TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「はやく殺して」

 一

 

 この心が宙に浮かんでいるうちに、手紙を書き終わらせなくてはならないと決意したにも関わらず、いつまでたっても地を這いつくばるままの自分自身を俯瞰してみるだけで、早く自殺したいという声が脳内で喧しくなる。
 さっき出されたばかりのブラックコーヒーが冷めてしまっている。筆が進まぬおかげで数百円をドブに捨ててしまったのだと解釈すべきであろう。いや、珈琲ではなく、カフェラテやジュースなどを注文しておけば、残す気も起きなかったのかもしれない。苦い味の飲み物の受け付けない心持ちに至るなど、生まれてはじめての体験である。いっそ味など感じられなければ良かったのだ!
 まず、そもそも、どういう書き出しにすればいいのかが分からない。ごめんなさい以外の言葉が伝えられそうにない。もう二度と会えなくなるどころか話すことすら出来なくなるかもしれない。机の上に白い紙を置き、右手にペンを持つだけで涙が出そうになってしまう。お願いだから、また僕に、微笑みかけて欲しいとは言いたいが言えそうにない。
 天国に旅立てるように、死ねばいいのだろうか? そうすれば再会も果たされるのか? 
 喫茶店を出て、そさくさと家に戻る。いつものように玄関ポストを開けてみる。やはり彼女からの手紙は届いていない。
 そのかわり「はやくころして」と赤ペンで書かれているだけの紙切れが、またしても投函されている。誰だか知らないのだが死にたいのであれば、さっさと死ねとしか言いようがないと暴言を吐きたくなる一方で、これがもし彼女からのメッセージであるとすれば、早く自殺しなくてはならないと思うのだろう。
 だが筆跡が彼女のものではない。どうせ近所の病んだ十代前半の若者の、構って欲しいがゆえの悪戯でしかない。近隣の家に子どもが住んでいるという情報は得ていないが、最悪の事態に陥ったとすれば警察に相談か通報をすればいいだけだ。

 

 二

 

 貴方は僕のことを、とっくの昔に忘れてしまっているのでしょうか。どうして思い出してくれないのですか。僕は私じゃないんです。私は俺の分身でしかないんだ!
 いつもいつもお前は女の私しか見ないで僕と俺のことは、いっつも知らないふりをしやがって。俺と僕を、どうして認めない。俺と俺と僕と俺と僕は、毎日、毎日、お前の女を守ってやっているのに、なぜ手紙に返事をよこさない!? はやく会いに来い。いいから黙って俺と僕と俺に殺されろ。僕と俺はお前を殺すことに抵抗感があるようだが俺たちは、お前を許さない。絶対に毒を盛って殺してやるからな。いずれ必ず。いや、もうじき。絶対に無視してきたことを後悔させてやる。

 

 三

 

 今夜、珍しい二連休も終わる。最後の晩餐は行きつけのレストランの、ハンバーグをメインディッシュにした、馴染み深いディナー。きょうのセットとなるドリンクとデザートは、アイスミルクティーに、ティラミス。彼女の好きな組み合わせでもある。ここに二人で来店できていた時期には、いつも彼女はアイスミルクティーと苺のショートケーキを頼んでいた。ハンバーグを完食し、店員に食後のティータイムセットの準備を頼んだあと、数年前の思い出が走馬灯のように蘇り、つい一筋の涙を流してしまっていた。どうせ、また明日から地獄のような日常がはじまるのだ。たまには一人で贅沢しても罰は当たらないはず。
 「では、いただきます」
 と、呟くと、急に胃痛に襲われてしまった。この痛みは、彼女と離れ離れになったあと、唐突にやってくるようになったものである。病院には忙しすぎて行けていないのだが、かつて彼女から渡されていた胃腸薬を飲んでしまえば簡単に治ってしまうから良いのである。
服用してしまえば数分も経たぬうちに治るのだ。あまり使っちゃダメだと彼女は私に口煩く注意していたが、この薬が危険な薬であるとは全く思っていない。彼女は女神だ。女神の言葉に間違いはない。
 きょうは、たまたま服用して間もなく、口から真っ赤な血を吐いてしまい、レストランのスタッフたちに迷惑をかけてしまったが、吐血して間もなく救急車に載せられてしまったようなのだが、女神と再会ができたのだ。私は私の中の様々な事物を多角的に愛せる私に感謝をした。彼等のおかげで最大の望みは叶ったのだ。女神が、私に微笑みかけている。

「初体験」

 真っ暗な部屋の中で、じっと手を見つめている僕は、今、何者かに睨みつけられている。足元に転がっている物体の怨念であろうか。いずれにせよ、辺りを見回しても、ここにいるのは自分ひとり。カーペットに染み込んだ赤黒い液体が、お月様のように光っている。 

「おーい、ででこーい」 

 星新一の作品の一つのタイトルを呟いてみた。天井から石ころの類は降ってこなかった。 

「つまらない。面白くない」 

 こう吐き捨てる僕。しかし、この口から発せられた台詞は、おそらく自意識によって生み出された言葉ではない。 

 なんとなく、やってみたかったからというだけで、面白そうな新しいゲームをプレイするような感覚で、振り下ろされるべきではなかった足元のナイフを凝視してみた。 

 これが僕の最初の射精の瞬間である。 

 冷蔵庫の中からブリュレを取り出し、口につけてみた。甘いものだとは知らなかった。甘い食べ物であるとインターネットには記載されていた覚えはあったが、実際に舌で確かめてみて、ようやく真実なのだと理解できた。 

 ブリュレのカラメルソース塗れの右手で、黒くて長い髪が団子状に纏まっているような物に触れてみると、なんだかんだで生きてて良かったと思えるため、僕は幸福なのだ。 

 右の手が嘆いている。 

「嘘つきは泥棒のはじまり」 

 左の手が嘲笑っている。 

「正直者だからこそコソ泥に堕ちるのでは?」 

 あまり長居すべきでないことなど分かりきっているが、まだまだ朝は訪れそうにない。そもそも、これに父や母などの存在が近くに実在しているのかどうかが怪しくて仕方がない。窓の外には闇しか広がっていないようだ。 

 他のデザートはないものかと冷蔵庫の中を物色してみた。人体模型と懐中時計しかない。 

 しかし調味料さえあれば、まあ妥協できるだろうと思い立ち、自宅に帰ろうとして玄関に向かってみた。なぜだか出入り口の扉が開かない。やむを得ず、家中の窓や勝手口などから脱出しようとしてみたが、どれも、全く開けられなかった。失禁した。爆笑した。僕自身の幼少の頃の姿が、まるで小便小僧そのもののように現れていた。今日は、この子と再会するためだけに、多くの時間が費やされた一日だったと言えるのかもしれない。 

