TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 7章

 窓を開けても、風の音も、虫の声も、死者の囀りすらも聴こえてこない夜だった。
「もう九時半ですね」
 ドロシーはテーブルの傍から、ベッドの上で部屋の外を眺めているルナに話しかける。
「あ……そういえば、一つだけいいですか?」
 彼女は満面の笑みを浮かべたまま少年の方へ振り向くと、やけに楽しそうに応える。
「なあに? なんでもきいていいわよ?」
「ルナは、どこの国の出身なんですか?」
 すると少女の顔から笑顔が消えた。そしてドロシーから目を逸らし、乾いた唇を右手で覆い隠し、何かを深く考え出した。
「……そもそも、ここが、どこかしら?」
「あ。言うの忘れててごめんなさい。今、僕たちがいるのはベルドラード島っていう小さな孤島です。多分、聞いたことないですよね。ここは世界地図にも載ってない島なんです」
(たしかに、ないわね)ルナは沈黙を保ちつつ、使い魔のジュドをテレパシーで呼び出す。
【お呼びでしょうか】

 紺色の瞳の青年が、どこからともなくドロシーの傍に現れた。
(……あんた、さっきまで何してたの?)
【島の上空を散策していました】
(……今、あたしはベルドラードという孤島にいるみたい……なんだけど……)
【……ルナ様、私の代わりに、彼に訊いてほしいことが……】
(……?……わかったわ……)

 ルナはドロシーに、青年の要望通りの質問をしてみる。「ここからメギアス大陸まで、どれくらいの距離かわかる? あと、今って西暦何年だったかしら?」
「西暦は、ちょうど今年で300年になりますが……めぎあすたいりく?……えっと、すみません、そこのベッドの枕、貸して下さい」
「? はい、どうぞ」
 ドロシーは白い枕のチャックを開け、掌に収まるサイズの緑色の正方形ブロックを取り出して、それの一面についた赤い丸ボタンを押す。歯を削るドリルのようなノイズが鳴る。
 驚いたルナが音のした方に目をやると、壁の中から何の変哲もない本棚が、ゴガ・ゴガと飛び出してきた。少年は、その金属製の棚から1冊の分厚い書物を取り出し、その本のページの間に挟まっていた古紙を、薄汚れた世界地図をテーブルの上に広げた。

 魔女の王は驚愕した。そこには少し前まで自分が暮らしていたメギアス大陸の名が記されていなかった。それどころかルナの知る大陸の名が一つたりとも見当たらないうえに、そもそも、この世界の地形自体に全く見覚えがない。
 ドロシーとルナは不思議そうに顔を見合わせる。彼女は咄嗟に、「あ、あたし……名前以外の記憶がメチャクチャになっちゃてるみたい! 住んでたとことか、経歴とか素性とか、いろいろ忘れちゃった……」と、すぐにばれそうな嘘をつく。
「きっと、そのうち思い出しますよ。根拠はないけど、そんな気がします」

 ドロシーは柔和な笑みを浮かべた。
「あなたがダークメイジであっても、ここから追い出す気はないから安心してくつろいでいてくださいね」

 するとルナの顔が、にわかに曇る。
「……ダークメイジ……何だったかしら!……思い出せそうで思い出せないわね!……」
 すると彼は本棚から1冊のメモ帳を取り出した。表紙には『DメイジとLメイジについて』という題が黒ボールペンで記されている。

「昔の家に置いてあった、歴史家である僕の父親が残してくれたメモ帳を読み上げてみますね――

 ダークメイジ(以下、Dメイジ)とは魔神ユダマが生み出した、破滅の魔術を使いこなす存在。ライトメイジ(以下、Lメイジ)とは慈神マリアが生み出した、救済の聖術を使いこなす存在。破滅の魔術とはあらゆる生命へ攻撃を加えるための手段であり、救済の聖術とはあらゆる生命へ回復を施すための手段である。
 マリアは、あらゆる苦痛に喘ぐ人々を救い出そうと、一部の民衆に聖術の才を授けた。
 ユダマは、凶悪な肉食獣から己の身を護らせるために、一部の民衆に魔術の才を授けた。
 DメイジとLメイジは今より180年前、つまり、ちょうど西暦100年頃に出現したと言われている。かつてDメイジとLメイジは共存できていた。だが西暦130年に、ある一人のLメイジの手によって勃発した事件(※)が発端となり、両者の120年間に渡る永き対立――ヴェルヘルム大戦が始まった。
(※):通称3.15事件。概要.とある王国の王子がDメイジの手によって暗殺された事件である。その謎を解く手がかりとなる調査資料には何者かによる検閲が、『何らかの術による表現規制』が加えられていた為、その詳細な内容/犯行動機は残念なことに不明。現在では、いかなる書物にも3.15事件の謎を解く手掛りは皆無とされている。
 西暦250年、ヴェルヘルム大戦は終焉を迎える。この争いの幕が閉じた要因は、終戦後の世界史の教科書には、各国共通して、D側とL側の間に平和条約が結ばれて~と、極めて簡潔な記述がなされている。だが、その事を詳しく調べ上げようとなると、なぜだか、あらゆる文献に、3.15事件と同様の不可解な表現規制が敷かれているのだ。現代を生きる人々が、正体不明の何者かが仕掛けた壮大極まりない奇術によって、DとLの戦史の研究を封じられている原因は、未だ謎のまま。
 西暦280年、現時点においてDとLは共存関係にある。しかし私は先述の謎が解明されない限り、この平和が永く保たれるとは思えないのだ。なぜ先述の平和条約について調べ上げられることを、かの者は恐れている?

