TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

ちょっとした決意

 今後、自分自身が不満に思ったことは、なるべくその場で言うようにしておこう。それを溜めに溜めまくると、爆発させるべきでない場面で爆発してしまうから、そういうのが攻撃性が強くて人を泣かせる言葉を生み出す元凶になる。そして、こういう言葉は価値観の押し付けとして捉えられやすくなる。いくら自分の方で価値観を押しつけているつもりはなくても、そう捉えられてしまったら駄目だ。

 昔から、どうにも私は相手を洗脳する気がなくとも、相手を思い通りにコントロールしようと誤解されやすく、今の今まで一度たりとも、そうは思ったことがないのだが、それでも相手に、そう捉えられてしまったら駄目なのだ。「私は君の価値観に嫌悪感こそ抱くし、それを時に徹底的に表明し、最悪、拒絶にも至るが、君の価値観を変える気には全くならず、否定(……君の価値観は、本当はそうではないのだろう、と打ち消しにかかること……)する気は全くない」のだが、それでもそう思われてしまったら負け。

 怒りを爆発させることと、価値観の押しつけ/否定の間には、一般的に大差無いものなのだと自覚して、それを言動に反映させようとしなければならない。

 とは言え、無意識的に独裁者気質が強いのは、認めるが。それが原因で今まで多くの人間関係が悪化したことにも違いない。これは遺伝的なものであるとはいえど、ある程度のところまで調整する必要性はある。 

 そこで不満に思ったことは、なるべくその場で相手を刺激させないように、素早く柔らかく伝えるスタイルを構築することを決意したというわけである。元より私は、普段は温厚だが、いったんメンタルブレイクしてヒートアップすると、何をしでかすか分かったもんじゃなくなる気質である以上、きちんと怒る訓練をしなければならない。それさえ上手くなれば、だいぶ違ってくるはず。

 先程までの話から少し脱線するのだが、私の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾する気質も、このスタイルによって軽減させることは可能だと見込んでいる。私から見て許せないものに対してズバズバと考えなしに抜刀しがちな気質に調整をかけなければならない。

 自分自身の目から見て倫理的に問題のある事柄と直面した場合、Twitterでの私は過激な手段に出ることも厭わない。数年前、私の元フォロワーの一人が凶悪な傷害事件を起こした際に、その被害者(……元フォロワーの、親友といっても過言ではない、Twitterで相互フォロワーだった人物……)が「レイプされていないのに、レイプされそうになったと証言する」等の罪を重たくしようとする嘘をついているという噂を、その加害者と被害者の共通フォロワーの数名から聞き出し(……その後、その被害者の噂を聞いた加害者は、自分はそこまでしていない、と否定した……)、本当にそれであるとしたら「名誉毀損」であると判断した私は、

 なんと「加害者と被害者のハンドルネームを公表したうえ」で、自分自身の事件についての見解、そして今まで耳にしてきた噂を総括して発表すると、約1000人ほどのフォロワーがいる公開アカウントのタイムラインで言い出した。無論、発表したら大いに問題があるというのは承知であったし、自らの見解を述べるか述べないかは、加害者・被害者の出方次第で決めるつもりでいたが、被害者および加害者と被害者の共通フォロワーから止めてくれと言われ、その当時仲の良かった共通フォロワーからも説得され、止めることになった。

 流石に過干渉にも程がある? 私の友達が傷害事件を起こす前から、ずっと自分は弱みを握られていて恒常的に奴から暴力を受け続けてきたと言い出した被害者に対して、私は怒ってしまったのですよ。その友達である加害者が「それは事実無根だ」と言うまでもなく、私は二人の関係性を昔からよく知っていた人間であったので、とてもじゃないが、そんな話を信じるわけにはいかなかった。いくら暴力を受けておかしくなっていようが、それでもタイムラインで悪評を垂れ流せる程度には頭がはたらくのであれば、お前には立派な責任能力がある。人に誠意なき裁きを下すような人間は醜悪だ。

 あの件を実行しようとしたことについては、今も大して反省していないし、むしろああしなければ被害者側も余計に酷くなる一方だったと信じざるを得ない裏事情もあった。元より私は人を悪人として認識させようとする行為全般が嫌いであり、罪には罰が下されて当然であると考えこそするが、過剰な懲罰を実践する人間に対して凄まじい嫌悪感を覚える。