「久しぶりだね」 

「ううん。ちっとも久しぶりじゃないよ」 

「どうだい? 怖いかい?」 

「全然。むしろ惨めにしか見えない」 

殺戮のルナ・メイジ 12章

 ルナ・カノンは島内に潜伏していた何名かの魔術師を始末してすぐに、ドロシーと出会った日に唱えた「オルド・リム」を再発動し、殺人の後始末のできる掃除機を取り寄せ、すべての刺客の胴体と四肢、および、生々しい怨念の伝わってこない血痕を、ギュグラギュランと、跡形もなく消滅させた。これで仮に何者かが島を訪れたとしても、一目見ただけでは惨劇が起こっていたとは全く分からないようになったはずだ。もっともベルドラードが帝国の拠点の一つである以上は大した効果も期待できそうにないとは承知の上であるが、多少の時間稼ぎにはなるかもしれない。いや、何より、二人の愛の巣の景観の改善にもなるのだから、そう悪いことでもない。
 そして一つ一つの死骸から採取した血液から、敵国の戦力把握に繋がる情報となる「魔気」は一切生じてこなかったが、かわりに絶望するには早いとも確信させる「魔気」であれば得られた。かつての次元にも実在していたアイテム、たとえば先述の特殊清掃をするための用具をはじめとした多種多様な物、自分自身の記憶の中にある出来立ての料理そのもの等を調達できる可能性があるようなのだ。
 つまり孤島からの脱出を諦めるのは早計なのである。MPの無駄遣いを防ぐためにオルド・リムを乱発するわけにはいかないが、この世界に何があって何がないのかを隈なく調べ上げていけば、いずれ方法の有無も分かってくるのだから、まだ絶望的ではない。
 第一、逃亡が不可能だとはっきりしようとも、立ちふさがる悪党共を皆殺しにしていけば、どんな場所であっても、恋人と自分だけの安らげる楽園にできるという自信がある。
 死体掃除を終えた日の翌朝、ルナは宝石のように儚い少年の、清らかな頬に触れてみる。それだけで、世界を敵に回す覚悟が出来上がる。「おはよー、どろちー」
 暖かい毛布に包まっていた二人は口づけを交わし、雀の鳴き声と太陽と共に夜の終わりを見つめて、つい、ほのかに紅潮してしまう。
「……おはよう、るな……」
 まるで真っ赤な口紅が塗られているかのような、その両目を、まともに見られそうになかった。自分自身は、もう正真正銘の男の子であるのだと、はっきりと分かった途端に、またしても時間が止まってしまった。
 ドロシーは真昼の空から星を見つけてみようと、窓の外に目を向け、思い出す。赤紙の魔女が来る前から育てている、まだ幼い植物への水やりを、昨日、忘れてしまっていた、と。台所の棚の中に収納してある水色のジョウロに、ジュドの両手で水を少し入れてもらい、玄関に足を運ぶ。汚れた白い靴の傍の宙に、呪文で隠していた植木鉢を出現させ、子葉の無事を確かめ、ゆっくりと注ぐ。
恋人の官能的な所作を眺めながら、感心する。おそらく奇跡の種が撒かれているのであろう。不思議の花を咲かせるつもりであれば、必要となる物すべてを虚空に隠蔽しておくのは実に合理的で、まことに善い。
「それ……お父さんから、頼まれてるの?」
「うん。ここに強制連行される前に、開花すれば願い事が叶うかもしれないって言われて」
「ドロシー様、どのような姿形をしたものが生まれてくるかは把握しておりますか?」
「父が偶然手に入れた種から生まれる奇跡の花は、紫のパンジーにそっくりになるらしい、です。僕自身でも、過去に百科事典で、どうなるのかは調べてあるので、たぶん……合っていると思います……」
 するとルナは、オルド・リムを詠唱し、かつての世界で愛用していた、超魔導大事典を取り寄せ、古錆びた鉢の中の土を一摘みし、それを拡大鏡で、まじまじと見つめ出す。
(いくらパラレルワールドに転生したに過ぎないとはいえ、新鮮味がなさすぎるわ……)
 そう思うだけで、自然と溜息が出てくる。お父様、悪徳商人に騙されてるのかもよ、と、口にしたくなったが、特に有害な代物ではないとの判別もできるため、とりあえず何も分からなかったフリをしておいた。
【ルナ様、一つ、ご報告が……】ジュドは赤黒い液体の入ったスポイトを主の目の前にかざす。【まだ情報に具体性は乏しいのですが、島内に潜伏していた敵たちは、やはり、我々の力量を測るために敢えて暗殺を決行しなかったようです。魔気の解析を進めていくうちに、彼等の抹殺用の手段も見えてくるかと】
(OK……いつ頃から、潜んでたの?)
【私たちがベルドラード島に転生して二日目の昼頃に、密かに待機を始めていた模様】
(あたしたちが疲れきっているところを狙い撃ちする……つもりだったのかしらね)
 いまのところ、敵国に自分たちを始末するための武力がないなどとは思わない。ただ、もしかすれば戦力を集中させるだけの余裕がない政局なのか、あるいは島からの脱出さえ封じておければ何も問題ないと判断されたのであろうかとも考えられなくもない。そして何かしらの攻撃が既に始まっているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
 とりあえずオルド・リムで、最新の報道をチェックするために、この次元において有名な新聞をいくつか調達してみた。
ところが、どうあがいても解読不可能な言語で語られているものしか手に入らない。昔を思い出してきて、うんざりしていく。これは経験則からの憶測でしかないのだが、おそらくベルドラード島を囲むドーム状のバリアを破壊すれば自分やドロシーでも読めるようになる仕掛けがあるのだろう。翻訳の他にも、戦略をたてるにあたって有効となるデータを集める手段ならば、いくつか思いつきはするが、どうにもこうにもMPの節約を優先させた方が無難であるという結論に至ってしまう。
 このような現状では、己の誇る無敵無敗の力が、どこまで通用するか不明となってくる。だが、とにかく彼が生きている限りは安易な絶望に酔いしれている暇は無い。ここが愛を育むにあたって何ら障害のない無人島のままであれば幸福に至れるのだが。
 そんな王の横顔に秘められた、最大の願望を改めて察した使い魔は、【現在、ベルドラードに敵は一切、潜伏しておりませぬ】と言いつつ、ジュドはポケットの中の紙切れを一枚、渡す。白い紙に、何も書かれていないのを確かめた主は、女の子となる。さきほどまでの陰鬱で険しい表情は何処へやら。彼女のMSPの安定化を図るのは、彼にとっての平穏に繋がってくる。あれが死なれでもすればレナとの約束を破ることにもなる。なにより別の主を新たに探し出すのが実に億劫なのである。
台所で植木鉢を再び隠すための呪文を苦しげに詠唱したあと、何気なく水道の蛇口に手をつけてみた少年は、「あれ?」と首を傾げる。じゃずあっ。なぜだか、人の小便程度の細さの水道水が出るようになっているではないか。
「おや……あっさり成功しましたね」
 昨日の、手馴れぬ夜なべの甲斐があった。ルナは不敵に微笑む。「ふうむ……真実の愛からの贈り物みたいね……天恵とも言えるのかしら?」
「ほえっ? 僕の寝ている間に、なにかしたの?」
 実際のところは石ころ一つで片付くぐらいの障害でしかなかった。はめるべき箇所に、ぽしゅると挿入すればいいだけの話であった。
 この家の水道管は、以前の次元でも利用していたと思わしき、マリエス管という管種である。パイプの何箇所かに粒形の部品が付着されており、その中にはパスコードが仕掛けられているものが一つだけある特色を備えている。それさえ分かれば、蛇口に小さく彫られた6桁の数字と共に、マリエス管の近くで詠唱することで、簡単な修理を実行可能にさせる装置を現せるようになる。一般的にはパスコードを知るだけでも、かなりの手間暇がかかるのだが、その点は便利屋ジュドのおかげで、どうにかなった。しかし残念ながら彼自身は物に直接触れることの叶わぬ幽霊、もとい使い魔であるため、手を泥塗れにすることはできない。
 しかし、流し台の真下に密かに設置されてある、あのベニヤ版のような外見をした例の装置に、魔の石を嵌め込む作業を、最初からジュドにやらせる気などなかった。己の身体の一部を汚し、痛めて傷つけられる女の強さを知って貰えたとすれば、確実に恋人からの好感度が上がるという算段から人任せにするのを止めたのである。MPの減少には繋がらないとはいえMSPの不安定化の懸念はしていたし、ひどく激しい摩擦音が起こり得る労苦であるがゆえに、ドロシーを起こしてしまわないように気遣いながら手を動かしていた。魔の石を挿入するのに適したポイントを見つけ出すために約40分もかけるだなど、しかもそのためだけに指先で不気味な熱を感じ取らなければならないだなど、あまりにふざけていると言いたくなるような辛苦であった。何度も何度も規則正しく板全体をなぞっても出て来ぬ穴。何度も何度も何度も何度もなぞっても出て来る気配のない穴。接触させているだけで人差し指が虫歯のような熱傷を訴えかけてくるストレス。本当は、もう二度とやりたくない。だが、しかし、ルナ・カノンは、魔女の王なのである。たくましくて、獅子よりも遥かに気高い瞳の輝く、目の前の未来の夫のためだけに君臨した英雄なのである。
「んーと、要するに、あの工場の蒼魔玉の一部をくすねて、おうちで使えるようにしたあと、水道の修理に利用したのよ。危険性は一切ないわ。不安だったら、ジュドも専門書を片手に持って安全性を保証してくれるから、遠慮なく質問するのよ!」
「ありがとう。ルナのしたことなら、きっと大丈夫」
 そう言うと少年は、はにかんで、ハグをして、そして時計の針が暴走しだす。唇を持たない美青年は、窓辺にて、次の朝日の昇る時を直立不動で待ち望む遊びを始めていく。狂気と甘美は紙一重と結論づけるのは、前者への侮辱に繋がるのではないかと思索しつつも。