 ――どうでしょうか? だいぶざっくりとした端書きに過ぎないんですが、多少なりとも記憶を取り戻すヒントになりましたか?」

 ルナは頭を掻き毟りながら答える。
「……ああ……………………思い出したわ。闇の魔術師・ダークメイジと光の聖術師・ライトメイジ。たしかダークメイジは、L寄りの史書には『かつて世界滅亡を目論んだ悪しき心を宿した魔術師』って書いてあった……」

「まあ現代は“ベルウォード帝国”に忠誠を誓うダークメイジじゃなければ、そんな物騒なことをしようとするのも、なかなかいないはずですけどね。あの日、帝国さえ現れなければ、2年前から始まった昨今の世界戦乱も起こらなかったわけですし」
「……ベルウォード帝国? 世界戦乱?」
「ほら、地図の真ん中にある大国のことです。まだ建国して4年しか経ってないのに、すごく戦争の強い不思議な国なんです。今では数え切れない程の国々を支配下において、現在でも各国に軍事侵略を仕掛けてるんです」

「……聞き覚えがないわね……」
「ベルウォードは帝であるドグマをはじめ、その部下や、そこで暮らす民衆まで全ての人がダークメイジで統一されてて、皆で一丸となってライトメイジを殲滅しようとしてるんです。この世界では、LとDは一つの国のなかで共に暮らしているのが一般的で、魔術師と聖術師のどちらかの割合が著しく少ないという例もあるにはあるんですが、あそこまで極端にLを排除している国は歴史上でも唯一なんじゃないでしょうか」
「…………どうして?」
「なんでもドグマは、ヴェルヘルム大戦が行われていた頃から生き続けているダークメイジみたいで、遥か昔に戦死した同胞の仇をとるために、帝国を創始したらしいです。だからライトメイジに凄まじい怨念を抱いていて、『この世界のすべてはDのものであり、Lの連中に生きる資格などない』って宣言したことがあるくらいですから。なにしろ国に侵略を仕掛ける際に、皇帝自らが陣頭に立って多国のライトメイジを虐殺してきたことから、本当に憎くて堪らないんだと思います」
「……じゃあ現代のダークメイジは、何でドグマに忠誠を誓ってるのかしら……」
「実は僕の仕事仲間の何人かに、自らの意志で帝国の一員となった知り合いのダークメイジがいるらしくて、同僚の話を聞くかぎりでは、どうもベルウォードのDメイジがドグマに忠誠を誓うわけは、だいたい4つあるらしいです。1つ目はドグマの圧倒的な力に心酔して、彼と共に覇道を突き進みたいと思ったから。2つ目は経済的に困窮していたところを、帝国からの莫大な報酬に釣られてしまったから。3つ目は様々な事情から世の中に尋常ならざる憎しみを抱いていて、やり場のない鬱憤を晴らすために、この世界を滅茶苦茶にしてやりたかったから。4つ目は単に帝国からの回し者に洗脳されてしまったから………………あ、あの……ルナ? お顔が真っ青ですよ?」
 赤髪の少女は頭を抱え込みながら、激しい頭痛に苦しめられながらも答えた。

