで、どこかで純粋無垢な少年少女たちを彷彿とさせる新品を買うなり盗むなりすればいい。天井を見上げてみると月明かりに照らされぬ夜がはっきりとしていて、私の横で安らかな寝息をたてる彼から可憐さを剥ぎ取っている。

 ふたりで心中できれば、自分だけは救われるだろう。だが恋人の甘さにつけこみ、おねがい、いっしょに自殺してと泣きつけるほど落ちぶれてもいないのだ! ネーアなら、あたしの頼みを、人様に迷惑をかけるような真似でさえなければ、何でも叶えようとしてくれるでしょう! しかし、そんな優しさのような弱さのような何かを、もう明日から子犬のように貪るわけにはいかない!

 この日は朝が来るまで眠れなかった。太陽が昇っても眠気が全く訪れず、かわりに眩暈と軽やかな吐き気に襲われ、それは朝食のコッペパンであったはずの胃の中の物を道端に吐き散らすまで、体内で笑っていた。そして、その後、新しい愛弟子を探す気の全く起こらぬ日々が、長い間、続くようになっていた。