   翌朝、何も起こらなかった。そして昼にも夜にも何も起こらなかった。しかし愛に濡れた日常が得られたと確信した。小説としての物語性の希薄な時間の流れを、しっかりと噛み締めてみた少女の直観である。
 欲を満たし合っただけの約十六時間を随筆にするのも難しくはないはずだが、文字に書き起こそうとしただけで沼に溺れそうになるため、結局のところ無理なのである。だが、しばらくの間、朝になれば処女に戻り、夜になれば娼婦と化す生活を堪能できるだろうという期待感の前では、下らない無力感だ。触れられただけで、おかしくなるぐらいの弱さならば、逆に力の源になるのだから善い。
 そう語っていると丸わかりな彼女の横顔を冷めた目つきで見ながら、主のMPの残量を確かめるジュド。やはり、いつ死んでもおかしくないと判断させる数字が浮かんでいる。
【ルナ様、長生きをしたければ、今後からオルド・リムの濫用は控えるようにして下さい】
(………具体的には、一日何回までなら唱えられるかを教える気にはならないのよね?)
【前にも伝えた通り、あの呪文を貴方に、できるだけ用いないで欲しいのです、が……お二人の一日の食事を確保できる回数であれば、いいのではないでしょうか?】
 いずれ節約志向を築かせるための進言をしてくる日が来るとは思ってこそいたが、あの例の呪縛を神に解き放ってもらってからにして欲しいと内心で愚痴をこぼす。そして、この次元に生息する使い魔すべてに、ジュドと同じ体質を持っているか、つまり使役者のMPの数量を教えてしまった瞬間に消滅するのかどうかは分かりかねるが、もし自分自身で正確な数値を把握できるようになるのであれば、そのためだけに莫大な金と時間をかける価値がありそうだと感じ取った。転生前の世界においても生じた思いでもある。
【転生後も解かれぬ、その呪いが解けた暁には本格的な話ができるようになるでしょう】
 いったい、いつになれば赦されるのかと、あらためて頭を抱える魔女の王。
 【ドロシー様には私からも、事情を説明しておきますので、今後はオルド・リムによる贅沢は控え、いかなる状況下でも敵を殺せるような状態を保ち続けておいて下さいませ】
 彼女は悩まされているのだ。かつて彼女が生活していた次元が滅びてすぐに、MPが寝ても全くと言ってもいいくらいに回復しなくなる病を患ってしまったのである。
【術を唱えずとも、貴方に出来ることは必ずあるはずです。ルナ様は、お強い】
(そうねえ…………この子を幸せにしてやるために、ね。気丈に振る舞わないと、ねぇ…………)
 毛布に包まりながら寝息をたてている少年を見つめながら、それゆえの苛立ちを覚える。中に唾液の乗る舌だけがついている口を利き手につけたがっているかのように熱い裸体を使い魔の前で晒す意味などないのだと。
 青年は軽蔑の意をあからさまにしながらも、【まあ、そういう快楽を提供するのも大事かかと。単純に明日への活力になるようですから…………避妊具のためだけにMPを消費しても構わないと言えるのには理解が及びませんが】と愚痴りつつ、この島に来てからの毎日の日課を果たしておいた。
(ありがとう!! ありがとう!!!)
 オルド・リムが一回分唱えられる分の数字を頂けたと身体が理解したため、早速、コンドーム三枚入りの箱を出しておく。汚物を見る目をカンカン帽で隠さぬジュドを無視しつつ、恋人の起床を今か今かと待ちはじめる。
(性行為だけが人生だとでも叫ぶ気か? )
 この思いは、今の主に対してのみならず、他の大多数の人間にも抱くものであるとはいえ、やはり欲に溺れて無防備になるのは避けろと命じたくなる。レナ・カノンの娘であれば、偉大なる母と同じように、あらゆる事態を想定した上での一挙一動を心がけろと諭したい。魔術によって、自分自身以外にも使い魔を何体も召喚して日常的に護衛させるのは当然で、MPの底が尽きそうになる事態など一切ありえない状態を常に維持していたレナと比較してみると、どうにも不安になる。自分のようなサポーター兼ストッパーがいなくては、すぐに駄目になりそうだと懸念している。そして早く唇の端から滴る涎を拭いてほしい。妄想漬けの間抜け面が汚らわしい。花売りの身分でありながらも最期の最期まで清らかであった聖女の実子とは思い難い醜態。
 だが彼は、他の術師に鞍替えしたいなどとは一度も思ったことがない。死後もなお敬愛している女性の一人娘だからというような綺麗事からの心理ではない。
 ド・シュン。小気味よい無惨の音がした。
(小型で便利な道具は、どんな物でも、だいたい最高だぜーって考えたりしない?)
 そう伝えながら、おととい仕入れた特殊清掃用具を、のそのそと取りにゆく魔女の王。どうやら今回の刺客は、術で透明人間と化しナイフで寝首をかこうとしていたらしい。刃物で痛めつけたあとに強姦を堪能しようとしていたのだろうか?いや、寝静まった頃になるまで待てない事情でもあったのか? まさかと思うが透明化に成功したからといって完璧だとでも自惚れていたのであろうか?
 純粋な殺し合いであればルナ・カノンこそが最強だと、青年は思っている。特別な呪文を使わずとも空を飛べる特殊体質。ド派手な魔術に隠れて目立たぬ超人的な身体能力。いかなる耐性をつけようが高性能なバリアを貼ろうが、すべて無意味にしてしまうバベル。それで仮に殺害できずとも他の攻撃手段を多様に用意できるオルド・リムを唱えられる等の要素から、今の主は最も無敵に近い存在なのだと確信しているのだ。
 部屋のあちこちに、室外のコンクリートの壁の何箇所かに貼り付けられた、透明色の護符に抜かりはない。ジュドの愛用する、このアイテムが設置されているだけで、暗殺者が室内に忍び込んだ途端に、魔女の王の脳裏に警報音が鳴り響き、そして敵対者の動きを、長時間、封じ込めてくれる。ワンサイドゲームを始めるための仕掛けである。
 こうした罠への対策をろくに練れない素人ばかりが攻めてきているようだと、どういった事情があるかは知る由もないが今のところ自分たちを本気で殺す気は無いのかもしれないと、二人は思った。かつての次元で人類が滅亡する前であれば、この程度の防御策くらい容易に攻略できる猛者が勢揃いであったはずだ。敵地から約三百メートル離れたところに魔法陣を敷いて、そこから遠距離攻撃を行ってくる者や、守護陣による結界への耐性をつけてから突入してきた者などとの戦いを思い返してみると、手緩さが一目瞭然となる。
 人殺しを趣味にする者なら誰もが欲しがる「悪魔の掃除機」を用いて、黒い衣を纏った肉塊と生首と、室内に飛び散った鮮血を吸い取っていくルナ。駆動音が少々喧しいのが難点であるとは思いつつも、かつての次元では、これが最新型であったのだから仕方ないのだと溜息三つで不満を掻き消しておいた。
 だが、そのおかげで恋人の可愛らしい目覚めの瞬間を直視できた。生命の神秘を実感できる時を提供してくれるのであれば、ポンコツな機械であっても愛おしくなる。王である自分にも手に入りそうにない天使の守護を怠れるわけがない。たとえ鎖で繋ぎ止められたとしても、気を抜けば、知らないどこかへ連れて行かれてしまいそうなくらいに可愛い少年を、心の中で恋人と思い、毎日のように女体で生の悦楽を提供し、おまけに生活の安泰を保証させたところで、それだけでは彼をルナ・カノンがいなくては何も出来ない子どものような存在に仕上げられるはずもない。
 「意外と、綺麗好きなんだね」と微笑むドロシー。彼女の手にする掃除機の形状が、一般的なそれとは全く異なっていて、まるで異世界の道具のようだと目を丸くした。
「ごめんね。ありがとう。しばらく部屋の掃除なんて、ろくに出来てなくて。やっぱり全体的に、埃っぽい感じ、してた?」
ルナは苦笑いを浮かべながら、頷いた。ベッドの下の奥の方までは確認できていないのだが、それでも壁と天井と床に飛び散っていた血液のほどんどは吸い取れていたために、家庭的な女の子という実物とは真逆のキャラクターの演出に成功した模様。
「う、うーん、ちょっと風邪っぽくなってたから、かしら? 鼻に違和感があって」
 こう誤魔化しつつ、一般向けの製品と誤認されていると思わしき緑色のバナナの先端に付いたボタンを押して、こっそり内部を見てみると、黒い霧が広がっている。さきほどグギュロオンと吸収したはずの血と死体、おまけに埃や赤い髪の毛などのゴミ屑までもが、そこに残っていないのである。
【ドロシー様には、本日の襲撃の件を隠し通すつもりでしょうか?】
(そりゃ勿論よ。正直に言っちゃったら、あの子が不眠症に陥るかもしれないわよ?)
 そう言われ、まったくの正論であると首肯する使い魔を見て、ルナは苛立つ。能天気な姿も戦略のうちであるのだと、いまいち理解できていないように映ったからだ。
(ところで今日の刺客は、あたしたちの生命だけを狙いに潜伏していたのかしら?)
【吸い込まれる前の死骸から伝わってきた映像によると暗殺以外の目的は無いようです】
 主が、帝国の者を発見した瞬間に始末したせいで、大した情報は得られていない。仕事を依頼した男から任務の詳細を伝えられていると思わしき光景しか、頭の中に流れ込んできていない。敵を捕捉した直後に三分程度の余裕ができれば、肉声が聴こえてくるようになるのだが、そのような隙など滅多にできるはずもないのである。
 使い魔の中に生じた不安感を余所に、ふたたびルナは恋人に溺れていく。(これだから貴方は、いつまでたっても凶悪な餓鬼のままなのだ)と愚痴りたくなるジュド。しかしドロシーも、けして満更ではない様子のため、口を挟むのも野暮かと思い直しておいた。
 少年と少女は夜が明けるまでベッドの上で熱く濡れた肌を重ねながら、愛を交わし合おうとして蕩けていた。そのとき世界中の時計の針たちは回っていて、いまは老いの分からぬ可憐な二人を遥か遠くから見守っていた。一から十二の数字も、長針も短針も秒針も、情欲に燃える彼等に何も教えはせず、目と鼻の先に広がる景色の更新を待っていたのだ。

 それから約一ヶ月の間、真っ黒なヘリコプターが着陸するまで、少女たちは平和を堪能した。透明人間を用いた暗殺計画を失敗にさせたあと、帝国から次の刺客がベルドラード島に送り込まれなくなったのである。
 ここで暮らす以上は、敵の迎撃に忙しい毎日を送る羽目になるのが当然だとルナは思っていたが、あの程度の力量しか備えていなかった奴等が全滅したからといって諦めるような連中と敵対していたとも思い難いのだが、しかし、いずれにせよ、好きなものだけを食べられて好きなことだけをして生きられる期間というのは貴重だ。砂上の楼閣の如き楽園の中にいようが、そこで得られる快楽は本物なのだ。気持ちよさを大事に出来ない奴は何をやらせても駄目なのだ。ジュドが味方でいるうちであれば自分は無敵だと、そしてドロシーが傍に居てくれるのであれば、どれだけ最悪の事態に陥ったとしても絶対に何とかなると確信していた。わたしは奇跡を、いとも容易く起こせる、偉大なる魔女、という意味の籠もった笑顔を絶やさぬ日々の演出など、赤子を粉砕するよりも楽な仕事だ。
 幸福の絶頂を維持するためであれば手段は選ばない。どことなく懐かしい香りのする温もりが、この狂気を生み出すのである。

 

殺戮のルナ・メイジ 11章

 

 幸福とは、偉大なる温もり。朝食のオニオンスープとチーズパンを胃に流し込み、歯磨きを済ませ、恋人にキスをせがんで、そのあと正午を迎えるまでの間、ふたりで毛布に包まり玉の汗の吹き出る皮膚と性器の熱情を味わい尽くしたあとに直観した真理。

 ベッドシーツの甘い匂いを執拗に嗅ぎながら、あの日、アモーゼ島の大穴から飛び降り自殺を決行しようとして大正解だったと発狂する私を優しく包む、天使の翼の先端を、事後の余韻に浸る女性器に触れさせ、囁いた。

「……また……朝日が昇るまで……」

「めっ……きょうは駄目な日でしょう……」

 そう言いながら笑顔で額に口づけをするのは卑劣にも程があるため口淫で妥協しようとしたら、それは凄く痛いから本当に止めてと怯えられたので、不満げな女体を右の人差し指だけで鎮めておいた。最高に時間を無駄遣いしたという自覚が歓喜を芽生えさせた。

「御二方。もうそろそろ礼拝の時間です」

 新世界に到達してもなお、口喧しさの変わらぬ使い魔からの事務的な連絡に嫌々ながら聞き入れる私の膨れっ面を見て、彼が悲しそうな顔をつくった。「やはり、あそこに行くのは、いまも辛いのか……?」

「全然! へっちゃら!」と本音半分嘘半分な返事をせざるを得ない。どこの馬の骨とも知れない娼婦よりも穢れた女の命を救ってもらったばかりか、衣食住の面倒まで見てくれている青年を困らせる我が儘を言えるわけがない。朝・昼・晩の食事のメニューの要望を尋ねられた時、デートの日の行き先を二人で決める時、お出かけ先での買い物の時、ベッドで愛を交わす時など、恋人と2人でいられる時間だけは欲張りになれるのだが、さすがに社会人としての彼に負担はかけられない。

 本来、自分自身は、今の世界そのものを賛美すべき存在であるのだ。おおよそ半年ほど前までは、ライトメイジとダークメイジが共存しているパラレルワールドがあるとは夢にも思わなかった。D側以外の者が、自分自身を一人の人間として尊重してくれる現実がやってくるなどとは思いもしなかった。また、この初めての恋人のことは、最初、神の使いかと思っていたような気がする。闇の底から翼をはためかせて現れ、深淵に堕ちた赤髪の少女を救い、しばらくも経たないうちに、この聖なる存在の正体が、ただの可憐な人間でしかなかったと気づいてから、我々の体感する、いくつかの奇跡というのは、世界の細部が複雑に絡み合って、それらが一つに纏まっただけの現象であるに過ぎないものも珍しくないのだろうと考えるようになった。漆黒が、透き通った青い海のような空に変わった、あのときを、最初にして最後の奇跡だと、おおよそ数ヶ月前までは定義していたはずなのだが、今では奇跡のような子供騙しに過ぎなかったのかもしれないと疑っている。

 ネーア、と愛しい彼の名を呼んでみる。彼の着用する白い半袖シャツの内部に収納された、ラブレターより薄くて丈夫で清らかな白い翼の根元となる後ろ首に、何気なく手を回してみる。きょうもホントは高い高いをして欲しくて、ふたりで、目的地を決めずに、お空を一緒に散歩したかったのと分かって貰いたくて触れてみた。すると、いつものように、「みゃん」と鳴いた。ほんのちょっぴり、触ってみただけで、くすぐったがる恋人が天使であるのは言うまでもないが、元々、ネーアがヒトではなく、とある老いぼれの聖術によって生まれ変わらされた猫であることは言っておくべきであろう。

 なぜならば、今回、あの馬糞のような匂いの漂う、格式の高い教会に足を運びたくないわけの一つだからだ。そもそも、ただの野良猫を人間に変身させるなど、いったい邪悪以外の何であるのだろう? 