 言うまでもないような話だが、ある人物がA氏にとって許し難い悪人であろうとも、B氏にとっては大事な大事な人間であることなど、往々にして有り得る。だが、これは理解できても、実際にそうだからという理由で人に優しくなれる人間は意外と少ないようだ。

 ただ、私も私で「過剰な懲罰」を今の今まで一度もしてきたことがないとは言えないのだが、自分自身の場合は「罪の捏造」はしないし、「懲罰をやり過ぎたと判断したら謝る」ことはする。だからと言って、それで自分自身が正義漢になったとは全く思わないのだが、やっていけないことまではしないようにしている。

 人間には誰しも「やりすぎ」を咎める権利がある。勿論、その咎め方には細心の注意を払わなければならないものだが、自分自身にとって譲れぬものを守るためには戦わなければならない。相手が武器を持って襲いかかってきたのなら、武器を手に取って反撃しなければ、自分自身の身体や宝物が守れなくなってしまう。

 しかし本来は、「戦わずして勝つ」のが最善なのだ。自分自身には「戦わずして勝つ」を積み重ねてきた経験が、おそらく一般的な人間と比較して不足している。だからこそ、不満の正確な言語化を、素早く行うようにすべき、という話に繋がってくる。自分は善人面を貫き通そうとするがあまり、不満を溜めすぎてしまうのだ。

 交渉力を磨かなければならない。そして自分自身が嫌だと思ったことを、その場でなるべく言うように努めなければならない。意外に思われるかもしれないのだが、これが私はたいへん苦手である。許しがたいことを許しがたいと、早め早めに言っておく必要がある。遠慮は時に毒となる。はっきりとした言葉遣いで、はっきりと自分自身の意志を、その場その場で伝えられるようにしておく。

 具体的には、こういうことである。昔の話であり、具体例としては分かりにくい話になってしまうのだが……知り合いとの通話の際に、「あなたの知っている、とある人物がDVを受けていることを鍵垢で漏らしていて、その加害者の名前も知っている」という内容の話を漏らされた際に、「今後はその人が鍵垢で喋っている内容をもう二度と話さないで欲しい。その人は今でこそ縁を切っているけど私にとっては本当に本当に大切な人なのであり、まるで自分自身の伝えたいことを伝えるための玩具のようにするのは止めて。いいの、連絡する気になったら今でもLINEで連絡できるようにしてあるんだよ?」と、通話の際にその場で言っておくべきだった、ということなのである。あのときの私は本当に不快になってしまったが、それでもその知り合いにも、まあ裏事情もあるのかもしれないから……という理由でぐっと堪えていたのだが……。この手の不満を蓄積していった結果として爆発したという体験が、自分には何度かある。

 今後からは、これを出来るようにしておく、という意識を普段から強く持っておかなければならない、と、数日前のとある出来事を内省して結論づけた。自分自身の美意識にそぐわないものに対して徹底的に糾弾しがちな気質までは、もう変えられそうにないが、それでも頭を使って調整はできるのだ。結局のところ、どんな場面であろうと自分自身が失敗するのは、考えが足りないからだ。

 いまの私のTwitterでの相互フォロワーたちは、私の創造にとって、もう欠かすことのできない人ばかりが揃っていて、彼等との縁を切らざるを得なくなる状況を作ってしまうのは回避しなければならない。本当のところフォロワーなんて、もう0人の方がいいのだと頭では思いつつも、それでも耐えなければならない。

あるフォロワーさん(K)との対話のメモ書き

 小説書きで、解離症を患っている、私のこよなく愛する現・相互フォロワー・Kとのリプライのやり取りのメモ書き。とても刺激的な対話を2点できたので、こちらのブログでも掲載いたします。また、そのフォロワーさんからブログで発表する許可も事前に頂いております。

 

 

 

 

 1(あやふやな善悪)

 

 私「一応、私も子どもを絶対に作らないと固く誓ってこそいるものの、今のところ別に反出生主義ではない。かつては、それに近い考え方をしていたが、反出生主義が仮に世の中に受け容れられ実践されたとすれば、私が死ぬまでのあいだ半端に生き難くなるだけにしかならないのだろう、という意味で賛同できん。やるんだったら反出生主義者も含めての、人類滅亡の日を迎えるように、ね。それだったら私は応援できるんだけど、穏便な方法で反出生主義を浸透させようとするのは、そもそもお門違いじゃねーのか? 道行く人々すべてを老若男女問わずに瞬殺し、自殺するまで警察に捕まらないぐらいの方法じゃなきゃ。この地球上に生きる人間の数が減っただけで、悪の比率が減るとは思い難い」

