TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 5章

『衰弱の島』――正式名称はベルドラード島というのだが、その孤島で強制労働に従事する、明日への希望を見失った労働者の間で流行した、禍々しい俗称である。
 島の中央部には、小規模で錆びれた工場があり、そこは奴隷たちの働き場。小さな牢獄の内部に漂う、過剰なカビ臭さと、日々の過酷な労働が、従業員たちの精神を絶望の谷底に突き落としていた。
「……つかれたぁ……」
 工場員の一人、ドロシー・ファルバイヤは、『配給広場』にて溜息をつく。
 あの大惨劇の起こった翌日、唯一生き残った彼は、いつも通りの時間に出勤して、これからのことを工場長や非番の作業員に相談しようとしたのだが、始業時間になっても管理者と自分を除いた製造員が全員来ない。当然、そんな状況で作業をするわけにもいかず、工場の外に出て、暫くの間、島中をくまなく捜し回ってみたが、結局は徒労だった。どこへ行っても、人影すら見当たらなかったのだ。
 おまけにベルドラード島の北部にある漁村で暮らす、工場関係者以外の人々まで行方不明になっていた。嗚呼、どうすればいいのだろうか……とアレコレ考えているうちに、いつしか12時半、配給の時間になっていたので、ドロシーは配給広場に赴いたのである。
 その広場はドロシーをはじめとした労働者一同が住む、コンクリート製の古い借家に囲まれている。中央部にピラミッド型のオブジェが設置されており、この置物こそが島の工場員にとっては唯一の生命線なのだ。
 彼はオブジェの頭頂部についた挿入口に、昨夜、体調を崩し食欲が著しく欠けていたために使わなかった『配食チケット』を差し込んでみた。果たして、現時点でも食料は配布されるだろうか……。
 ポワン! 軽やかな電子音が鳴った。
 ピラミッドの底部に取り出し口が表れた。そのなかにはビニールに包まれたコッペパンと、紙パックの牛乳が入っている。
「やった!」 一食分の食事を確保できただけでも幸いだ。これで昨夜出会った赤髪の少女に、ささやかな食事を与えられる。ドロシーは早速、彼女の居る自宅へと向かった。
 あの人、もう元気になってくれたかな? 

 

