TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「とある手記の忘却についての手記」

 これは、会社を辞めてからの自分が毎朝、思うようになったことのメモ書きである。

 

 時には昔の話をしなくては今が色褪せる。と、思うのだが、自分には過去の記憶がない。そもそも昔語りをするための友や女もいない。
 しかし、いま、眼前にある鏡に映る者は、私の分身である、はずだ。彼は自分自身に瓜二つな容姿をしているから、精神的な双子なのかもしれない。右腕を伸ばして触れようとしてみると、彼も私に触れようとしてくれる。
 だから、この水溜りのように恐ろしい物は破壊しなくてはならない。しかし、この決意は常に、生まれてすぐさま、現実の時空に押し潰されてしまい無に還ってしまうものだ。 
 それゆえに込み上げる吐き気に慣れるために、そう時間はかからなかった。
 ただし鏡の中の男は、私の生き写しであるはずだが、私独自の苦悩には全く苛まれていないようにしか見えない。どんなときも、生きているようには感じられない。彼は人間ではなく、凶器や工芸品のようなものでしかない。いや、彼を閉じ込める四角い物体の成長を阻む悪魔と言い切るべきなのか?
 仮に昔の話を少しでもするとすれば、おそらくは、この悪魔のことは何一つとして喋れそうにないのであろう。
 殺してみろ、と、顔を洗いながら呟く。顎に髭剃りを当てる。鏡の中の二つの眼球は無反応だ。こちら側を無感情に観察している。
 背後を振り返ると、洗面所の淡い黄色の壁が、こちらを見つめていないのが理解できる。時が止まればいいのにと思えてしまう。
 現実に戻り、二階に上がる。自室に入り、本棚から一冊の本を手に取る。背表紙には「何も書かれていない本」と記されているが、パラパラとめくるだけでも真っ赤な嘘だとは、すぐに分かる。なんだかんだで、これも、小さな出版社から出版された本なのだ。正真正銘の空白は、けして売り物にはならない。
 溶け切らぬ寂寥が自分を孤独にさせない。ふざけるな、と、誰かを殴りたくはなるのだが、何を殴れば良いのかが分かれば幸いだ。