 K「世界全ての悪が淘汰されたとしたら、その時には善と悪との中間層の一部が「悪」に格上げされるのではないでしょうか。人間としての資質は変わらないけれど、彼らは「悪」とされ、それを淘汰しても、更に「悪」は生まれる様に思います。そして、善の比率も中間層の比率も変わりはしないのでしょうね」

 私「今まで悪と認知されていなかったそれが、悪として表に立つ。まるで無限ループに呑み込まれているようです……」

 K「あくまで想像の話ではありますが、「善」が淘汰されたとしても、善/中間層/悪の比率は変わらない様に思えます。酷く気持ちの悪い話ですが。一人で想像して軽く吐き気を覚えました(笑)」

 私「個人的に「悪」は淘汰できるものであると思うのですが(……悪心は無理だと思うのですが……)「善」が淘汰される日なんて来るのでしょうか。それこそ人類が永遠に滅び、二度と地球上に出現しないようにでもならない限りは、「善」は淘汰されえないとも思います。仮に「善」が無くなる日が来るとすれば、それは私たち一人一人が社会生活を営まずに済むようになれる生命を手に入れるということだと思っています。ここで私の言う「善」の定義は一般的な「道徳的な価値としての良さ。道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの」であり、「道徳」の定義にしても一般的な「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準」であり、つまり「善を淘汰するということは、私たち人類の身体そのものへの革命を起こす」ということだと私は考えております。私たち一人一人が、人と関係せずに生きられるようになれなければ、善が滅びることはあり得ないと見ています」

 K「……「善」と「道徳」の定義をそう置くのではあれば確かに、我々が人と人との間にある存在である限り「善」が無くなることは未来永劫あり得ないでしょうね。大体同じような意味で「善」という言葉を用いていましたが、その癖そこまでは考えておりませんでした……。時間は流動的で、時代とは連続性のあるものですが、ある程度離れた世代を比較すると、概念の断絶が見られるように思います。それでいて「悪」を根絶するとなれば「世代による概念の断裂」がより強固となり、「悪」の新たな概念が生まれ得るのではないか、という考えの派生として「善」の淘汰を挙げたのですが、確かに、そうですね。幾ら概念(?)が変わろうとも人間が人間である限り「善」は淘汰し得ないですね……」

 私「……「悪」と言っても、私が想定している「最悪」は「暴力」であり、そして私個人が主題として設定している「最悪」は「性暴力」で、いかなる時代であろうとも起こり得るはずの、それらの概念の実質に違いはないから悲しいものだと本気で思っております。私たち人類の悲哀の一つと言ってもいい気がします」

 K「……。「最悪」も、ある地点では「善」でコーティングされている事も多々あると思います。「暴力」も「性暴力」も善とされてきた時代もある訳です。若しくは、今は「悪」とされていても、過去の善に「悪」のメッキをしているだけかもしれない(話がズレていますね。すみません)」

 私「うふふ。たしかに認知の上での善悪は曖昧ですね。人なんて「教育」によって巧みに洗脳できれば、イチコロ」

 K「自身が他人の認知によって構成されているという現実(?)を回避するべく絶対的な善悪を求めてしまいがちなのですが、それすら他人の認知によって作られていそうで恐怖ですわね、と思いました。うふふ」

 私「また「実行者が暴力に至るまでの過程」については時代によって僅かに変わってくるだろうし、また「暴力が誕生するまでの背景(根本的な原因)」も時代によって変わってくるとも思っておりますが、それらは時代だけを指標にして見るべきでない、ケースバイケースにしてデリケート極まる問題だとも思います」

  K「それは確かにそうですね。そうとしか言えない。似通った案件が多かろうとそれは本質に関係ない。仰る通り、ケースバイケース、ですね」

  

 

 

 2(正常と異常)

 