 目覚めると、灰色の天井が映っていた。寝心地の悪いベッドから体を起こし、辺りを見回すと、どういうわけか打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた、狭い部屋に運ばれていた。室内には埃をかぶった壊れたテレビ、冷蔵庫、クーラー、『13時前には帰ってきます。それまでは、ゆっくり休んでいてほしいです』と拙い文字で記されたメモが置かれた檜の小机があって、日常生活にはさほど困らなそうだが、本当に必要最低限の家具しか置かれていないため、全体的に殺風景である。
 ここは夢の世界かと頬をつねってみた。痛い。たぶん、現実だろう。ルナは頭を抱えた。この家に導かれる以前の記憶が、極めて曖昧で、そもそも、なぜ、ここで寝ていたのだろうか。ただ、昔読んだ冒険小説『マリーの冒険』に登場するキマイラに似た化物を反射的に葬ったことだけは、薄らと覚えている。
 もっとも己の忌まわしい過去や名前は忘れていなかったが。赤髪の少女は嘆息を漏らす。 
 ぴいぃ♪ ぴいぃ♪ 
 ベージュのカーテンを引き開けると、淡い陽の光が陰鬱な影を差し込んだ。
 窓の外には満開の桜の林が広がっており、赤みがかった土壌には、聖女の処女膜のような花片が散らばっていた。薄紅色の樹木の枝先には、一羽の可憐な雀が、殺戮という概念を知らない哀れな鳥がとまっている。
 ぶしゃぶしゃにしてやりたい。魔女の王は愚者どもの阿鼻叫喚、鏖殺の焔を夢想しながら、窓を押し開けた。凍てつく風が吹き込んだ。熱い怒りが込み上げてきた。ルナは瞼を閉じる。腹の底で渦巻く、殺意の暗黒を解き放つために、紅の精神を研ぎ澄ませ、大いなる破滅を願い、魔女は雀の“核”を、じっと見据えて、「バベル」――そう唱えようとした。
 だが――こん、こん、とドアをノックする音がした。驚きのあまり心臓が飛び跳ね、カーテンを勢いよく閉じて、びくびくと部屋の中を見回しても、当然、誰もいるわけがなかった。客人だろうか。自分を保護してくれた、この家の住人が戻ってきたのだろうか。
少女はコートの右ポケットに常備してあるナイフを震えた手で握り締めた。がちゃり。扉が開かれ、何者かの足音が、ひたひたと聞こえてきた。目眩がする。身の毛がよだつほどの、おぞましい吐き気がやってきて、鼓動が早くなる。しんと張り詰めた空気が、魔女の王の血潮を滾らせていく。彼女は息を荒げながら、あの鳥を殺す前に、まず足音の正体が、かつて絶滅させたはずの、正真正銘の人間がたてるものであるかを確かめようとしていた。そうであれば、たとえ自分を保護してくれた恩人であろうと、絶対に容赦はしない。雀などよりも遥かに罪深き種族を、生かしておくわけにはいかない。
 かちっ。部屋の住人が、天井の電灯のスイッチを押す。薄暗い室内が一瞬にして明るくなり、彼女の視線の先にいる人物の姿が、はっきりと映し出される。
 ルナは目を見開いた。
 まるで時の流れが止まったような感覚が生じ、暖かい何かが心の中に溶け込んでいった。
 そして、なぜだか、すごく懐かしい気持ちになって、一筋の涙が零れ落ちそうになる。
「あ、た、ただいま、かえりました」
 少年は弱々しくも透き通った声で語りかける。「あ、あの体調の方は、どうですか?」
 少女は真っ赤になった顔を俯け、首にかけたドブネズミのペンダントに視線を移し、それを右の掌で、せわしなく弄りだす。
「えっと、きのう、仕事場で倒れていたから、僕の家に運んできました」
 ……しごとば? 目線を僅かに上げ、もう一度、彼の澄み切った瞳の青空を見つめてみると、頬から炎が吹き出そうになった。
「あ、元気になるまでは、しばらくここにいてくれても平気だから、今は安静にしててほしいです……あ、そうだ」
 そう言うと、両腕に抱えた紙パックとパンを、檜の丸いテーブルの上に置いた。
「もう1時ですね。もし食欲があったら、これ食べても大丈夫です……あ、すみません。苺ジャムとかマーガリンとか無くて……」
 藍色の目を剥く。物盗りのごとき手つきで、真っ白なパッケージに『メグミルク』と記された牛乳パックと、ビニールに包まれたコッペパンを掴みとり、小刻みに痙攣する両手で、不器用に袋を破り捨てると、死に物狂いで喰らい出す。そして紙パックにストローを勢いよく差し込み、頬をへこませ、上体を反らしながら、一気に喉の奥へ注ぎ込む。食べきって、ふう、と満足そうに息を吐くと、ミルクの薄べったい容器を握り潰す。
 水色髪の少年は、飢えた獣の形相に呆気にとられたものも、心の底から重荷が取り除かれた気分になり、軽やかな爽快感を覚えた。
「よっぽど、お腹が空いてたんですね」
 そう言うと彼は、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「あ、まだ、ゆっくり寝ててください。いくら体調が良くなったからって、お医者さんに診てもらったわけじゃないんですから」
 清潔で愛くるしい笑顔が、女を昂ぶらせる。

 ドロシーは玄関から部屋へと繋がる短い廊下に向かう。台所の銀色の取っ手のついた白い引き出しの中から、余っているはずのチケットを探しだす。華奢な体つきに比例した、極めて食の細い体質が幸いだった。しかし、たったの2枚しか見つからず、心の奥が暗い雲に覆われる。今日なんとか食いつなげたとしても、明日からは飢餓の生活を送らざるをえない。配食の管理を担う工場長や漁村の人々が行方不明になった挙句、この島には果樹園や野菜畑などの農地が一切ない。これからは野草を主食にすべきか。しかし草の適切な調理法や、毒草の見分け方を知らない。あるいは海辺で魚釣りをしながら糊口を凌ぐべきか。釣竿は持ってないが、あの漁村なら釣竿など道端にでも捨てられていそうだ。けれども台所の古びたガスコンロは壊れていて火が点かない。
 深い溜息をつく。嗚呼、自分の扱える呪文のレパートリーの乏しさに嫌気が差す。疲弊した肉体を癒す術のみならず、もっと色々なものを使いこなせるようになれば、もう少し楽に生きられるはずなのだ。