「…………………………ぜんぜん大丈夫よ…………………………話を続けて頂戴」
「は、はい。現在ではライトメイジは世界的に苦境に追いやられていて、殆どの国家は、自国からL側の術師を片っ端から追放していったんです。あるいは追放せずに奴隷階級の身分として酷使しだしたり、最悪の場合、Lであるというだけで極刑に処したところもあるみたいなんです。帝国が現れる西暦296年までは、両者は上手く共生できていたのに、すごく悲しくなってきますよね……」
「………………へえーっ………………」
 ルナは両の掌を、じっと見つめた。己の指先に眼醒めし、あらゆる魂を嘲り笑う漠々たる殺意の声に、じっと耳を傾けた。
 嗚呼、ライトメイジ、ダークメイジ。ひどく懐かしく、もう二度と耳にするはずのなかった言葉。呵・呵・呵・呵・呵。そう、すべてが終わった、あの日、本当は両目も鼓膜も壊し尽くすべき、だったのだ。
「あ、すみません。なんだか一方的に喋りすぎて……やっぱり、まだ体調が悪そうだから、今夜は早めに寝た方がいいですよ?」
「あたしは健康よ。それに、こっちから聞いておきたいことも、まだ山ほどあるわ……」
 魔女の王は少年に背を向けると、コートのポケットから愛用の注射器を取り出し、一息に左腕の血管へ突き刺す。どくん・どくん・どくどくどくどくん。ひゅわーーーーーん……。嗚呼! やはり『DAMDAM』の効き目は最高だ! みるみるうちに体調が元通りになったうえに、泥々の殺意すら消え失せていった! たしかに、あの闇商人の言った通り、こいつは選ばれた者にとっては、まさに神薬! 流石ひと握りのダークメイジにしか効果が発揮されず、並大抵の魔術師が服用すると即死してしまうために、超危険薬物として流通が禁じられた激レア物なだけはある! 
 しかし彼女は『自身の将来設計図において、そう遠くない未来の恋人』の熱い視線を背中に感じ取った。少年は魔女の王の後ろ姿を不安げに見やっている。万一、彼が『DAMDAM』を使ってしまえば、あの芸術的にして神聖なる全身が一瞬で緑色に腐り果てて、すぐさま悶死してしまうので、なるべく彼の近くで使わない方が安全だろう。そもそも『DAMDAM』は全世界の聖術師を虐殺するために創られた薬物兵器としての側面を有しているので、もし、こちらの世界でも名が知られたクスリだとすれば、それを服用しているところを見られてはまずい。
 余韻に浸る暇もなく、すぐさま彼女は『DAMDAM』がタップリ余った注射器をポッケに戻し込み、水色髪の少年に微笑みかける。
「その左手についた十字紋から察するに、ドロシーはL側の人間なのよね?」
「はい、そうですね」
「なにか聖術は唱えられるのかしら?」
「はい。とは言っても、まだ僕は高度な術を全然扱えないんです。ヒーリィっていう、簡単な回復呪文しか……」
「どうして、この島で生活して――いえ。何年前から、ここで監禁労働に従事する羽目になったの? 良かったら教えて」
「うえ!? なんで分かったのですか!?」
「そりゃあ、さっきの話と、今着てる薄汚れた作業服を照らし合わせて考えてみれば、大方の予想はつくわ。あたし、ドロシーみたいな境遇の子なんて、いっぱい知ってるのよ」
「へ、へええ……僕は2年前、ベルウォードに故郷を攻め込まれて、父と共に強制送還されたんです。普段は島の真ん中にある工場で魔導兵器の部品を作らされています」
「魔導兵器? 部品?」
「僕たち製造員は、諸国が自国民を守るために生み出した対魔術用軍事バリア、通称・聖護壁(せいごへき)を攻略するための魔導ミサイル『BELL25』を造るために必要な、蒼魔玉っていう魔力のエネルギー源を大量生産してるんです。聖護壁が国全体に覆われれば、空から放たれた一切を滅ぼし尽くさんとする業火すら、その聖なるバリアが掻き消してくれるのですが、『BELL25』の威力なら、いとも容易く突破できちゃうんです。ミサイルを撃ち込まれたリベルアーツという国が滅び去った瞬間を実際にテレビで見たときは本当に驚きました。ちなみに父は『聖護壁は帝国が出現する以前の歴史において、一度たりとも破られなかった位の、凄まじい防御力を誇っていた』と仰ってたのですが……」
「……ふうん。『BELL25』ね。大したものじゃない。興味あるわ……」
 ルナはテレビ台の端に置かれた、木製の写真立てに目をやる。そこには紺色のブレザーを着たドロシーと、彼の父と思わしき中年男性が写っていた。実に人が良さそうで、目元が息子に瓜二つだ。どうやら中学校の入学式の際に撮られたようで、親子は満開の桜の下、校門の前で仲睦まじそうに肩を並べている。
「ところで、お父様、まだ帰ってきてないけど……あ、別の寮で暮らしてるの?」
「はい。隣の家に住んでたんですが、ちょうど3ヶ月前に行方不明になってしまって……」
「……やだ……なんだかブルーなこと聞いちゃったわね……あ、じゃあ、ご両親は両方L側? それとも片方がLで、片方がD? おふた方は、何か術は使えたかしら?」
「父と母の十字紋は白でした。二人が聖術を用いたところは一度も見てないです」
「使い魔を行使している場面も?」
「え?……つかいま?……ファンタジー小説で出てくるような、あれですか?」
「あら、知らなかったの? 世界中の誰もが使役しているわけじゃないけど、そんなに珍しい存在じゃないわよ。現に今、ドロシーの隣に立ってるもの。あたしの使い魔」
「うぇえっ!!??」