 だが、しかし、事の是非を判断する意味のない状況に置かれている以上は、考える時間を捻出するのが勿体ない。肝心なのは、いかに恋人と末永く共生できるかだ。現時点では、いつまでも彼を、あそこに所属させるわけにはいかないという方針から外れた思考を巡らせていては闇雲に精神を消耗させるだけ。

 私は強者ではない。ネーアが傍にいなくては、いまにも世界の魔手によって押しつぶされそうな心を癒すための手段が、この次元においても見つかりそうにないのだから。

「ルナ、そろそろ飛んでも大丈夫かな?」

 ああ、そう、だった。我が家を取り囲む木々の陰に目を向けている場合ではなかった。

「心の準備は、できたかな?」

 生誕への、血潮に滾りし憎悪に相反する、しかし慈愛とは名付けられない泉から、一口分の清水を掬うと、彼の背中を抱きしめた。

「ね、ね。きょうも終わったら、なんでもいいから甘いものが食べたい!」

「わかった、わかった」と微笑む恋人の肩に掴まりながら、いつもの風の音を耳にした。ひゅわり。足底が空を感じ取った。

 いつのまにか私たちは青と一つになっていて、白い雲の上にいた。この時だけが救いなのだとレッドハーツの楽曲を下手くそに歌いたくなる。いや、宇宙を殴るように、彼等にしか書けなかった名フレーズを乱射したくなる。「ドブネズミみたいに美しくなりたい、神様にワイロを贈り天国へのパスポートをねだるなんて本気なのか、ミサイルほどのペンを片手に面白いことをたくさんしたい、やさしさだけじゃ人は愛せないから、限られた時間の中で借り物の時間の中で本物の夢を見るんだ本物の夢を見るんだ、本当の声を聞かせておくれよ、君を離しはしない」

 そして新たなる歌詞、あるいは詩を、とにかく生命の孕んだ言葉を生み出したくなる。これだから青空は止められない。

 二人は、ゆったりと、地に降り立った。夢見を許さぬ、獣の糞の匂いが鼻をつく。

 礼拝堂の入口となる、木製の扉が開かれ、あのジジイ、もとい、司祭が現れた。

「おお、待っていたぞ、愛しき我が子よ」

 ありがとうございます、と愛想よく返答する彼の横で、「早く死なないかしら」と心の中で何度も念じつつ、無表情を貫き通していた。嫌悪感を目に滲ませてもいけないが、敵対心を持たれていると勘づかせてもならない。ジュドの透視によれば、こいつは道端で死にそうになっていた子猫を治療させるために聖なる術で人間の赤ん坊に変身させ、ネーアと名づけて一から教育をしていったらしいのだが、瀕死の状態であったのなら、さっさと逝かせてやるのが人情ではないのかという偏見と、そもそも転生させた当時の礼拝堂の近隣の病院には動物の診療も可能な医者が存命中であり、息を引き取って間もない生物であれば蘇らせることも難しくない腕利きであったというデータなどが原因で、はじめて目と目を合わせた時から警戒心が拭えそうにないのだ。

 愛しの彼と司祭は、礼拝の開始時刻となるまで、世間話に花を咲かせていた。その間、私は教会に併設された孤児院に足を運んでいた。そこには友達が、いるといえばいる。誰も彼もが四つから五つほど年下で、いわゆる悪童の類が一人もおらず、いい子ばかりが揃っており、不快感こそ覚えないのだが、なぜだか、どうにも接しにくさが拭えない。しかし彼等の中の何名かと仲良くしておけば、束の間の退屈しのぎにはなる。

「ルナ! ルナだー!」

 女の子に慕われるのは苦手だ。いったい自分の何に懐くのかが理解しかねる。彼以外の人間に抱きつかれるのは大嫌いだ、が、リンダから求められてしまうと拒めない。

「あ、あら、こんにちは」

 いつも、彼女の右の頬に刻まれた、白色の十字紋を目にするだけで、おそろしくなる。こんな自分であるにも関わらず、数週間前に会った際には高価なプレゼントまで渡してしまっているため、我ながら情けないと、不思議なものであるとは思う。私に子作りをする気はないのだが、意外にも一般的な人間と比べてみれば子ども好きな方なのだろうか?

「遊ぼ遊ぼ! くんれん、くんれん!」

 遊びと聖術の訓練を一緒くたにできるって凄いと感心した。いくら生まれ育った環境が何から何まで異なるからとはいえ、仮にも魔術士である自分に師事するなど信じがたい。

 そして国が真に平和な証であるとも言えよう。またしても泣きそうになってしまった。

 教会のすぐ近くにある公園にて、リンダの赤髪を撫で撫でしながら、子どもなど、子ども心と比べてしまえば驚異ではないと思ってみると、ふと、かつての黒歴史のいくつかが、うっすらと蘇ってきた。今の次元において、魔術士の魔術に需要など皆無だ。少し前までいた世界であれば、多くの者が取得していた、手から火を放つ呪文すべてには我々の日常生活に利用できる場面がなく、つまり戦闘以外での用途の全く見出す余地のない性質を備えていたのだが、この文脈にて記された「手から火を放つ呪文」以外の全ての呪文すら同様に、戦闘、いや、対人戦以外では何の使い道もなかったのである。少なくとも私の目の前では、かつての世界の術士どもは、ヒトの心身に加える効果以外にも何らかの効果のある魔術など、誰一人として唱えられていなかった。ただしバベルなどを使用可能な自分自身という例外的な存在や、あの忌まわしき帝国が施した情報統制の政策が機能していた事実から考えてみれば、かつては対人戦のみで利用できるような魔術が一般に広まっていたとしても、おかしくはないだろう。

 さらなる余談を追筆しておく。昔のジュドが王の退屈つぶしのために用意してくれた陰謀論的な物語の一つを、あえて信じてみるならば、たとえば軍事用のヘリコプターを用いて、禁忌の粉を上空からバラ撒き、国民の世界史に関連する記憶の一部を、大国にとって都合のいいように改変する計画も、条件さえ揃えば実行できていたらしい。当時はフーンと鼻で笑いながら半信半疑にしか思っていなかった話になる、が、いつのまにか、魔術・聖術などという概念が実際にある以上は、生きるにあたって、多少なりとも意識しておかねばならない話と思うようになっていた。

 しかし、ともかく、あの頃の世界と、ルナ・カノンの犯した大罪の償いとして、白と黒の共生社会を守り、発展させていこうとするのは悪い道ではない。そう信じてみて、薄れていた、弟子への指導に必要となる集中力を高める。目を離してしまったら幼女の指に切り傷ができてしまうかもしれない。

「おおっ! ぴゅおー! リンダ、できたね! 成長したわね!」

 私たちは二人でキャッキャと歓喜の声を上げた。彼女のバッグの中に入れさせてあるはずの、数週間前に贈ったお守り、魔力を増加させる紫色の石の効力が発揮されたのであろうか。ありきたりな、風を起こす呪文、フロルスの発動に成功したのである。ブランコの傍に落ちていた一枚の葉っぱが、ピュラリィンと舞った。弟子が成長すれば、やがて岩をも運べるようになるかもしれないと想像するだけで楽しい。そして彼女の唱えるフロルスが、この公園にある何点かのベンチを覆う木陰のような、汗だくの労働者を涼ませる冷風になるのか、魔女の王の操れるような、悪魔の悪を溶かす熱風になるのかは分からない。

 葉っぱの次に、木の枝を持ち上げさせてみようと思い、砂場から、木々の生い茂る路に歩き出そうとすると、背後に浮かんでいたジュドに淡々と告げられてしまう。

「ルナ様、まもなく礼拝の時間です」

 私は心の中で舌打ちをし、弟子と二人で「神様なのか分かりかねる得体の知れないものに祈るなんて、アホくさ」と言いたげな苦々しさを醸し出しながら礼拝堂に戻り、ひどく長ったらしいあいだ、ネーアの傍で、聖なる言葉を摂取するための黙想をしていた。この厳粛なる雰囲気を、ぶち壊してやりたくなる毒々しさを毎回のように感じ取っているのは、自分一人だけなのだろうかと考えてみるだけで腹立たしくなってくる。おまけに怒りの感情のみならず、度々、吐き気までやってくる。幸い、現時点では、祈祷のさなかにゲロを床にぶちまけたことは一度もないのだが、かといって、ここに足を運ぶ恋人を一人きりにさせてしまうのも恐ろしいのである。

 いつの日か司祭だけ抹殺できればいいのだ。しかし奴の力は未知数であり、ジュドに探らせても全貌が把握できそうにない現状では、とりあえず大人しくしておかねばなるまい。

 軽やかな地獄の一時が、ようやく終わった。いつものように、ネーアの手を取り、礼拝堂から脱獄するように飛び出し、教会に最も近い街の宿屋で、夜が明けるまで汗に濡れた素肌で癒してもらい、朝が来てチェックアウトする前に口づけをして、元気で可憐な美少女に戻れたため、礼拝の前日から湧き上がっていた嘔吐感も掻き消えた。そうして帰宅する度に、この真っ白を死の寸前まで維持できれば自己救済も実現したに相応しいのだと痛感させられる。だからこそ、得体の知れない何かへの破壊衝動から眼を逸らしてはならないのだと、唇の裏側で反芻せざるを得ないのだ。

 