 ルナは、口づけの雨で汚したくなる少年の頬を、うっとりと観賞していた。すると彼の横顔に、ふと憂いが生じたのを見て、何気なくベッドの傍にある冷蔵庫を開けてみる。そのなかには、水玉模様のパッケージに『アクアジュエル』と記された、冷たい飲水の入った一本のペットボトルしかない。
(ねえ、ジュド……)固いベッドに寝転がると、コンクリートの壁の上を、のろのろと歩き回る、魔女の王の『使い魔』に尋ねかける。
(あの子、まだ昼食とれてないの?)
【はい。どうやら彼は昨夜から冷やしておいた、ペットボトルに入れた水道水だけで我慢するようですね】
(……さっきのパンと牛乳、本当は、あの子が食べるはずだったの?)
【ええ、無情ながら正解です】
 嗚呼、実に居たたまれない気分だ。
【だが貴女ならば、彼の空腹を満たせる呪文を唱えられるはず。なのに、なぜ、そんな顔をなさっている?】
(ジュド、怒らせないで。私が、できるかぎり他人のために術を使いたくないことを、あんたは、よく知ってるはずじゃない)
【重々承知の上で申し上げております。しかし、どうしても、かの少年を微笑ませたいのなら、やむを得ないのでは】
 そう言うと、青いローブを纏った細身の美青年は、薄暗い天井の底へ、沈むように掻き消えていった。

 仕方ない。あの少年に暗く沈んだ表情は似合わない。ルナは魔術師としての信念を押さえ込み、低く掠れた声で呟く。
「……オルド・リム……」
 部屋の方から彼女が、はじめて何らかの言葉を発したのに気づくドロシー。そして次の瞬間、なにか柔らかい物が落ちたような音も聞こえてきた。振り向いてみると、思わず心臓が縮みあがった。見間違いかと思い、恐る恐る足を進め、ふたたび丸い机の上を凝視すると、つい腰が抜けそうになった。
 そこには、さっき少女が胃に流し込んだはずの、ビニールに包まれたコッペパンと、未開封のメグミルクが置かれていたのだ。
 赤髪の少女が、「ね、ね、ねえ」と、会話のキャッチボールが極めて苦手な人間のように話を切り出した。「お、おなか、すいてる?」
「こ、これ、どうやって出したの、ですか?」
「いいのよ、そんなこと! で、どっち!? 食うの!? 食わないの!?」
「だ、だいじょうぶです。僕、小食なんで」

 と、言ったそばから、ギュル・ラ・グーと、愛らしい腹鳴りを起こしてしまうドロシー。 

 テーブル越しで正座をしている少年の恥じらう様子を見て、ルナの刺々しい目つきが、だんだんと蕩けていく。赤髪の魔女はクスススと幽かに妖気のこもった笑い声をたてた。
「せっかく用意したんだから、食べなさい」
 少年は困惑しながらも、いそいそとプレゼントの包装を解く。ビニールをゴミ箱に捨て、何の味もないパンを口元に運び、あーん。むしゃもぐ、むしゃもぐ。牛乳パックの飲み口にストローを差して、こきゅ、こきゅ。
 眺めているだけで女体が、poooooooooooooooooooooo!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「あ、ありがとうございました」
 食べ終えると、ちょこんと頭を下げて礼を言った。しかしルナは軽い苛立ちを覚える。どうも心のどこかで自分を警戒しているせいか表情が固く、戸惑いを隠しきれていない。
「もしかして、まだ足りないかしら?」
「あ、いや、じゅうぶん、です」
「ふーん……ところで、好きなデザートとかあるかしら? あったら教えて頂戴」
「……ええっと…………ホットケーキ」
 魔女は、机の上に添えられている、彼の白い紋章のついた左手を ! と、一瞥すると、のそのそと彼の傍に近寄って、それを握り締める。少年の小さな背中が、びくりと震えた。
「ねえ、なんていうの? 名前」
「あ、えと、ドロシーっていいます」
「ふうん……女の子、なの?」
「…………いちおう、男です」
「どうして私を見殺しにしなかったの?」
「……え? 死にそうだった……から?」
「あたしなんかを助けたら、世界が滅びるよりも恐るべき災いが、ドロシーの身に降りかかるかもしれないって、そう感じも考えもしなかったの?」
「??? い、いえ、まったく」
「そう……そう、なの」
 赤髪の魔女は、ドロシーの優美な左手の甲に、無数の破滅を呼び寄せてきた右手を乗せたまま、あの呪文を再び唱える。
「……オルド・リム……」
 すると少年は驚愕の声を発した。
 音もなく虚空が切り裂かれ、白い皿のような天井灯の真下に、四本足の丸い机の真上に、魔力の漏れだす黒い渦が現れる。そこからカラスの羽を生やした食器たち――白い大皿に乗った焼きたてのホットケーキと、メープルシロップの入った透明色の容器が、ゆらゆらと舞い降りてきたのだ。
「すごい! すごい!」
 青々と光り輝く眼を瞬かせながら、惜しみない賞賛の拍手を贈る。
「たべてもいいんですか!?」 
「そりゃあ、もちろんよ」
 ドロシーは、皿に添えられた手術用のメスのようなナイフと銀のフォークを持つと、ふわふわのホットケーキを器用に八等分する。そして円を描くようにシロップをかけ、そのうちの一切れを舌の上に運ぶ。極上の笑顔で、もぐ、まぐ。もぐ、まぐ。
 ふたりは限りない幸福感に包み込まれる。嗚呼、まさに、いくら金を積んだところで、絶対に手に入らないもの。
 少女の惚けた口から、にひぇひぇ、にひゃひゃひゃー、と馬鹿みたいな声が漏れ出す。
 いつしか八分の一になった魔法のデザート。彼は言った。口周りについた甘い食べかすを拭き取ろうともせずに。
「最後の分、よかったら、いかかですか? すごく、おいしいですよ」
「…………………………」
「……あの、僕の顔、どこかヘンですか?」
「…………………………せて……」
少年は首を傾げた。「は、はい?」
「……………………って……させて……」
「……え、ええっと……?……」どうにも言葉の一字一句を、うまく聞き取れない。
 彼女は気恥ずかしさを胸中へしまいこむのに苦戦しつつも、魂の奥底から言葉を絞り出す。