 私「この現代日本において「普通じゃない人間」と恋愛しようとすると、だいたいメンヘラと愛し合うしかなくなると見ている。別にメンヘラが「普通じゃない人間としての証」であるとは思っていないのだが、良くも悪くも「奇抜」になりがちなのも確かで、多くの者は「奇抜」を「奇抜」としてしか見られない。「普通」と「普通じゃない」を見分ける際に、「わかりやすいところ」を見て「普通」か「普通じゃない」かを判断するのは悪手。誰もが異常だと見なすような事なんて、ほとんどは一皮剥けば「しょーもないもの」でしかないんだよ。たとえば俺が「かつて学校の制服を切り裂く自傷に耽っていたことがある」と言った際に、そこであなたは私のことを「普通じゃない」と見なすべきではない、ということ。当時の精神状態が正常でなかったのは認めるが、これも一皮剥けば「しょーもないもの」の集まった結果、でしかないわけよ。自分自身が必死こいて封印していた黒歴史で、Twitterでの出来事によって本気で病んでしまうまで(というか、メンヘラの魂に憑依されるまで)は忘れ去っていたことになるのだが、これを時折タイムラインで言及するようにしたら、なんか妙に異常だ異常と引かれ気味な反応を多く貰うから自分でも不思議」

  K「行動は行動でしかないのに」

 私「さすが。よく、わかっていらっしゃる」

 K「表面に出て来ない「行動」と、実際に現れた行動とは、薄皮一枚で繋がっているだけのものであって、皆はその薄皮を重要視し過ぎているように思う。内に潜んだ「行動」の悍ましさより、日常という名の積み木を崩す行動を異常とする社会」

 私「ふむ。昨日、あなたの話した「善悪の曖昧さ」にも繋がってくる話、と捉えても問題ないでしょうか?」

 K「どうなのでしょう?私としては繋げて考えてはいませんでしたが。ただ世の風潮(?)として、「行動」があまりに素直に受け取られ過ぎているのではないかと思った次第です」

 私「ああ、それは本当に仰る通り。世には、正常と異常の見極めの、早すぎる人間があまりに多すぎる。一般的な思考からいけば善は正常なもので(わかりやすく無害で、取り立てて騒ぎ立てるほどのものではなくて)、悪は異常なもの(わかりやすく有害で、騒ぎ立てるべきレベルのもの)になるのでしょうが」

人を生き甲斐にすることについての私見

 他人を生き甲斐にしてはいけない、という文章を読んで、そうかな? と思ったのだが、「ああ、他人を生き甲斐にすると、それがその人にとって、その他人に依存するということに繋がってしまうから」なのかもしれない、と思った。

 私としては、そういう生き方も全然ありだと思えるし、何も生き甲斐が無いよりは遥かにマシだと考えているのだが、とりあえず「他人を生き甲斐にするということ」と「他人に依存するということ」では似て非なるものである。私にとって前者は、特定の他者を支えること・助けること・力になること、という意味であり……私にとって後者は、特定の他者の足を引っ張る重荷となるという意味である。

 人が人に真に依存すると、その依存対象となる人間が死ぬと、本当に何も出来なくなってしまうものだと私は思っている。自殺した恋人の後を追う自殺なんかは、真に他者へ依存していた証としての行為であると見ている――自分自身の過去を、最初の恋愛相手に先立たれた頃を振り返ってみると、嫌というほど分かる。

 お互いがお互いを生き甲斐にして、共に生を歩む。これは私にとって「共存」であり、けして共依存ではない。そこに明確な違いを見出せない者もいると思われるが、お互いにお互いが居なくては生きていけなくなるのが「共依存」だと考えていると説明すれば、通りも良くなるだろうか。「共存」も「共依存」も、別段、それだけでは何も問題ないものだとは思うが、後者の方が不安定であることに違いはない。

 また、「共依存的共存」ならば発生し得る。そして「共依存」が「共存」に変化することも大いに考えられる。

 今の今まで生き甲斐にしていた、パートナーである彼・彼女が死んでも問題なく生きられるようになるのであれば、その彼・彼女に対しては依存しておらず……その逆に、その彼・彼女がいなくては自分自身が存在できない状態にあっても、その「彼・彼女のため」に生きていたいと心の底から思えなくなっているのであれば、彼・彼女は、パートナーである彼・彼女のことを生き甲斐にしていない。

「生き甲斐」は力・生への意志の証。「依存」は無力の証。

 そして人が他者に生き甲斐を見出していようが、人が他者に依存していようが、それでも幸福になれる人間なんて普通に有り得る。どちらも、運に恵まれていたと言うべきであるのか、あるいは幸福を掴んだ彼等に人を見る目があるべきというべきであるのか、もしくは様々なレベルにおいての交渉能力に秀でていたというべきであるのか。