 ドロシーは驚きのあまり横を振り向く。

「はじめまして、こんばんは」
 恭しく左手を横方向へ水平に差し出して一礼している謎の美青年が、そこにいた。
「ゆうれい!? ユーレイ!?」
「一応、幽霊ではなく人型の精霊です……」
 赤髪の魔女は、きゅすきゅす、と笑った。ジュドは色白で、顔の上半分は普通の人間なのだが、その筋の通った鼻から下に、口がないおかげで、時々、そう誤解されるのだ。
「しかし、あんたが人前に出るとはねー」
「ちょっとした悪戯心が芽生えたもので……」
「でも急にどしたのよ? 紅茶かコーヒーでも淹れにきてくれたの?」
「私はあなたの執事ではありませんよ? ただ、ある報告をしにきたまで」
「報告? 何かしら?」
「その前に、一つだけドロシー様に聞いておきたい事が……宜しいですか?」
「ふぁ、ふぁい? にゃんでしょう?」
「昨晩、貴方に襲いかかったヒトクイキマイラの操り主の姿を、お覚えでございますか?」
「ひぇえっ!? なんで知ってるの!? 僕がキマイラに殺されそうになったの!?」
「ジュドは人間の眼を見て、対象となった人物の過去の一部を見抜くスキルを持ってるの。要は霊視の一種みたいなものよ」
「まあ中には視ようとしても視れない者もおるのですが……」
「は、はあ……えっと、ジュドさんみたいにテレパシーで喋る、黒い十字架です……たぶん」
「黒い……十字架……?」
 ルナは奇妙な違和感を覚えた。そして、なぜだか母の最期の顔が、頭に思い浮かんだ。

 ジュドの死人のような目が僅かに見開いた。
「……奴なのか? ……いや、まさか……?」
「ふぇっ? あれのこと知ってるんですか?」
「いえ、そんな者は記憶の片隅にも残っておりません。そして現時点において、私が正統な人間として認めている者は三人のみ……」
「……? で、何を報告しにきたの?」
「かのヒトクイキマイラの使い主は、まだ工場の地下に潜伏している可能性が高いと、御二人へ伝えにきたのです」
「……へっ?」ドロシーの顔が青くなった。
「玄関を入ってすぐのところに、妙な小部屋がありましたよね?  ――おそらく、あの中に仕掛けられ十字紋の隠し扉』の奥で、いまだに敵は潜んでおります」
「ど、どうして、そう判断したんですか?」
「もし私の推測が外れていたとしても、先ほど発見した隠し扉からは、魔術師の気配と、尋常ならざる殺気が漂っていたのは確かです。それに、その者が仮にベルドラード島から姿をくらましたのなら、あの紋章からは魔力が失われているはずなのです」
「じゃあ、もう、あそこには絶対に近づいちゃいけないのか……」
 魔女の王はベッドに腰掛けたまま、窓の外へ目線を向ける。今のところ夜の林からは悪意や殺意を感じない。が、沈黙の闇が我々に何らかの警告を発しているような感触はある。
 昨夜に起こった事件の概要は既に聞いている。一体、何を目的とした凶行なのかは判りかねるが、黙って看過するわけにもいかない。災いの火種は早急に取り除かなければならない。
「ルナ、さっきも言ったけど、ここから北にある工場には近づ――」
 目覚め出す。魔女の王の、紅き血が。
「ジュド、その地下自体には潜り込めた?」
「厄介ながら高度な封印術が敷かれていて、私の力では侵入できませんでした……」
 少年は黒いカンカン帽をかぶった使い魔と、その主の顔を、おろきょろと見回す。
「じゃあ、あたしのMPは満タン?」
「はい」
 すると少女の背後から、得体の知れぬ殺気が漏れ出したような気がした。
「なら話は早いわね。久々に腕が鳴るわ……」
「え!? まさか倒しに行く気なんですか!? 返り討ちに合うかもしれませんよ!?」
「仮にも私は魔術師。左頬の黒十字は飾りじゃないのよ? 第一、このままじっとしてたって、いずれ向こうから攻めにくるわ」
「で、でも、何をされるか――」

 ルナは今にも泣き出しそうな未来の恋人の、聖女のような身体を抱き締めた。
「これは魔女の恩返し。死にかけの私に何の見返りも求めずに温かいパンを恵んでくれた義理は果たすわ、命を懸けてでも」
「本当に殺されるかもしれませんよ! 僕の同僚や上司だって、きっとあいつに――」
 可笑しくて堪らなかった。魔女の王である自分が、どこの馬の骨とも知れぬ術師ごときに敗れるはずもないだろう。
「大丈夫。絶対に守ってみせるから」
 彼女はクッスリと笑った。
「素敵よ、ドロシー。ほんとに可愛くて素敵」
 そう言うと、彼の心を温めるために、二人の思い出の中で永遠に残るはずの口づけを、
 しようとしたのだ。
 

