TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「味噌汁の温もり」

 瞼を閉じ、母なる温もりに口づけをする。故郷の景色が色鮮やかに移りゆく。田園風景、寂れた町並み、清らかな川に支えられる鉄道橋。両の手を静かに下ろし、目を開ける。机の上には、たくさんの和布と豆腐と一寸法師がリラックスしている大きなお椀がある。まるで何名もの五歳児たちがドラム缶風呂にギュウギュウ詰めになってまで浸かっているかのごとき、お汁物である。まったく、こいつらは、これから全員、一匹ずつ順番に、私の口の中に放り込まれる定めであるのに、随分とまあ呑気そうで結構なことだ。
 このアパートに引っ越してきてから、滅多に飲まなくなってしまっていた味噌汁に、再び口をつけようとする。ところが泥棒の気配がしたため、棚の裏に隠された木刀を手に取り、机の側からゆっくりと離れ、忍び足で玄関に向かっていった。窓の外を見渡してみると、可愛い子狸が、昼の光を浴びる駐車場で今にも死にそうになっていて、必死で生気を全身から放っていた。
 この子には何を食べさせれば良いのか分からなかったので、とりあえず味噌の溶かされた熱いお湯から一寸法師を一つだけ摘み出し、まだ幼い狸の口元に差し出してみた。すると、不思議と、すんなり受け容れられた。ほぐもぐ、ぽぐもぐ、と、生まれたばかりであるような子どもにしては奇妙なほど鋭くて丈夫そうな歯で、神経質な性格を現すかのようにネチネトと、彼の全体を味わっている。
 単なる茸の一本ごときに薄気味悪い奴だと感じ取り、それを子狸が食べ終わる前に素早く室内に退散し、そして素早く味噌汁を食べ終わらせた。そして眠たくなってきたので布団の中に潜り込んだ。足元から、何かが潜り込んでいるような感触が伝わってきたのだが、なぜだか、これに殺されるなら本望だと思えてくるのであり、神経を鈍らせる甘い匂いが、どこからともなく鼻を刺激してくるので、平凡な明日は果たして訪れるのだろうかという期待と不安が、もうすぐ、胸一杯になりそうだ。しかし眼前の暗闇が濃い。あまりに濃い。