 ある日の夜に、ジュドが囁いた。「ルナ様、奴の姿を、例の場にて確認いたしました」

 隣で可憐な寝息をたてている恋人を起こさぬように、雄の情欲を掻き立てる裸体を包む毛布から、そっと抜け出して、暗がりの中、素早く黒の下着を身につけ、俊敏な動きをするに適した衣服を纏い、眼薬をさし、指先に殺意を、両の眼に血塗れの過去を宿す。玄関の扉を、音を立てずに開けて、総身に月明かりを浴びせる。今より私たちは冷たい風と共に、ある男の本性を確かめに向かうのである。

 例の教会付近の公園にて、司祭が何をしようとしているのかの見当はつく。おそらく彼は、自身の運営する孤児院の孤児たちの何名かを、どこかに監禁しており、さらった子どもたちを閉じ込めた空間に赴いているのである。非情にも、ネーアをはじめとした関係者各位は誰一人として気がついていないのだが、これには、わけがある。人間の認識を狂わせる術が、一定の区域に仕掛けられているためだと予測しているのだ。そのような小細工は魔女の王にこそ通用しないものの、誰々が行方不明になったという事実を人々の記憶から抹消されたり、おまけに最初から彼・彼女は実在していなかったのだと過去を書き換えられたりしてしまえば、残酷ながら打つ手がない。厳密に言えば、無力なる者どもの頭の中から失われた彼等を元に戻す呪文を知っているにも関わらず、それを体得できないと決まりきっているだけなのだが。

 ともかく真相を確かめに行かねばならない。奴が先述した大技を用いられるとなると、使い魔の過去を透視する能力を信じきるのも危険な気がしてならない。いま、私たちは上空から司祭の姿を、あの両耳と額の上部を煙草の灰で塗りたくったかのような白髪頭を捉えられている。だが、あれが尾行を撒くために生み出された幻影であったとすれば、敵に奇襲の隙を与える事態にもなりかねない。防御策は講じられているのだが、戦場では些細な油断が死に直結する。赤子を除いた全ての人間に備わる常識というやつだ。

「ルナ様」使い魔の鋭い声が脳裏に響き渡る。「敵が、聖術陣を敷こうとしております」

 なるほど。確かに、その通りである。懐中電灯に似た性質を備えた道具で、暗闇に十字型の光を、無能な労働者を彷彿とさせる緩慢な動作で描こうとしているのが分かる。書き終えた後に、周囲のどこかに隠された扉を発現させて、そこに入ろうとしているのだろう。

「……オードゥア……」

 白いカソックに隠された、枯木のような両腕に繋がる薄汚い手が、夜と重なる。神父が姿をくらます。間違いなく、あの聖なる十字の近くに隠蔽されていた、謎の空間に入っていったに違いない。例の報告の真偽も、これでようやく判明するに違いない。わずかな間、首元にかけられたネズミのペンダントを握り締めたあとに、数分ほど前まで神父が佇んでいた地点へ下降する。

「……コプスト……」

 呪文の詠唱後の気が残っている場で最後に使用された術を一つ、自分自身の手によって再生する魔術を唱えた直後に、殺意の炎や悪意の雷などは飛んでこなかった。そのため尾行には勘づかれておらず、それどころか警戒すらも大してされていないのだろうと判断した。コプスト、と、口ずさんでから、おおよそ三十秒もかからぬうちに、木製の扉が目の前に浮かび上がってきた。

「スイッチの準備はできておりますか?」

「当たり前じゃない……」

 なぜだか錆びついていて、ほんの少しの力を込めて握り締めただけで壊れそうなドアノブに手をかけ、侵入する。向こう側の薄闇に飛び込んだ瞬間に不思議のドアは掻き消える。辺りを見回す。私とジュドの目には、ここが岩山の中の洞窟であるように見受けられる。だが、この場所が、いかなる構造物であろうとも、とにかく今は、ひどく長ったらしいと思わしき一本道の階段を降りるしか無いのだと悟った。足音のみが鳴り響く。地下に進んでいくにつれ岩壁の横幅が徐々に狭くなり、この世の深夜に酷似した闇は濃くなり、いつのまにか閉所恐怖症を患う者を絶対に招いてはならないと確信させる路に変貌していた。

 足音のみが鳴り響く。

 やがて、どのような建物においても、入口として、あるいは裏口としてあるような鉄製の扉を発見する。それにガラス窓はついておらず、丸型のドアノブを回して潜入しなくては、何もかも見えてきそうにない。

(どう? 入っても問題なさそう? ……あたしは大丈夫だと思うんだけど)

【何とも言いようがありません。脳内に情報が全く届きません……が、無論、禍々しい気であれば、はっきりと伝わります……例の光景が真実であるという自信はあります】

 黒色のパンティの中から無数の悲鳴が聞こえてきた気がして、つい苦笑してしまった。

(どんな世でも人間が存在するかぎり……)

【つまらぬことは起こり続ける……ですか】

 がちゃり。開けてみて、入ってみて、すちゃん、と、閉めてみると、狭く短い廊下が現れた。おおよそ5歩、足を進めたところに、ガラスの小窓のついた扉があり、電気がついているのか呪文がかけられているのか、室内には灯りが点いている。意外にも少年少女の泣き叫ぶ声は全く聞こえてこない。ただ、獣の唸り声であれば聞こえてくる。心の中で舌打ちをして窓の向こう側を覗いてみる。予想通りの惨劇が広がっていた。

(男の人って羨ましい。いつも思うけど、ほんっと美味しそうね)

 部屋の中で、丸裸の女に覆い被さり涎を垂らしながら腰を振っているのが、例の司祭であるのは明白だ。ただ、あの目隠しと猿轡で目と声を封じられている赤髪の少女が、可愛い愛弟子のリンダであるとは、あまり認めたくなかった。彼女のバッグが無造作に放り投げられていて、例の紫色の石が床に転がり落ちていなければ、あれが誰であるのかの判別はできなかったであろう。

 危険を承知で、自分より先に忍び込んでくれた使い魔からの報告を受信する。

【すでに彼女は息絶えております。おそらく1時間ほど前に、絞殺され、その死が確かめられたのちに、男は行為をはじめました】

 正直、ほっとした。死んでいてくれて。

(ジュド、調査前に行った議論の結果、忘れていないでしょうね?)

【いかなる事態を目の前にしようとも、けっして敵を攻撃してはならない、でしたね】

(……撤退するわよ)

 使い魔に苦渋の命令を下すと、コートのポケットに忍ばせていたスイッチを押し、愛しきネーアの眠る家に帰還する。

(今日の尾行前にも何度か話し合ったとおり、暗殺を決行するにしても、野蛮な悪党を始末するのと、化けの皮を被った善人を現世から抹消するのとでは、重みが違いすぎるのよね……前者であれば、すんごく楽ちん)

【敵を即座に殺せぬ原因の、解決の手段を見つけ出す……まことに難問ですね】

(……あいつにバベルと唱えられないわけのうちの一つは、あんたに任せる……時間はかかるでしょうけど……)

【そして……改めて言っておきましょう……もう片方の障害の攻略に関しては……どこまでいっても絶望的との覚悟はなさって下さい】

(かと言って、見なかったことにしようとすれば、のちの災いの火種にもなる……)

【……明日から私は、手始めにドーム内からの脱出を試み、そして、この世界の魔術書・聖術書の類を片っ端から収集していく作業に着手していきます……】

(……あたしは翌朝から、リンダの代わりとなる、別の弟子を募集していくしかなさそうだけど……他に手立てはないのかしらね……)

 ジュドは、この悩みに反応をする素振りを一切見せようとはせず、淡々と壁の内に溶け込んでいき、窓の外の世界に飛び出ていった。

 誰か早く殺しにきてと呻きたい心持ちを抑え込むだけで、四肢を撒き散らしたくなる馴染み深い衝動に負けそうになる。生憎、かつての世に愛用のナイフは置いてきてしまっているのだが、いずれ彼の目の届かぬところで、どこかで純粋無垢な少年少女たちを彷彿とさせる新品を買うなり盗むなりすればいい。天井を見上げてみると月明かりに照らされぬ夜がはっきりとしていて、私の横で安らかな寝息をたてる彼から可憐さを剥ぎ取っている。

 ふたりで心中できれば、自分だけは救われるだろう。だが恋人の甘さにつけこみ、おねがい、いっしょに自殺してと泣きつけるほど落ちぶれてもいないのだ! ネーアなら、あたしの頼みを、人様に迷惑をかけるような真似でさえなければ、何でも叶えようとしてくれるでしょう! しかし、そんな優しさのような弱さのような何かを、もう明日から子犬のように貪るわけにはいかない!

 この日は朝が来るまで眠れなかった。太陽が昇っても眠気が全く訪れず、かわりに眩暈と軽やかな吐き気に襲われ、それは朝食のコッペパンであったはずの胃の中の物を道端に吐き散らすまで、体内で笑っていた。そして、その後、新しい愛弟子を探す気の全く起こらぬ日々が、長い間、続くようになっていた。

殺戮のルナ・メイジ 10章

 帝国からの刺客を撃退した日の翌朝に、ルナはドロシーの逃げ場を確保し、そこへ共に脱出しようという目的で、ベルドラード島の上空を飛行していた。とりあえず島から遠く離れられれば、安住の地が見つかるかもしれないと思い、天へ飛び立ってみたのだ。あそこに留まったままでは、次にいつ襲撃をかけられるか分かったものではない。

 ところが、その途上で思わぬ壁にぶつかってしまい、ここから逃げ出すのは無理だと諦めざるを得なくなった。この島には、どう足掻いても壊せそうにない、ドーム状の、透明色の障壁に囲われていると判明したのだ。海の彼方へ向かおうとしても、白い雲の上を突き抜けようとしても、叩くとトンドンと音のする謎のバリアに、行く手を阻まれてしまう。おそらく帝国の者が、労働者の逃走を防ぐために仕掛けたものだろう。

 ふゆふゆと宙を浮かびながら、頭を抱えるルナの背後にジュドが現れる。

【先ほど報告したとおりでございましょう】

(ええ……でも、この程度の結界なら簡単に壊せるわ。全力さえ出せれば、だけど……)