 ミギイッ ミギイッ ギュギイッ

 

 古びた鉄橋が崩れ落ちる前兆のような怪音とともに、辺りが漆黒の闇に包まれる。
 
 ミギイッ ミギイッ ガギイッ

 鳴り止まぬ不可解な凶音。
 そして皆は、視界の一切を覆い隠す暗黒のなかで、かつて体感したことのある異様な殺気を、はっきりと感じ取った。

 ミギイッ グギイッ ガギュアッ

 魔女の王は少年を抱擁したまま術を唱える。
「……MD―バリア。ジュド、分かるわね?」

「敵側も手を打つのが早いようで……」
 青年は一瞬にして姿を掻き消した。
 少年は、がく、がく、がく、がく、と怯えながら、昨夜の狂宴を思い出していた。
「ルナ、これっ、て」
 彼女は、こうした状況に追いやられる体験を、幾度も積み重ねてきた。命の危機に追いやられる場面など、慣れっこだ。
「……間違いなく敵襲ね」
「はやく、はやく逃げなきゃ」
「今は、じっとしてて。大丈夫、あたしを信じて」
 魔女は冷静に周囲を見渡す。自身の経験上――おそらく敵は、既に闇の内に潜んでいる。我々が恐怖によって怯んだ隙に、悪しき魔術を解き放ち、命を奪い取ろうとしているのだろう。術師や殺戮獣を堂々と襲撃させるよりはクレバーな戦い方ではある。神経を研ぎ澄まさねば。対攻撃魔法バリアを貼ったところで、一瞬にして葬られる可能性は、どこまでいっても0になりえない。ここは耐えろ、耐えしのげば勝てる。術によって構築された暗闇ならば、いつか必ず晴れるはずだ。だから、しばらくは耐え忍べ。
 ――やがて、しだいに闇が薄れていき、部屋のなかが徐々に見え出してきた。

 ミギイッ グギイッ ゲギュアッ

「ルナ! これなら逃げられ――」魔女は彼の震える肩を、きつく抱きしめたまま、「まだ駄目……! 焦ったら負ける……!」
 かつて一人で家にいた際、屋外から何者かの怪しげな気配を察知し、その者を探し出すために部屋の窓を開けた瞬間、サッカーボールほどの体積をもった火の玉が、自身の顔めがけて飛んできた経験から、この判断に至った。いくら予防線を張っていようと、敵方の力は未知数であり、そもそも相手の姿が判明していない現状、先ほど島中の偵察に向かった使い魔からの報告を待つのが最善であろう。

 ミギイッ ゴギイッ ゴギュオッ

 謎の怪音。獲物を待ち構えた、血肉に飢えた化物の鳴き声にも聞こえてくる。しかし辺りを見回しても、異様な存在は全く見当たらない。半開きのカーテンの向こう側を見やっても、刺客の気配など一切しない。

 ミギャアッ ミギョアッ ミゴアッ

(いったい、どう攻めてくるつもり……?)

 ミギェッ ミギュアッ ミゴガアッ

 

 バチンッ!


 ……ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッッ……突如、箱型テレビの黒い画面から、耳障りな雑音とともに、灰色の光が放たれる。
 振り向くと、そこには、アンク型の黒い十字架が映し出されていた。
「……きこえているかな、ドロシー・ファルバイヤ……そして赤髪の少女よ……」
 少年は今にも消えそうな声で、
「……悪魔だ、昨日出てきた……!」
「悪魔? 違う……我は、この不条理なる世界に苦しめられし者どもを救済するために現世へ君臨した唯一神であり、偉大なるDメイジの創造主である『ユダマ』の化身だ……!」

