TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

ちょっとした決意

 今後、自分自身が不満に思ったことは、なるべくその場で言うようにしておこう。それを溜めに溜めまくると、爆発させるべきでない場面で爆発してしまうから、そういうのが攻撃性が強くて人を泣かせる言葉を生み出す元凶になる。そして、こういう言葉は価値観の押し付けとして捉えられやすくなる。いくら自分の方で価値観を押しつけているつもりはなくても、そう捉えられてしまったら駄目だ。

 昔から、どうにも私は相手を洗脳する気がなくとも、相手を思い通りにコントロールしようと誤解されやすく、今の今まで一度たりとも、そうは思ったことがないのだが、それでも相手に、そう捉えられてしまったら駄目なのだ。「私は君の価値観に嫌悪感こそ抱くし、それを時に徹底的に表明し、最悪、拒絶にも至るが、君の価値観を変える気には全くならず、否定(……君の価値観は、本当はそうではないのだろう、と打ち消しにかかること……)する気は全くない」のだが、それでもそう思われてしまったら負け。

 怒りを爆発させることと、価値観の押しつけ/否定の間には、一般的に大差無いものなのだと自覚して、それを言動に反映させようとしなければならない。

 とは言え、無意識的に独裁者気質が強いのは、認めるが。それが原因で今まで多くの人間関係が悪化したことにも違いない。これは遺伝的なものであるとはいえど、ある程度のところまで調整する必要性はある。 

 そこで不満に思ったことは、なるべくその場で相手を刺激させないように、素早く柔らかく伝えるスタイルを構築することを決意したというわけである。元より私は、普段は温厚だが、いったんメンタルブレイクしてヒートアップすると、何をしでかすか分かったもんじゃなくなる気質である以上、きちんと怒る訓練をしなければならない。それさえ上手くなれば、だいぶ違ってくるはず。

 先程までの話から少し脱線するのだが、私の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾する気質も、このスタイルによって軽減させることは可能だと見込んでいる。私から見て許せないものに対してズバズバと考えなしに抜刀しがちな気質に調整をかけなければならない。

 自分自身の目から見て倫理的に問題のある事柄と直面した場合、Twitterでの私は過激な手段に出ることも厭わない。数年前、私の元フォロワーの一人が凶悪な傷害事件を起こした際に、その被害者(……元フォロワーの、親友といっても過言ではない、Twitterで相互フォロワーだった人物……)が「レイプされていないのに、レイプされそうになったと証言する」等の罪を重たくしようとする嘘をついているという噂を、その加害者と被害者の共通フォロワーの数名から聞き出し(……その後、その被害者の噂を聞いた加害者は、自分はそこまでしていない、と否定した……)、本当にそれであるとしたら「名誉毀損」であると判断した私は、

 なんと「加害者と被害者のハンドルネームを公表したうえ」で、自分自身の事件についての見解、そして今まで耳にしてきた噂を総括して発表すると、約1000人ほどのフォロワーがいる公開アカウントのタイムラインで言い出した。無論、発表したら大いに問題があるというのは承知であったし、自らの見解を述べるか述べないかは、加害者・被害者の出方次第で決めるつもりでいたが、被害者および加害者と被害者の共通フォロワーから止めてくれと言われ、その当時仲の良かった共通フォロワーからも説得され、止めることになった。

 流石に過干渉にも程がある? 私の友達が傷害事件を起こす前から、ずっと自分は弱みを握られていて恒常的に奴から暴力を受け続けてきたと言い出した被害者に対して、私は怒ってしまったのですよ。その友達である加害者が「それは事実無根だ」と言うまでもなく、私は二人の関係性を昔からよく知っていた人間であったので、とてもじゃないが、そんな話を信じるわけにはいかなかった。いくら暴力を受けておかしくなっていようが、それでもタイムラインで悪評を垂れ流せる程度には頭がはたらくのであれば、お前には立派な責任能力がある。人に誠意なき裁きを下すような人間は醜悪だ。

 あの件を実行しようとしたことについては、今も大して反省していないし、むしろああしなければ被害者側も余計に酷くなる一方だったと信じざるを得ない裏事情もあった。元より私は人を悪人として認識させようとする行為全般が嫌いであり、罪には罰が下されて当然であると考えこそするが、過剰な懲罰を実践する人間に対して凄まじい嫌悪感を覚える。

 言うまでもないような話だが、ある人物がA氏にとって許し難い悪人であろうとも、B氏にとっては大事な大事な人間であることなど、往々にして有り得る。だが、これは理解できても、実際にそうだからという理由で人に優しくなれる人間は意外と少ないようだ。

 ただ、私も私で「過剰な懲罰」を今の今まで一度もしてきたことがないとは言えないのだが、自分自身の場合は「罪の捏造」はしないし、「懲罰をやり過ぎたと判断したら謝る」ことはする。だからと言って、それで自分自身が正義漢になったとは全く思わないのだが、やっていけないことまではしないようにしている。

 人間には誰しも「やりすぎ」を咎める権利がある。勿論、その咎め方には細心の注意を払わなければならないものだが、自分自身にとって譲れぬものを守るためには戦わなければならない。相手が武器を持って襲いかかってきたのなら、武器を手に取って反撃しなければ、自分自身の身体や宝物が守れなくなってしまう。

 しかし本来は、「戦わずして勝つ」のが最善なのだ。自分自身には「戦わずして勝つ」を積み重ねてきた経験が、おそらく一般的な人間と比較して不足している。だからこそ、不満の正確な言語化を、素早く行うようにすべき、という話に繋がってくる。自分は善人面を貫き通そうとするがあまり、不満を溜めすぎてしまうのだ。

 交渉力を磨かなければならない。そして自分自身が嫌だと思ったことを、その場でなるべく言うように努めなければならない。意外に思われるかもしれないのだが、これが私はたいへん苦手である。許しがたいことを許しがたいと、早め早めに言っておく必要がある。遠慮は時に毒となる。はっきりとした言葉遣いで、はっきりと自分自身の意志を、その場その場で伝えられるようにしておく。

 具体的には、こういうことである。昔の話であり、具体例としては分かりにくい話になってしまうのだが……知り合いとの通話の際に、「あなたの知っている、とある人物がDVを受けていることを鍵垢で漏らしていて、その加害者の名前も知っている」という内容の話を漏らされた際に、「今後はその人が鍵垢で喋っている内容をもう二度と話さないで欲しい。その人は今でこそ縁を切っているけど私にとっては本当に本当に大切な人なのであり、まるで自分自身の伝えたいことを伝えるための玩具のようにするのは止めて。いいの、連絡する気になったら今でもLINEで連絡できるようにしてあるんだよ?」と、通話の際にその場で言っておくべきだった、ということなのである。あのときの私は本当に不快になってしまったが、それでもその知り合いにも、まあ裏事情もあるのかもしれないから……という理由でぐっと堪えていたのだが……。この手の不満を蓄積していった結果として爆発したという体験が、自分には何度かある。

 今後からは、これを出来るようにしておく、という意識を普段から強く持っておかなければならない、と、数日前のとある出来事を内省して結論づけた。自分自身の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾しがちな気質までは、もう変えられそうにないが、それでも頭を使って調整はできるのだ。結局のところ、どんな場面であろうと自分自身が失敗するのは、考えが足りないからだ。

 いまの私のTwitterでの相互フォロワーたちは、私の創造にとって、もう欠かすことのできない人ばかりが揃っていて、彼等との縁を切らざるを得なくなる状況を作ってしまうのは回避しなければならない。本当のところフォロワーなんて、もう0人の方がいいのだと頭では思いつつも、それでも耐えなければならない。