 特定の他者を生き甲斐にすると、その他者が死んでしまえば自分自身の生き甲斐が消滅してしまうことになるから、人を生き甲斐にするということ人に依存することの意味は同じ、という風に捉える者もいるかもしれない……だが、実は消えると決まったわけではない。彼が死ぬことによって、その生き甲斐までもが消えるというわけには、ならない。抽象的な例だが、たとえば彼が死んだあと、彼の代わりに自分自身が彼の夢を果たそうとする、という生き甲斐ができることもある。彼の宝物を彼の代わりに大事に大事に護っておくという生き甲斐ができることもある。彼は死んでもなお、遺された者の力として、人の中で生き続けることはある。

 これは僅かに前段落の論旨から脱線した話になるのだが、私の最初の恋愛相手が見せてくれた「灰皿の上で一万円札を滅多切りにする」という、この一見すれば単なる愚行は、いまも私の力となっている。永遠の力として、死ぬまで私の中で遺り続けるだろう。かつて私は最初の恋愛相手に対して、ずっぷりと依存していたが、同じように彼女からは、かけがえのない生き甲斐も貰えていたのだ――あの行為は、今後の私の文章のテーマの一つとして、今も生きている。

 他者を生き甲斐にしてはいけない、という文章を私に見せた人間は、元から「他者を生き甲斐」にしたことが無いのではないかとも思わなくもない(他者に依存してはいけない、というのであれば自然なのだが、生き甲斐だと違和感を覚えてしまう)。あるいは「他者」が「生き甲斐」になっていたのではなく、「他者」に「依存」したくてもし切れない状態を幾度も味わってきたから、そういう考え方が生まれてきたのではないかとも思った。そこまで過去のことについて深く話を掘り下げてみた人間の言葉ではないから、私の見当違いであるのかもしれないが。

 ただ私としても、「他者を生き甲斐」にするのは、実際かなり難しいものだというのは強く同意できる。してはいけない、とまでは思えないが、「他者を生き甲斐にするのは至難の業」であると心の底から思う。だから人を見る目に自信がないのであれば、「他者を生き甲斐にしてはいけない」という風に考えるのも、けして間違った姿勢ではなく、むしろ大いに推奨できるくらいである。

 ただ、どうしても、この人の力になりたい、と思える人がいるのであれば……できたのであれば……そういう生き方を選ぼうとするのも、そう悪い道でもないとは言っておく。それ以前に、おおよその人間なんて、そうそう簡単に生き甲斐なんてできるものでもないのだし、ね。もっとも他者以外から生き甲斐を、きちんと見出せる人間(人を生きがいにしてはいけない、と言った人)の発言であるから、そこまで心配こそしていないのだが……世の中には生き甲斐として見られるに相応しい、この世の宝である人間(勿論ここに、この文章を書いている私は含まれていない)というのも、いくらか知っている自分自身としては、若干の違和感を覚えさせるものではある。「人を生きがいにしてはいけない」という考えが。

文章を書くにあたって注意していること

 文章を書く、と言っても、時と場合によって書き方も変わってくるから、一概にこうとは言えないのですが、概ね誰にでも(自分自身にすらも)分かるように書くことが第一ですね。

 普段のツイートについては、古典小説の地の文や論文のような固い文章を綴るというより、口で何かを喋る感覚でツイートするように気を配っております。そして何ら気合を入れず、本当にリラックスした状態で書くようにしていますね。読者が日本語として読めさえすれば、それでOKというノリで書いていますわあ。力を入れていないときは、とにかく素早くツイートすることを心がけておりますわ。

Twitter、簡単な誤字脱字の修正や、文章の一部修正が、ツイートした後でも可能な仕様になればいいんですけどね……リプライ欄で文章を訂正するの恥ずかしいし面倒臭い……)

 あ、でもエッセイを書くにあたっても、そんなに変わりないかな……? エッセイの場合だと、普段のツイートよりは、文章の趣旨を明確にするようにしている、ぐらいでしょうか? ツイートするときと、エッセイを書くときの違いを挙げるとしたら、これしかありませんな。

 小説の場合は、誰にでも分かるように書くということ、および、音読のしやすさ+音読の心地よさ、同じ単語を1ページ以内(400文字の原稿)で使わないようにすること、無駄な文章を限界まで省くようにすること、作中において書くべきでないことの見極めをすること、「物」を書くようにすることになりますね。「物」を書くようにすること、というのは、たとえば血痕を血痕としてストレートに書き記すだけで、けして「物」を書いたとは認めようとしない態度のことですね。あとは音楽を作るように文体を構築しようとすることになりますかな。今のところ挙げるとしたら、こんなもんですね。