 二人の背筋に、まるで世界が吐き気を訴えかけているような悪寒が走る。
「さて……ぼうや。昨晩は、すまなかったね。君を『神の国』へと導いてやれなくて……私にも予知できなかった……まさか、あのタイミングで、そこにいる我が子羊に反旗を翻されるとは夢にも思わなかったのだ……!」
 魔女の王は、生き血のごとき紅い弾痕に塗れた『ユダマの化身』を睨みつけた。
「しかし女……いや、ルナ・カノン……その姿を見るのは何年ぶりか……」
 少女の頭のなかが真っ白になった。呪われし心臓が、凍てついた薄闇に蝕まれていき、うっすらと顔が青くなる。
「こうして再会できたとは夢にも思わなんだ……お前は私の声など、とうの昔に忘れているだろうが、私は、お前のことを片時も忘れたことがない……!」
 張り詰めた空気が、さらに重苦しくなっていく。十字架は薄ら笑いを浮かべる。
「しかし、なぜ貴様が、昨夜この島に辿り着いたのか……いや、見通す必要もないな。もう間もなく、Dの眷属によって『天国』へと導かれる運命なのだから……!」
 ドロシーは恐怖のあまり目を瞑った。
「……人は、なにゆえ生に固執する……物質への執着か……己の浅ましい欲求を……死すれば無へと帰す欲を満たすためにか……? まさしく悲劇! あまりに愚か! あの醜悪なる現世でガラクタのごとき幸福を求めるなど! 分かるだろう。人間が様々な意味において不便極まりない肉体を有している以上、世界が残虐となるのは当然であり、人類とは始めから生まれてこなかった方が善い存在であると。だからこそ我々は『死』を贈り、穢れきった現実から解放させ、生きたままでは到達することの叶わない神の国へと案内するのだ……ルナ、お前ならば、わかるはずだ」
 彼女は鋭い視線を、自称・神に向けたまま、少年の後頭部を優しく撫でる。
「なぜ、そんな眼で見る? 本心では私の言葉に強く共感しているにもかかわらず。こうも考えているはずだ。この現世が真に存続すべきであれば、自らの手によって己の命を絶つ者など、はじめから存在するわけなどないではないか、と。そして忘れてはいないはずだ、お前の実母であるレナ・カノンの最期の姿を! あの女の! あまりにも惨めな末路を! 笑えてこないか!? 己の身体を痛めつけてまで産み落とした我が子が、この現実において人間が幸福な生を送るなど不可能であるという真理を、自死の直前まで気がつけなかったという愚かしさに! 覚えているだろう! 奴が遺した遺書の内容を! 『ルナごめんなさい。無力な私を許さないで。あなたをこんなにも辛い目にばかり合わせてきた私を生涯呪い続けて。どこまでいっても最悪以外の何物でもない世界に産み落としてしまった、この私を……』」
 頭がおかしくなりそうだ。何が、何が狙いなのだ。奴は何のために、自分の前で触れられたくもない過去を語った!? そもそも何故、あの十字架に知られているのだ!? 己の名前や容姿のみならず、レナ・カノンの遺した遺書の一字一句まで正確に!?
「愉しくなってこないかあ? レナの生涯を思い返すたびに……いや! 幸いを希求するあまり、魂の奥底から悶え苦しむ人間の無様さを目の当たりにするたびにいっ!! ビャハッ、ビャハハハハッ、ビャハハハハハハハハハハハハアッッッッ!!!!!!!」
 薄闇のなかで、狂った笑い声とテレビのノイズに掻き消される、歯ぎしりの音。ルナのなかで交錯する、惑乱と憤怒。絶大なる殺意の萌芽。魔女の王は右手の人差し指を、灰色の画面へと向ける。自らを神と僭称する十字架を殺せるとは、微塵も考えていないが、テレビ本体を木端微塵に破壊すれば、甲高く耳障りな嘲笑なら止められるはずだ。
 だが、そう思った途端、ブツンと、テレビの電源が消えたと同時に、花火の弾け飛んだような音がした。不意に、二人の背中に熱い痛みが駆け巡る。このときは気がついていなかった。窓辺の虚空にできた、黒い瘴気の漏れ出す三角錐状の穴――魔瘴穴(ましょうけつ)より放たれた魔術の炎が、ルナたちに直撃したことを。もしMバリアが張られていなければ、ドロシーは間違いなく、見るも無残な焼死体と化していただろう。
 少年を胸元にきつく抱き寄せ、咄嗟に窓の方へ振り返ると、思わず目を見開く暇もないほどの至近距離から、火炎の龍が飛来する。          
 ドジュアッ! 流石に避けられなかった。
『未来の恋人』は、今まで体感したことのない激しい熱傷を負い、悲鳴を漏らす。
 魔女は思い出す。幼い頃、病気で寝込んだ母のために、近所の料理屋で、疲れきった身体に効くと評判のスープを、なけなしの小遣いをはたいて買おうとしたら、脂ぎった額に白い十字紋の付いていた店主から、巨大な鍋に入った大量の熱湯を浴びせられ、泣く泣く帰らざるをえなかった、悪夢の体験を。