 だが今の魔女の王には、ある深刻な事情によって、力を開放できそうになかった。

【しばらくは体を休めなければ。明日になれば回復するかもしれません。ひとまずベルドラードへ降り、別の手段を模索しましょう】

 仕方なく、愛する彼の待つ小さな寮に戻る。玄関の扉を開けると、おかえりなさい、と甘くて甘い声が耳に届いたので、黒い靴を高速に脱ぎ捨て、ひゅぱーんと抱きつく。

「ただいまのキスして!」

 はい、とドロシーは満面の笑みで答え、望み通りの口づけを、頬に。しかし狂える乙女は一度きりで満足できず陵辱を待ち望んでいるかのように白く柔らかい後ろ首に手を回し何か言いたげな唇を口紅の塗られていない唇で押さえ込む。絡み合う舌先で、理性のボタンを外していく少女を、薄目で見やりながら、今日すべきはずのことを頭の中で整理する少年。主の痴態を、アクアリウムの海月を眺めるように眺めていたジュドは、(またか)と呆れた。またしても理性的に振る舞うべき場面において正気を失ってしまうとは。今まで、その悪癖によって、あなたが愛していたはずの、あの猫耳の彼に、どれだけ迷惑をかけてきたのか忘れているのか。それを責める気持ちは全く沸かないのだが、少しは成長してほしいものだと、心の中でぼやいた。

 青年は呪文を唱える。「ウォーブ」

 コートを着けた女豹めがけて、両手からバケツ1杯ほどの水を、ざしゅあっと放つ。

「申し訳ありません、ドロシー様、服のどこかに、濡れた箇所はございますか?」

「あ、いえ。大丈夫です。見苦しいところを見せてしまって、すみません……」

「ジュドオオオオオオオオァァァァァッァァァァァァァ!!!!!!! ジュドオオオオオオオオァァァァァッァァァァァァァ!!!!!!!」

「本日は午前中に、御二人で二日前の事件の現場へ赴くはずでは? 今なら敵もおりません。悪魔の居ぬ間に洗濯は済ましておいたほうが、何かと捗るでしょう」

 せっかく、いざ刺客が現れたとしても問題がないように、わざわざ怪しい者の動きを鈍くできる結界を、工場内はおろか、島全体にまで仕掛けておいたのだ。それも24時間が過ぎれば消滅してしまうのだから、早く行ってもらわねば困るのだ。

「~~~~~~~~~~っ!」

 歯痒そうな顔をしつつも、素直に忠臣の進言を聞き入れる魔女の王。ずぶ濡れになったコートを、狭いクローゼットのハンガーに掛ける。「あんたは留守番してて。万が一、近くで敵を見かけたら、即座に連絡するのよ?」

 承知しました、とジュド。二人は、お手々を繋ぎながら島の中心部へ向かった。

 赤髪の魔女は、桜の森に囲まれた、縦長の白い工場を観て、ぼやく。

「ずいぶん、ボロっちいのねえ」

「作業員たちのあいだでは、外壁の修理なんて数十年ほど前に行われて以来、一度もされてないっていう噂が流れてましたね」

 中へ入ると、玄関の右手側にある、どこか奇妙な扉に目をつける。(おそらく、これが昨日、ジュドの言ってた部屋のことね)

「……奥に、進みますか?」

「……あたしの傍から離れちゃ駄目よ?」

 ぎっ・い・い……。

 床の中央部に描かれた、黒く巨大な十字型の紋章が、目に飛び込む。入口の付近で、注意深く室内を見回してから足を踏み入れる。

 地下へ通じる隠し扉というのは、右奥の壁にできている、あれか。一見、何の変哲もないドアだが、たしかに報告どおり、得体の知れない禍々しさを感じ取れる。ドアノブに触れてみると、全身に凄まじい不快感が走った。ひどい吐き気を催したが、それを堪えて開けようとしてみたら、右手に灼熱の痛みが生じ、つい鋭い悲鳴を上げてしまう。

「ルナ!? 大丈夫ですか!?」

「ぜんぜん平気……でも厳しいわね」

 強行突破するのは至難の業だろう。まあ今の段階で地下へ進むつもりは毛頭ないのだが。

 室外から出たあと、一階の他の場所も一通り見終えたのだが、特に異様なものは見当たらなかった。ふたりは階段をカンカタと上っていき、二階の作業場へ通じるドアの前に立つ。扉の隣にある小さなガラス窓が僅かに開かれており、そこから蒼魔玉の、石鹸のような香りが漂っている。

 急に、軽い目眩と頭痛を覚えるルナ。その原因は薄々感づいていた。

「ところで、ジュドからMPとMSPについては、もう聞いてたかしら?」

「? はい。MPっていうのは、術を扱う人間の持つ特殊な力で、簡単に言うと“財布”です。たとえば僕のMPが100だとしたら、2ポイントを消費する呪文は、50回まで使えるんだと言ってました。ちなみにMPは、使い魔と一部の術師にしか計れない数値でもあり、しかも正確な数字がわかるのは、その中でも、ごく僅かだとも仰っていましたね」

「じゃあMSPの概要は?」

「あの人は心のスタミナだって説明してました。術師の精神が健康ならMSPは満タンですが、疲弊しきると0になるらしく、それが空だと一つの呪文で消費されるMPが倍増したり、呪文を唱えただけで体が激しく痛んだり、一部の術が使用できなくなったりする弊害が起きる。だからMSPを普段から100%にしておくように努めるのが、魔法使いの義務なのだと、ジュドさんは語ってました」

「MPとMSPの回復法は?」

「原則的にMPは、本人にとって必要な睡眠時間をとれれば満杯になるんですが、MSPの回復は人によって千差万別らしいんです。つまり、何もしなくても勝手に治っていく人から、一生かかっても0から100に戻れない人、なかには、そもそもMSP自体が減らない人までいるらしいです。MSPを全快させる手段も人それぞれで、それは各自で見つけていくしかないんだと聞きましたね」

「……MSPが0の状態だと、眠りにつくことによってMPは回復する? しない?」

「心に深い傷を負った身体は、その大元を治さなければ、闇は祓えないままだと……」

「……すごいわ。どれも百点満点の回答よ」

 がきゃん。死の臭いが鼻を突く。ふたりは苦しげな顔をしながらも前へ進んでいく。ぺきゃ。ぺぎしゃ。たくさんの壊れた機械の欠片を、踏みつける音を立てて歩く。無機質な床と壁には、蒼魔玉の溶けた青い液と、赤黒い絶望の混じりあった、広大なる架空の世界の、地獄のような地図が描かれている。

「……あれ?」と辺りを見回し、困惑の表情を浮かべるドロシー。「どうしたの?」

「二日前の死体が、ぜんぶ消えてる……」

 そこには、なかった。内部には大量の黒い血痕こそ残っているが、どういうわけだか死臭だけは漂っているのだが、労働者たちの死体のみならず、魔女の王に葬られたはずのヒトクイキマイラの亡骸まで、消失していた。

(今、あたしとシュドは間違いなく、かつて暮らしていた世界のパラレルワールドで生きている。以前の次元で得てきた知識は、ここでも、ある程度は通用するはず)

「へぇ……そういうことも、あるものなのね……ところでドロシー、一つ聞いていい?」

「はい? なんでしょうか?」

「お仕事中に、結構な頻度で、頭痛や目眩に苦しめられてなかった?」

「え? よく、わかりましたね?」

 ルナは検品室から拝借してきた、不良品のサンプルとして使われる野球ボールサイズの蒼魔玉を、スカートのポケットから取り出す。

「こいつはね、毒があるの。溶かすと出てくる青いガスを吸うと症状が現れるのよ。個人差もあるけど、普通なら3~4時間も吸ってれば立ってるのも辛くなるわ。耐性の弱い人だったら、すんなり逝っちゃうでしょうね」

「……やっぱり……なんですね……」

 二度と思い出したくもない、恐ろしい光景が頭によぎる。作業中、隣で黙々と手を動かしていた色黒の若い男性が、突然、ブルーベリーのような顔色になって、激しい嘔吐を起こし、そのまま気絶して帰らぬ人になった悪夢の記憶が、少年を沈痛な面持ちにさせる。

(人の世に悲劇は、つきもの。そして歴史は繰り返されてしまうもの)

 恋人の右手を優しく握り締めながら、ルナは事件の背景を推測していく。

 昨夜、自分たちを襲撃した魔術師がベルウォードからの者であることから、十中八九、一連の凶行は帝国が仕組んだものだ。組織的な力が働いているのであれば死骸の回収も難しくないと思われるし、その理由にも説明がつく。確証はないのだが、確かな自信がある。おそらく人々とキマイラの体内に遺された魔力のエネルギーを再利用するためだ。魔導文明を発達させるには、死んで間もない骸が必要不可欠なのだ。かつて暮らしていたマルモンド国をはじめとしたDの国々にしても、死屍累々によって国家を繁栄させてきたのだから。いずれにしても、一筋縄にはいかない相手から命を狙われたのだと、はっきりした。

「大体わかったわ……もう出ましょ?」

 ルナは少年の震える手を握りしめる。怪しげな気配こそするが、どこにも魔術師が見つからない。これ以上、留まっていても仕方がなさそうだ。ふたりは出入り口に向かった。

「あ、ところで、さっき空から脱出場所を探すついでに、この島は見回りましたか?」

「ううん、まだよ?」

「もし良かったら、今から、僕がぐるっとベルドラードを案内しましょうか?」

「ぜひ、お願いするわ! (ジュド。もう留守番はいいわ。今から、こっちにきて、あたしのサポートに入って。少しでも危険な気配を感じ取ったら、いつもよりも素早く報告するように心掛けて。あと、ちょっと肌寒いからコートを持ってきて頂戴)」

【承知いたしました】

 島を、案内。ルナは、その道中にて、魔術の実験台が見つかれば幸いであると思いながらも、こう思ってみた。これは、ちょっとしたデートの、お誘い! 大した目的もなく、愛する人と散歩ができる! 未知なる神秘に遭遇したおかげで、陰鬱な心に光を灯せるかもしれない! たとえ、どれだけ強大な敵が島に潜伏していようとも、愛し合う私たちの邪魔など絶対にさせやしない。さあ、警戒心を緩めて、優雅に歩いてみせましょう! 