「……あーんって、たべさせてほしい……」
そう言って眼を俯ける彼女を、不思議そうに見つめるドロシーは不意に、くすりと笑う。
「あなたは変わった人です。でも、お安い御用です、お姫さま」
 軽い冗談を口ずさみ、残ったパンケーキをフォークで刺しとり、その麗しき口元に差しだす。赤髪のプリンセスは、餌に飢えた雛鳥のごとく、ぱくう! そして、ふぁむ、ふぁむ。まるで仲の良い姉弟のように、あるいは幸福な恋人どうしのように二人は微笑みあう。 
「食後のシロップがたっぷりかかったホットケーキは、やっぱり格別ですよね」
 収まらない胸の高鳴り。世界のすべてが壊れてしまいそうで、もう抑えきれない。少女は欲望のまま、彼の痩せこけた身体に飛びついて、きつく、きつうく抱き締める。
「ひゃっ!?」

 あわおろ、と困惑するドロシー。
「あたし、ルナっていうの」

 未来の恋人の肩にもたれかかりながら、「いっしょに昼寝したい。眠くなっちゃったの」
「ひるね? 今から? 僕と?」
「ドロシーとなら、悪夢にうなされる気がしないんだもん、ぜんぜん……」
 急に不思議な気持ちになった。自分はルナという人物について、まだ多くのことを知らなすぎる。同様にルナもまた、初対面である自分がどのような人間であるかなど、全くもって分からないはずなのだ。にも関わらず、なぜ彼女が子犬のように甘えてくるのか、よく分からなかった。
 ただ、それが本心から口にしたものであるのは分かった。ツリ目の下に浮かび上がる真っ黒な隈と、ぴくぴくと痙攣する両の瞼が深刻な眠気を主張していて、言葉の端々から痛々しいほどの切迫感が伝わってくる。そして彼女の細い両腕は、飢えた肉食獣に睨まれた子鹿のように震えている。
 だから彼女を安心させるために言った。「はい、僕なんかと一緒でよければ」
 穏やかな声音だった。深い感動を覚えて、つい胸を掻き毟りたくなって、強い衝動に駆られて少年をベッドの上に押し倒す。嬉しさのあまり、顔を幸せそうに緩めるルナ。性別を男に変えて以来はじめて異性に、それも綺麗な顔立ちをした女性に覆い被さられて、頬が薄桜色に染まるドロシー。

 やがて赤髪の少女は、すうすうと安らかな寝息をたてはじめた。目覚めるまでの間は、その至高の抱き枕を、けして手放そうとしなかった。ドロシーは、しなやかで力強い腕のなかで、これから先のことをアレコレと想像していたが、いつしか瞼が重たくなっていき、ついには彼も、くうくうと静かな寝息をたてはじめる。