 詩の場合は……そうですね。自分自身の精神を、現実の檻から解き放ってやるように綴るための、構えをつくること、そして、どうしても書かなければならないと思える、その瞬間を逃さないこと、この2つにつきますね。詩は、神との接触。自分自身を刺し殺し、自分自身を別の世界へと誘うような、永遠の瞬間を得ること。詩に関しては自分でも何を言っているのか、自分自身でも分かりかねるのですが、こういうことであると言わざるを得ないんですよね。専門学校時代に世話になった、詩人の講師の言を借りるならば、「詩なんて1年に1回書けるか書けないかすら怪しい」

 最後に、ツイート・エッセイ・小説・詩でもない、日常生活における文章の書き方について注意を払っていることを挙げるとしたら……相手のことを考えて書くこと、ぐらいですかね? 相手の立場や、相手の言語力など、さまざまな要素を考慮して、相手に自分自身の意を明確に伝えようとすること、ぐらいですね(しかし、どうにも私は、これが実に苦手です)。

忘却について

 忘れて欲しくない、という気持ちが俺にはピンとこない。けして分からないわけではないのだが、そういうものにイマイチ共感できそうにない。正直、今までの自分の知り合いすべてが自分自身のことを忘れようとも、そうなれば大いに不便になるとは思うのだが、仮に不便でさえなければ、それで構わないと言い切ってもいい。忘れられると色々と不都合が生じるから、忘れて欲しくないとは思う、ということ。

 別に、自分自身の大事な人から自身に関する一切の記憶を喪失されることが嫌でないわけでもない。それなりの虚しさは覚えるし、おそらくは、それが発覚した日の就寝前には、ひっそりと涙を流すのだろう。だが、だからと言って忘れて欲しくない、という気持ちにまでは至れそうにないのだ――私の言っていることが分かるであろうか?

 かつて自分が恋愛感情を抱いてきた相手たちのことを思い出そうとしてみると、もう今では顔はおろか、彼女たちが私に対して言ってきたことや行ってきたことの多くを思い出せないでいる。思い出す気になれば思い出せるのだが、わざわざ、それを振り返るために私の時間をかけるつもりは全くない。もう、お前たちなど私にとって何ら無用な存在なのだ。けして私にとって何ら無意味な思い出ではないのは勿論だが、それは、あなた方との思い出に限った話などではなく、私はあなた達だけと生きてきたわけではないのだ。だから忘れるのであれば、とっとと忘れればいい。何か有効に利用できる思い出があるのであれば、しっかりと忘れないでおくべきだし、無用な思い出であれば、とっとと切り捨てればいい。今の今まで私は、ずっと、そうしてきたのだ。

 ただ二人、忘れていない存在は今もいるが、それは私が敢えて忘れてはならないと固く心に誓っているからこそ(……これは恋愛感情が未だに残っているとか残っていないとか、未練があるとかないとか、そういう低次元なレベルの話ではないのである。我が生涯の主題を提供した存在だからこそ、なのである……)記憶しているだけなのであり、正直その二人の言っていることや行ってきたことは私にとって未だに鮮烈でこそあるのだが、すでに顔は忘れている。どんな顔をしていたのかを今では、よく思い出せなくなっている。二人とも、忘れる気になって忘れられるようなものでもないのだが、不思議と放っておけば、すぐに忘れ去るようになるだけなのだ。あなた方は私にとって重大な存在であることに違いはないが、それでも私は、あなた方よりも私の生を優先させなければならない。

 ところで自分自身の過去を忘れられるということは、ある種の人間にとっては救済と成りうる。忘却が救済となる、深淵のメタファーというのも、この世には居る(たとえば解離症を患う少女たちは、かつて味わってきた数々の性暴力の被害を、完全に忘却さえできれば……)。

 過去は人間の力にもなりうるが、呪縛にもなりうる。

 このエッセイを書かせる切っ掛けとなった人間からしてみれば、今まで私が綴ってきた内容は「私の言っていることを本当に分かっているのですか?」と思わせるようなものでしかないだろう。だが、あなたであれば私が、あなたの気持ちを理解するために色々と書いているわけでもなければ、あなたのために細々と文章を書いているわけでないというのは容易に分かるはずだ。私はあなたの過去や心理を掘り下げるために、このエッセイを書いているのではなく、忘れるということ、それ自体に思うことを書き連ねているのだ。