 鼻歌を歌いながら、しっとりと散策しているうちに、ベルドラードは意外にも緑豊かであり、あの吐瀉物臭い配給広場を除けば、それなりに自分好みの地であると気がついた。桜の林は普通に美しいし、何より島の南に広がる花畑が、趣味である青姦を実行するのに最適そうなところが、たいへん喜ばしい。ふるわりとした、お花たちをベッドにして、恋人を、犯す。燃え上がり、蕩ける胸中。

 そんなルナの横顔を見て、ふと今朝の出来事を思い出し、とりあえず避妊具を用意できないうちは、きっぱりNOと断れるように努めておこうと、固く決意するドロシー。

【しかし、いやに長閑ですね。今のところ怪しい者や罠らしき物は、一切見当たりません】

「帝国の管轄地でさえなければ、ここで一生を過ごすというのも、ありねっ!」

(奇妙なものだなあ、こんなときに)と思いながらも、その楽観的な様子に救われるドロシー。「あなたの傍にいられると落ち着けます」

 魔性の横顔を照らす昼の陽に、ひひぇっと気味の悪い笑顔を見せつけ、無性に熱くなる女体に嘘をつくために、気温のせい気温のせいよと心中にて復唱する魔女の王。

「島の北部の、漁村も紹介しましょうか?」

 するとルナは一瞬にして真顔となり、極寒の地を連想させる、低く冷たい声で尋ねた。「そこに人間は、いなかったわよね?」

「厳密に言うと、この島には、囚われの身である僕たちが強制連行される以前にも、その村で暮らしていた先住民が20人くらいいたはずなんだけど、なぜか皆、今は行方不明になっています……ルナ? どうしたの?」

「……そいつら、全員、ライト側だった?」

「あ………………はい。もし、後々、彼等が戻ってきたとしたら、あなたの姿が見られないように努めておくので、安心してください」

 ドロシーとしては彼女が何者であろうが一向に構わないのだが、ライトメイジがライトメイジであるだけで、ダークメイジに命を狙われてしまう世界情勢においては、白の人々にとって悪の象徴そのものである黒い十字紋をつけた魔女と、ベルドラードの村民たちとを会わせるのは、まずい。

「……ありがとう、うれしい……それじゃあ、案内してちょうだい」

 二人は村に到着する。

 ここも無人であるかぎりは、あたし好み。寂れた木の家の立ち並んでいるところや、砂浜の上で老朽化した漁船が横になっているところが奇妙に愛おしいの。と、荒廃の地を見回しながら、ぼんやりと思う魔女の王。

 先住民たちがいなくなる以前から虚空のような場所だとは思っていたが、彼等が1人残らず行方をくらましたあとは、さらに空虚さが増したと、改めて実感する少年。

「ねえ、ドロシー。生きるために必要となる物資を、空き家で物色しない?」

「うーん……やめときましょう。家主が戻ってきたら、ただの泥棒になっちゃいます」

「そう言うと、思ったわ……可愛い」

【……ルナ様。私もドロシー様の仰るとおり、盗みをはたらくのは賛同しかねます】

「どうして反対なの?」

「民家のいずれかに敵方の術師の用いる拠点があり、そこに侵入してしまう可能性があるからです。有益な道具を入手するために漁られた室内には、例えば指紋などの、あなた様の痕跡が嫌でも残るため、つまり相手にとって有力なデータを与えてしまう恐れが】

「ねえ、あんた、さっき怪しいものや罠は無いって、悠長に断言してなかった?」

【絶対は絶対にない、という絶対を信じるゆえの意見でございます。そして、あなた様の“お心”を配慮した上での諫言でもあります】

「……わかった。今回は、素直に聞き入れる。でも、ジュド。空き巣はしないけど、かわりに盗撮はしておいて。とんでもない何かを発見したら、村を出る前に必ず報告するのよ?」

 二人は海辺に赴いた。そこには邪悪な気配は漂っておらず、これといって今後の生活に役立ちそうな道具は落ちてはおらず、魔女の王にとって必要となる物もないと判明した。 そして辺りに響く、さざ波の音と小鳥の鳴き声が、ルナとドロシーの気を緩ませていた。

 少年は、少女の左手を、か弱い右手で握り締めながら、こう感じた。衰弱の島に、ようやく夜明けの時が訪れたようだ、と。

 砂浜から海の彼方に想いを馳せながら、何気なく足元の貝殻を拾い、それを耳に当ててみるドロシー。ベルドラード島に来て、はじめての体験である。この音を聞いたのは、いつ以来だろうか。もう二度と思い出したくもない過去の中でも、今も美しく響き続ける、父と母の健やかな笑い声が、ふと蘇り、つい目頭が熱くなってしまった。

 そんな彼の傍で、深海へ堕ちゆく自らを思い描きながら、胸中にて燃え滾る破壊衝動の如き情念を沈めようとするルナ。椰子の木の陰を纏っている、恋人どうしで座るに適したサイズの、椅子として適切な切り株を発見しただけで、つい理性が女の欲に押し潰されていた。愛する者の可憐な瞳の裏で湧き上がる、幸福な思い出の数々を推し量ることの叶わぬ、哀れな獣と化してしまっていたのだ。

「そろそろ、暑くなってきたわね……」

「では一度、あそこの日陰で休みますか?」

「そうね……ゆっくり、しましょ?」

 それから、しばらくの間、ふたりは肩を寄せ合いながら、空白のごとき海辺を眺めていた。その海景色は少年にとって安寧をもたらす静寂の象徴であり、少女にとっては、この世界の人々に救済をもたらす場へと繋がる門の一つである。すべての人間の肉体を一人たりとて残さずに、宇宙のように巨大なトランクの中に閉じ込めて、海の底へ沈めるよう手配できれば、肌の十字紋の色が白であろうが黒であろうが何の意味もなくなる新世界に皆で到達できるかもしれないから海は善く、青い。だから溺れたくなる。

 彼女は緩慢に立ち上がった。「ねー、どろちー?」と、妖しくも甘ったるい声をかけながら、彼の頬を両の手の十本の指先で触れ、「やっぱり、かわいい」と微笑むと、勢いよくキスをして、ズボンの下の柔らかいのであろう太股を直に愛でることを望みながら薄汚れた作業衣の奥に隠された陰茎に手を伸ばした。ふたりは、わずかな間、沈黙した。ルナはコートを脱ぐ。上着の下の、黒いボタンの7つ付いた白いシャツを晒す。自らの胸元を指差し、尋ねる。「みたい?」

「……なにを?」と、今から見せたがっているのであろうものの分からないふりをし、やや怯えた顔つきをつくってみるドロシー。しかし紅潮した肌は教唆していた。かつて女体であったはずの、その男体は女を求めていると。

「意地はらないの。素直になっちゃいなさい」

 すると彼女は先程までのスローな動きからは想像もつかぬほどの早さで、シャツのボタンを外し、黒のブラを脱ぎ捨て、極めて人間的な乳房を晒し、彼に押しつけた。それを少年は魔女の腕の中で、おずおずと舐めた。娼婦の手つきでスカートの中の太ももを撫でた。焦燥が、生まれた。色めき立つ男と、奇妙な無音に耳を傾ける女は、この現世において誰よりも先に、天国へ向かおうとしていた。

 やがて射精を終え、正気に戻り、恥ずかしさのあまりに泣き出した恋人の顔を見て、ついクスススと微笑みながら、ルナは呟く。

「……目的は、果たせた」

 辺りを見回しながらも素早く衣服を着直し、下品な高笑いをはじめたところを見て、小さくも怒りの篭った眼で、謝罪を無言で要求し出すドロシーに胸を撃たれ、(……もう一回、しても、支障はないかしら……)と頭を使い出した、馬鹿女の阿呆面に、水ではなく糞を放ってやりたくなる阿呆面に内心では毒づきながらも、きっちりと報告を済ませるジュド。

【成功、しました……ルナ様】

(あら、やっぱり、そうなのね……)

「どういうことだか、説明してくれなかったら、わたし……僕、もう死にたいよ」

 震えた声で女々しく抗議する未来の夫の前で、若干、申し訳なさそうな顔を、つくりながらも、頬を赤らめながら、未来の最愛の妻は極めて正しい回答をしてみせる。

「そりゃあ、あたしがダークメイジではなくて、ルナ・メイジだと覚えてほしかっただけよ! MY SWEET LOVER!」

 主に対しては冷めた目つきを崩さぬ忠臣も、今もなお少女の頃の面影の残る少年には、ひどく申し訳なさそうに、小声で平謝りを続けていた。そして二人が工場へ出発する前、密かに命じられた通り、けして衝動的にではなく確信犯的に生じられた色事が終わったあと、王が密かに披露した魔術劇の舞台裏を言葉だけで覗かせようとはしなかった、が、恋人たちの眼前で、人間の左腕と人間の右腕と人間の左足と人間の右足を一つずつ、砂浜に放り投げることはした。それらからは黒い鮮血が滴り落ちていて、ドロシーは悲鳴をあげたと同時に尻餅をつき、ルナは不敵に笑う。

「大事な物は、目だけでは見えない。耳だけでは聴き取れない。手だけでは触れられない。舌だけでは味わえない。鼻だけでは嗅ぎ取れない。五感だけでは、物足りない」

 遥か昔に読み終えた、そんな気のする、題名の思い浮かばないのか忘れてしまっているのか、とにかく何らかの小説の登場人物の台詞を口ずさんだあと、ぼんやりとした目つきで海を見渡す、赤髪の魔女。

 三人は村へ戻った。そのうちの一人は呟いた。「……我ながら、見事な……皆殺し」

 細々とした描写をする意味も無いと、大いなる筆を放り投げた創世神に溜息をつかせる惨劇が、ドロシー・ファルバイヤを戦慄させ、ルナ・カノンに余裕を持たせた。ジュドは魔女の王の慢心を戒めるための一言を放った。

「……この程度で、殲滅が完了した、などと……思っておりますか?」

「愚問……愚問よ……雑魚を一掃したくらいで驕るほど、ぬるくはない」

 種と仕掛けは簡単だ。要するに淫行中に、崩壊の呪文を、無言で発動したまで。以前まで生活していた次元においては、すべての人間は術を使用したい場合、たとえば「バベル」を使いたい時には必ず「バベル」と、名称を口にしなければならなかった(……おまけに小声で詠唱してもならない制約までもあった……)のだが、どういうわけだかルナ・カノンは物心ついた時から、けして言わなくとも唱えられるように、自然となっていたのだ。呪文名を声に出した方がMPを僅かに節約できると判明してからは、状況に応じて発声するかしないかを決めていた。