 ――それなりに、やるのね。余程の術でなければ、バリアさえ張ってあれば、ダメージは容易く0になるはずなのだが。
 魔瘴穴が拡大する。疾風の如き速さで襲いかかる、三体の紅き龍。もう食らうわけにはいかない。何発も何発も当てられればバリアが壊れてしまう。魔女の王の矜持とともに。
 彼女は反射的に詠唱する。
「MD―シルド!」
 ……ドシュウン……。成功した。ルナの目元を狙った一体を、ドロシーの背を狙った二体を、人差し指から解き放った暗黒の盾によって、いとも容易く掻き消せたのだ。魔女は鼻で笑う。愚かね。この程度の小火で、私たちを殺そうとしたの? 魔瘴穴が更に拡大され、窓の向こう側が、悪意の充満した闇に覆われ、五つの渦巻く紅炎を視る。相手の次の出方が読めた。戦い方に芸が無さ過ぎて、どうにも敵側から賢さを感じられない。あるいは単に舐められているのだろうか?
【――ルナ様】使い魔からのテレパシーが送られてきた。【敵の居場所が判明しました】
(そのゴミ屑は、どこにいるの?)
【黒いローブを纏った三人の魔術師が、夜空を浮かびながら、術を詠唱しております。この建物の遥か真上で発見いたしました】
(すぐ、そいつらを始末しにいくから、少しの間だけ相手を見張ってて頂戴。もし怪しい動きをしたら、即座に報告して)
 使い魔への指示を終えたと同時に、再び襲いかかる業火の龍。今度は五体。十中八九、術の威力も高まっているはずだ。
 ルナは、黒く輝く靄が生み出された指先を突き出したまま、不気味なほどに落ちつき払った声で発動する。「MD―シルド・エフ」
 正面に、背面に、左方と右方に出現する、二人を護る、四つの逆三角状の闇。先ほど生成したものよりも防御力は劣るが、こちらも張っておけば死角からの奇襲に対応できるうえに、前方への守りを更に固められるのだ。
 ……ドシュン……。二重に構えられた対魔法用の盾の前に、またしても、呆気なく無力化されてしまう、邪悪なる焔。魔女の王は嘲笑の声を立てずに、乾いた笑いをしてみせる。
 今までの出方で、敵方の力量も、だいたい把握できた――もう、いいだろう。
「ドロシー」赤髪の少女は、甘く囁く。

「もう怯えなくていいわ。だって今日から、貴方は私の王子さまだもの」
「……えっ?」水色髪の“王子様”は、ぶるぶると身体と声を震わせながら返答する。
「あたしの背中にしがみついてくれる?」
 少年は『未来の恋人』の頼みを、何の躊躇いもなく聞き入れた。
「そのまま、ありったけの力で抱きしめてて。絶対に怖い思いなんてさせないから」
「……? ルナ、何を……?」
 彼女は、彼の問いかけには答えず、微かな声で、詠唱する。
「DW(ダークウィング)・エステクト」 
 ルナの双肩に、蛍の光のような、二つの闇色の球が降りてくる。それらは魔女の王に、透明色の巨大な翼を授けるのだ。
 さあ、鳥籠から抜け出すときはきた。
 彼女は彼を背負ったまま、高らかに叫ぶ。
「オーバードライブモード、スタート!」
 少女の全身を貫く、覚醒の閃光。
 ふたりの足元に、魔の風が渦巻く。
 ドロシーの恐怖の涙に濡れた目が見開かれた。

 

 

 

 

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 風に風に風に風に風に風に風に風に風に押し上げられて押し上げられて押し上げられて押し上げられて押し上げられて、ジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェエッッッッッッッッッッッッッッッッッット!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! どういうわけだか天井をすりぬけている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 22時35分の夜空に木霊する絶叫!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 幼い頃、父に連れていってもらった遊園地のジェットコースターより速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ねえルナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナどこまで上昇するの僕たち!?!?!?!???????????わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ体を横に傾けてグルビュゴしないでシートベルトなんてついてないから落っこちちゃうからあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 魔女はクスススと微笑みながら思った。ヘンねえ。これまでの人生で、ここまで速く飛び回れた日なんて、ありはしなかった。今日は、オツキサマよりも高いところへ辿り着けるのかもしれないわね。でも、そこには、きっと私たちにとっての楽園なんてない。ドロシーだって、そう感じるに違いないわ。今は、こなすべきことをこなさなきゃ。
 急にスピードが緩やかになった。ジェット機が気球へと早変わりしたかのようだ。頭がフラ・クラしてきた。
 すると少年は驚愕の声を上げた。魔女の王は囁く。「あいつらに見覚えがあるの?」
「帝国だ……! ベルウォードの魔術師……!」
 2人から50mほど離れたところに、標的はいた。ジュドからの報告通り、たしかにドロシーの暮らす寮から遥か真上に、黒いローブを纏った三人の男が、黒表紙の魔導書を開きながら、何らかの術を詠唱している。
(あの胸元に付いてある、『BELL』と刻まれた十字の紋章は……嗚呼、やっぱりそうだ。あの日、僕たちの故郷に突如として侵略してきた、地獄からの使者たちだ……!)
 ターゲットが建物から脱出し、そう遠くない位置から自分たちが観察されている現状には、幸いにも、まだ気がついていない様子だ。“壊す”のは容易だろう。しかも現在、ルナとドロシーの肉体には透明化の呪文(ダークウィング・エステクトは、使用者に高度な飛行能力を与えるだけの術ではない。詠唱者と、詠唱者の身体に触れた者を、壁のすり抜けのできる透明人間へと変化させられる、極めて汎用性の高い魔術である)が施されており、並の術師ごときには、絶対に見破られるはずもない。
 けれども重大な懸念事項があった。
「……一つ、聞いていい?」
 彼は首を小さく傾げながら、「は、はい?」
 魔女は指先に殺気を込める。「人が殺される瞬間って、見慣れてないわよね?」
「は、はい……みたことは、あるけど……」
「でも、ここで彼等を殺さないと、きっと私とドロシーは助からない。我慢してくれる?」
「……はい。がまん、します」
「これから唱える呪文は、ひどくシンプルで、この世で最も残虐とも言える魔術よ……だから、しばらくは目を閉じてて。お願い……」
「……わかりました」
 少年は彼女の頼みを聞き入れた。
 魔女の王は、禁忌の術を唱える。