 先述したとおり、私には人に自分自身のことを忘れて欲しくないという気持ちは、けして分からなくもない。しかし私に限っては、たとえば私は私の過去の恋愛相手たちに、いちいち私のことを思い出して欲しくない。できることならば、もう二度と私のことは思い出さないで欲しい。もし今も私のことを仮に忘れられておらず前に進めていないのであれば、早く私のことなんて、とっとと切り捨てて早く幸せになって欲しい。いつまでもグズグズとぬるま湯に浸かっておらず、新しい道を切り開いて欲しい、先述した解離症の少女たちと違って君らはごく普通に生きていけるはずなのだから、早く新しい恋愛なり恋愛以外の楽しい何かなりを見つけてほしい、たかが失恋ごときのために自分の中の世界を閉じ込めようとしないでほしい、という風に本気で思う。私のことを完全に忘却できることによって、それで全く問題ないのであれば、それでいい。かつて好きだった人が不幸の渦に溺れているようなところは、もう二度と見たくはない。そして、これは恋愛相手に限らず、私の友人や母親などに対しても同様のことは言える。

 この世には幸せになりたくても幸せになれない人間なんて、いるんだよ。忘れたくても忘れられない過去のせいで。人間の姿形を借りた蛇どもに犯され、世界の複合的な悪意に侵されたせいで、幽霊のようにしか生きられない人間だって、いるんだよ。俺が今まで受けてきた傷は、どうにか自分自身の意志と坂口安吾の力によって治せるような軽いものだったんだよ。でも、どうあがいても救われない人間も、どうしても再生できない人間というのも、いたんだよ――これが、今の俺の死にたさに根ざすもの。

 こんな私にも忘れたくない、という気持ちならば、それなりにある。でも放っておけば、すぐに忘れてしまう。自己陶酔などの精神的な工夫をしなければ。この見方からいけば「忘れられたくない気持ち」にも、いくらかの共感ができるようになる。だが、それでも「忘れたくない気持ち」と、「忘れられたくない気持ち」とでは、やはり内容は異なるのだ。たとえ、どれだけ深いところで繋がっていようとも。

 虚しいね。やっぱり何もかもが虚しくて仕方ないね。嗚呼、やっぱり、この手足の生えていて、食べて寝なければ生きていくことが困難になる、この身体が憎くて仕方ないね。そして性行為の際に快楽を得られる人体が穢らわしくて仕方ないね。我々の抱く、多くの希死念慮は結局のところ、この宿命に敗北した証に他ならないのかもしれない。

 生活の前では、我々は子羊でしかない。

 だいたいの他人が死んだところで、個人の生活には、さほどの影響がない。

 おおよそ私は替りのきく存在である。

 おおよその人間は道端に虫の死骸が落ちていたところで何の感想も持たない。

 かつて私が自動車を運転していた際に、道の真ん中で横たわる猫の死骸を目撃したことがあるのだけど、それが、どのような死骸であったのかを全く思い出せそうにない。あれを目にしたときは、ゲロを車内に大量にぶちまけたくなるくらいに気持ち悪くなったにも関わらず、私は猫の死骸の詳細を未だに記述できそうにない。