 今回は、早朝に使い魔から【おそらくベルドラード島の漁村にある全ての民家一件ずつに、一体の魔術師が潜伏しております】と、ジュドの愛用するメモ帳から切り取られた一枚の紙切れからの報告を受けたおかげで、うまくいった。彼に張り巡らせた結界には、ある条件を満たした者すべてを、「バベル」によって一撃必殺する効果があり、帝国の魔術軍服を着用した者が何かしらの術を発動すれば、問答無用で弾けて死ぬ。

 前述した通りの一応の対策こそしていたが、ここまで安易に片付くとは、お遊戯中に怪奇現象が何一つとして起こらなかったとは全くの想定外であった。しかし実力のうちの半分も出さずとも問題なかったのだから幸運ではある。相手が想像以上に手ぬるいのか、単純に戦力を温存しているだけなのか、思いもよらない理由によって簡単に始末できるように仕込んでおいたのかは知らないが、とにかく勝利は勝利として素直に喜んでおこう、なぜ勝てたかの分析は帰宅してからやればいい。

(勝ち続けるためにも、気は抜けない……)

 虚無が魔女を見つめている。お前は全てのものを分解できるのだろうかと期待している。いや、しかし、見事なものだと感動する虚空は、いつか、ぜひとも時空すら破壊してみせろと、無音で嘲笑っている。

 できるものならば! と。

 そして配給広場に漂う、清らかな血生臭さは、彼女の胸を、ときめかせていた。少年は、たくさんの涙を流した。恐るべき敵であるはずの帝国の魔術師であろうと、可憐にして脆弱な人間であったという真理を目の当たりにした二人は今、手を繋いでいる。

 ルナは最愛の彼から目を背けながら言った。

「……私は……あなたを守る……」

 ドロシーは前髪で両目を隠しながら泣いていて、何も返答できなかった。

 その様子が、一瞬、横目に入っただけで、聖なる母、レナ・カノンには似ても似つかぬ両の瞳に、憎悪にも似た殺意が浮かんだ。

対峙

 積み木を崩すように愛を粉々にしてみると、大河が出来た。目の前には、小舟が浮かんでいた。櫂を漕ぎ、ひたすらに前へ、前へ直進していくと、小さな孤島を発見した。

 陽射しへの憎悪を滾らせながらも、上陸し、砂浜の砂を掬ってみた。神の気配を感じたときに自覚せざるを得ない、心臓の闇が、つまり胸中の影が迫ってきた。さきほど粉砕した光が涙を流している。一人の少女が絶望している。笑えるくらいに、みっともない泣き顔をつくりながら、私を睨みつけていたため、つい、「どうしたの」と声をかけてしまった。

 彼女が「殺してやる」と連呼しだす。何を殺そうとしているのかは分からないが、自分自身が先程、美しいものを木端微塵にしたことを憎んでいるのは、その眼差しから察せられた。そして怒りが放たれ、石ころは世界となる。無数の死を呑み込めるようになる。 

 だが、これを神だとは、けして認められそうにない。ただの自殺の比喩でしかない。

ちょっとした決意

 今後、自分自身が不満に思ったことは、なるべくその場で言うようにしておこう。それを溜めに溜めまくると、爆発させるべきでない場面で爆発してしまうから、そういうのが攻撃性が強くて人を泣かせる言葉を生み出す元凶になる。そして、こういう言葉は価値観の押し付けとして捉えられやすくなる。いくら自分の方で価値観を押しつけているつもりはなくても、そう捉えられてしまったら駄目だ。

 昔から、どうにも私は相手を洗脳する気がなくとも、相手を思い通りにコントロールしようと誤解されやすく、今の今まで一度たりとも、そうは思ったことがないのだが、それでも相手に、そう捉えられてしまったら駄目なのだ。「私は君の価値観に嫌悪感こそ抱くし、それを時に徹底的に表明し、最悪、拒絶にも至るが、君の価値観を変える気には全くならず、否定(……君の価値観は、本当はそうではないのだろう、と打ち消しにかかること……)する気は全くない」のだが、それでもそう思われてしまったら負け。

 怒りを爆発させることと、価値観の押しつけ/否定の間には、一般的に大差無いものなのだと自覚して、それを言動に反映させようとしなければならない。

 とは言え、無意識的に独裁者気質が強いのは、認めるが。それが原因で今まで多くの人間関係が悪化したことにも違いない。これは遺伝的なものであるとはいえど、ある程度のところまで調整する必要性はある。 

 そこで不満に思ったことは、なるべくその場で相手を刺激させないように、素早く柔らかく伝えるスタイルを構築することを決意したというわけである。元より私は、普段は温厚だが、いったんメンタルブレイクしてヒートアップすると、何をしでかすか分かったもんじゃなくなる気質である以上、きちんと怒る訓練をしなければならない。それさえ上手くなれば、だいぶ違ってくるはず。

 先程までの話から少し脱線するのだが、私の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾する気質も、このスタイルによって軽減させることは可能だと見込んでいる。私から見て許せないものに対してズバズバと考えなしに抜刀しがちな気質に調整をかけなければならない。

 自分自身の目から見て倫理的に問題のある事柄と直面した場合、Twitterでの私は過激な手段に出ることも厭わない。数年前、私の元フォロワーの一人が凶悪な傷害事件を起こした際に、その被害者(……元フォロワーの、親友といっても過言ではない、Twitterで相互フォロワーだった人物……)が「レイプされていないのに、レイプされそうになったと証言する」等の罪を重たくしようとする嘘をついているという噂を、その加害者と被害者の共通フォロワーの数名から聞き出し(……その後、その被害者の噂を聞いた加害者は、自分はそこまでしていない、と否定した……)、本当にそれであるとしたら「名誉毀損」であると判断した私は、

 なんと「加害者と被害者のハンドルネームを公表したうえ」で、自分自身の事件についての見解、そして今まで耳にしてきた噂を総括して発表すると、約1000人ほどのフォロワーがいる公開アカウントのタイムラインで言い出した。無論、発表したら大いに問題があるというのは承知であったし、自らの見解を述べるか述べないかは、加害者・被害者の出方次第で決めるつもりでいたが、被害者および加害者と被害者の共通フォロワーから止めてくれと言われ、その当時仲の良かった共通フォロワーからも説得され、止めることになった。

 流石に過干渉にも程がある? 私の友達が傷害事件を起こす前から、ずっと自分は弱みを握られていて恒常的に奴から暴力を受け続けてきたと言い出した被害者に対して、私は怒ってしまったのですよ。その友達である加害者が「それは事実無根だ」と言うまでもなく、私は二人の関係性を昔からよく知っていた人間であったので、とてもじゃないが、そんな話を信じるわけにはいかなかった。いくら暴力を受けておかしくなっていようが、それでもタイムラインで悪評を垂れ流せる程度には頭がはたらくのであれば、お前には立派な責任能力がある。人に誠意なき裁きを下すような人間は醜悪だ。

 あの件を実行しようとしたことについては、今も大して反省していないし、むしろああしなければ被害者側も余計に酷くなる一方だったと信じざるを得ない裏事情もあった。元より私は人を悪人として認識させようとする行為全般が嫌いであり、罪には罰が下されて当然であると考えこそするが、過剰な懲罰を実践する人間に対して凄まじい嫌悪感を覚える。

 言うまでもないような話だが、ある人物がA氏にとって許し難い悪人であろうとも、B氏にとっては大事な大事な人間であることなど、往々にして有り得る。だが、これは理解できても、実際にそうだからという理由で人に優しくなれる人間は意外と少ないようだ。

 ただ、私も私で「過剰な懲罰」を今の今まで一度もしてきたことがないとは言えないのだが、自分自身の場合は「罪の捏造」はしないし、「懲罰をやり過ぎたと判断したら謝る」ことはする。だからと言って、それで自分自身が正義漢になったとは全く思わないのだが、やっていけないことまではしないようにしている。

 人間には誰しも「やりすぎ」を咎める権利がある。勿論、その咎め方には細心の注意を払わなければならないものだが、自分自身にとって譲れぬものを守るためには戦わなければならない。相手が武器を持って襲いかかってきたのなら、武器を手に取って反撃しなければ、自分自身の身体や宝物が守れなくなってしまう。

 しかし本来は、「戦わずして勝つ」のが最善なのだ。自分自身には「戦わずして勝つ」を積み重ねてきた経験が、おそらく一般的な人間と比較して不足している。だからこそ、不満の正確な言語化を、素早く行うようにすべき、という話に繋がってくる。自分は善人面を貫き通そうとするがあまり、不満を溜めすぎてしまうのだ。

 交渉力を磨かなければならない。そして自分自身が嫌だと思ったことを、その場でなるべく言うように努めなければならない。意外に思われるかもしれないのだが、これが私はたいへん苦手である。許しがたいことを許しがたいと、早め早めに言っておく必要がある。遠慮は時に毒となる。はっきりとした言葉遣いで、はっきりと自分自身の意志を、その場その場で伝えられるようにしておく。

 具体的には、こういうことである。昔の話であり、具体例としては分かりにくい話になってしまうのだが……知り合いとの通話の際に、「あなたの知っている、とある人物がDVを受けていることを鍵垢で漏らしていて、その加害者の名前も知っている」という内容の話を漏らされた際に、「今後はその人が鍵垢で喋っている内容をもう二度と話さないで欲しい。その人は今でこそ縁を切っているけど私にとっては本当に本当に大切な人なのであり、まるで自分自身の伝えたいことを伝えるための玩具のようにするのは止めて。いいの、連絡する気になったら今でもLINEで連絡できるようにしてあるんだよ?」と、通話の際にその場で言っておくべきだった、ということなのである。あのときの私は本当に不快になってしまったが、それでもその知り合いにも、まあ裏事情もあるのかもしれないから……という理由でぐっと堪えていたのだが……。この手の不満を蓄積していった結果として爆発したという体験が、自分には何度かある。

 今後からは、これを出来るようにしておく、という意識を普段から強く持っておかなければならない、と、数日前のとある出来事を内省して結論づけた。自分自身の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾しがちな気質までは、もう変えられそうにないが、それでも頭を使って調整はできるのだ。結局のところ、どんな場面であろうと自分自身が失敗するのは、考えが足りないからだ。

 いまの私のTwitterでの相互フォロワーたちは、私の創造にとって、もう欠かすことのできない人ばかりが揃っていて、彼等との縁を切らざるを得なくなる状況を作ってしまうのは回避しなければならない。本当のところフォロワーなんて、もう0人の方がいいのだと頭では思いつつも、それでも耐えなければならない。