 

 「バベル」

 

 ――奇襲は成功した。
 三人のうちの一人の四肢が、夜に轟く爆音とともに、いとも容易く切り裂かれ、胴体の四つの切断口から大量の鮮血が噴き出し、ばびゅらららららららららららららららららららららららららららと天使の子守唄が響き渡り、ひらり、ひらり、と、桜の花片がアスファルト上へ舞い散るように漆黒を纏った両腕と両足と、死した男の手から離された魔導書と、生首の生えた黒い達磨が、堕ちてゆく。
 二人は、仲間の無残極まりない最期の瞬間を目の当たりにして、悲鳴などあげられず、ただ呆然としていた。だが両者とも、すぐに錯乱し、「フレアードラ!」「フレアードラ!」と、炎の魔術を乱発する。彼等の眼にはルナたちの姿が映っていなかったために、五匹の焔の龍は滅茶苦茶なところへ進んでいく。偶然にも、そのうちの一匹は少年の方へ向かってきて、彼の右足を焼き尽くそうとしたが、「MD―シルド」の力によって雲散霧消する。そして、たまたま彼女の目元に飛来してきた、小火のような一匹の幼い龍。魔女は、顔から足の爪先までを防護している靄状の黒い盾を、下へ少しずらし、敢えて避けようとせずに、鼻で笑いながら、そのまま受け止めてみせた。まるで熱が感じられず、火というよりは、そよ風の類だと思った。
「バベル」
 ――2体目の撃墜に成功した。

 最後に残った術師は、恐怖に取り憑かれ、けたたましい絶叫を張り上げながら、ルナの目の前で背を向けて、本拠地である帝国へ戻ろうと、この場から迅速に逃げ出そうとする。彼の金切り声に反応して、つい目を開けてしまったドロシー。魔女の王の唇が歪む。
「ディバインベル
 男は術によって、あらゆる動きを封じられた。手足が拘束具に繋げられたかのように動かず、術を詠唱しようにも喉から声が出ない。
 そしてルナは呟く。

「バベル」。
 少年は驚愕した。あの恐ろしい帝国の魔術師が一瞬にしてバラバラに分解されたという現実を、にわかに信じられなかった。いや、そもそも、これは本当に、この世の光景であるのか? 夜空に浮かんだ人間が、いきなり両腕と両足が魔の力によって削ぎ落とされ、赤黒い液体が島中に散らばるなど、夢としか思えない。こうも思った。おそらく自分は今日、本物の魔術というものを初めて見たのだと。一人の術師の、無惨で、どこか幻想的な死に様を目の当たりにして、恐怖心よりも、驚異の感情が強く芽生える。
「ルナ、ありがとう」
「あなたは……あたしのこと、こわくない?」
 ドロシーは屈託のない笑顔で言う。
「たしかに、さっきの呪文は怖かったけど、ルナは綺麗で優しくて恰好いい女の子だと思うし、ちっとも怖くないですよ」

 胸が苦しくなった。嬉しさのあまり。過去の罪業を知られていない後ろめたさのあまり。赤髪の少女は深い息をつく。わたしと慈しみ合おうと、愛し合おうとした者は皆、例外なく無残な最期を遂げた。だから本当は、あたしと、この子は、出会っちゃいけなかった。かつて自分が生きていた世界とは何から何までが異なっていれば話は違っていたのかもしれないが、よりにもよって、別次元の世界でライトメイジとダークメイジの名を聞かされる羽目になるとは。生の悪夢からは、未だに逃れられないというわけか。
 だが戦うほかにないのだ。この果てしなくグロテスクな現実と。なぜなら愛する者から、無垢なる信頼を寄せられているのだ。「綺麗で優しくて格好いい」とまで言われたのだ。彼と刹那のあいだだけでも、同じ時間を共に過ごしてみたいのだ。たとえ、それが許されざることだと分かっていたとしても。