永遠の対話

 私「どこまでいっても人類滅亡が最善であることに変わりはないでしょうね。もっとも、我々が死後、永遠に無と化せるかどうかが問題だから、これも所詮は誤謬なのですが……が、ここを目指そうと試みるのも、また一興かと」
 R「人類滅亡がなぜ最善なのだろうか」
 私「それが仮に成り立ってくれるのであれば、悪自体を消滅させられることに、なるからね」
 R「なるほど、つまり善悪が本当に存在するとして、それを消すならば、生まれない方が良いみたいな感じなのかな」
 私「単純に強姦が快楽となる以上は、この世界から強姦が無くなることなど有りえやしない。我々が何をしても許されるわけでなくとも、それを現実にて実現することができてしまうのであれば、無理がある。正義の言葉によって、それを糾弾しようにも、言葉の通じない獣も存在している。この地球上において、たった一人であろうと心身を破壊(解離性障害などの重度の精神病に陥ってしまうほどの)させられるほどの暴力を受ける者が存在してしまうのであれば、この世界自体が在ることを肯定するわけには絶対にいかない。という感じだね」
 R「世界全体で見るとどうしても暴力が存在してしまうから、そうなると人類滅亡の方、世界の中での滅亡の方が手っ取り早い、みたいな感じになるのかな」
 私「そうなるね。私は理想が高すぎるので。元より普段の私は(TwitterのTLで無意識的な自意識を晒している時の私は)、私の生と私たちの生を、無闇矢鱈と肯定する意味など、全く無いと考えているので……ただし私は別に、この世界にて私たち人類が生きること自体を否定したいわけじゃない。我々が生きることを真に肯定しようとするのであれば、もはや私たち人類が二度と「悪自体」に直面しないように尽力せよ。「悪自体」を肯定しようとするな、この人間世界から「悪自体」を奪え。という話になってくる」
 R「つまり生きていく上で悪や苦しみは避けられないという事ね」
 私「そ、そ。そして、それの根源を神の試練などと現実逃避的には捉えずに、悪や苦しみが世界の一面であることを認めようとも、その悪や苦しみが二度と出現しないように、その悪や苦しみの根源にアクセスし、やがて、そこに眠る悪自体を討ち滅ぼせ、という話になる……そのための一つの案として、我ら人類は、二度と目覚めぬ滅びを迎えないか? という意味で「確実なる人類滅亡」を「最善」と言ってみたわけよ。その「確実なる人類滅亡」が嫌であるならば、だったら「悪自体」を奪おうとする方が「哲学」でしょう、という話にもなってくる」
 R「シュリーさんの中では悪=苦しみ全般だったりする?」
 私「ああ、ごめん。けして、そういうわけでもないんだよね。悪は、この社会にとって全力を以て排除しなければならない現象であって、苦しみは、そんなことはない。ただ生における苦しみは、減ずることが可能であれば、可能な限り減らしたほうが良いことに違いはない。苦しみさえ減らせれば、悪自体への対処法にもなると思われるからね。実際、性暴力(悪自体)に苦しむ中学生が、学校へ行かなくても済むようになれば、その後も性暴力を受け続けずに済んだ、という例から考えても、ね。どういうわけか、それでも、その子は学校に行かざるを得なかったらしい」
 R「俺は善も悪といった形而上学的な観念も物事に対して副次的に生じるものだと思っているから究極的な悪や善を捕まえるのは無理ではないけど難しいと感じる時はある」
 私「善は兎も角、悪はあるんだよね。あくまで私の中では。それが、あの「女子高生コンクリート殺人」の事件の内容となる。あれを「悪」と定義しない資格など、我ら人類に持ち合わせているのか? と考えているんだよね」

自戒としての軽蔑

 昨日、私の知人である女性・Mが出演している、素人投稿モノのアダルト動画を鑑賞してみたのだが、全く興奮できなかった。やはり性に溺れる女というものは、何ら専門的な訓練を受けていない無垢な蛮人が表現できるほどの安っぽいモチーフでないのだと思い知った。あの視聴者を扇情させる気など皆無なのであろうカメラワークに、ただただ苛立つばかりであった。

 Mは30代前半だが、未だに女子高生に見間違えられる、可憐な淑女である。そんな彼女の、あられもない姿と、ベッドの上で性的に掻き乱されるシーンとを、両の眼に焼きつけたくなり勇気を出して購入してみたのだが、結果は先述の通り、ハズレ。貧乏な自分にとって貴重な1000円と、銀行振込の際の手数料を失う羽目になったのだ。

 しかし、けして無駄遣いではない。

 おそらくMは、プロの撮影スタッフの手にかかれば、一級品のアダルトビデオの女優として変異できるほどのスペックの持ち主である。顔や肉体は平凡で、一見すれば何の変哲のない、ただの肌の白い女性なのだが、あのアニメチックにして病的な聖性の伝わるソプラノヴォイスで淫らに喘がれ、狂的に発情しない男など現世にいないと言い切ってもいい。

 そんな彼女を、素人の自分ですら稚拙極まりないと断定できてしまうアダルト動画もどきの、単なる男のオナニーショーの中に収めたことへの怒りが、プロフェッショナルという言葉への意識を激変させた。今までの私は、あらゆる分野におけるプロというものを、おそらく心のどこかで軽く見ていた。そして痛感した。やはり芸術作品は、何の訓練も受けていない素人には生み出せない。本物のアートは、修練なくして完成されるものではない。

 真なる創作の根本原理を直視、直接的な見直しをするための、私個人にとって最も強烈な具体例を得られたという意味では、素晴らしい買い物ができたと言えよう。そして、この体験もまた快い生活を送るためのヒントの1つと成り得るだろう。