TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「あらゆる眠りへ」

 奇抜な男を見かけた。悪夢の目をしていて、三日月の唇を右手で隠した、黒いシルクハットを被った青年が、喫茶店で読書をしている。彼がガラスの向こう側で、ブラックコーヒーを嗜んでいるのかが知りたかったので、私は私の両眼を店内に潜り込ませた。

 左目曰く、男は耐え難き命の苦悩から、数時間後に自殺するつもりでいるらしい。右目曰く、男は古時計の中で最期を迎えるらしい。

 おそらく、私たちの思い出の中で埃を被っている。あれの、ことだ。

 今も鮮明に覚えている。私が少女だった頃、あなたが鏡の前で虚ろな目をしたお祖父様を、包丁で刺し殺したシーンを。少年の涙が、あなたを恋い慕う女の膣の奥に忍び込んでいるのだと、気づかせてくれた、時計の長針。

 永遠に愛しているとは、もう伝えられないのね。でも、それでいいわ。あなたが、過ぎ去りし日々の炎を抱えながら、生きていてくれたのだと知れただけでも、私は、幸せ。

殺戮のルナ・メイジ 9章

 エルザが死んだ次の日、私は学校にいた教師と生徒を、一時間も経たないうちに皆殺しにした。あそこまで容易く殺れるのなら、もっと早く決行しておけばよかった。刃向かう敵の殲滅を成し遂げたあと、激しい興奮のあまり、薄汚れていて悪臭の漂う野蛮人の両腕両足と、かよわくて醜い小人の両腕両足を、祝祭の鮮血とともに、屋上から暗黒の十字紋が描かれた校庭に、どばら、どばら、と、撒き散らすと、最高に心地よかった。

 ただ、騒ぎを聞きつけた国の武力組織であるダーク・ジオの面々が、空から校舎に突入してくるという事態を計算に入れていなかったのは、失態だった。もしかすると、あのダーク・ジオなら――たとえ自国外の大量殺人犯の魔術師であろうとも、積極的に勧誘を行い、その者を厚遇する組織になら――命が狙われるはずもないという甘えがあったのかもしれない。(もっとも奴等からのスカウトなど、断固として断るつもりではあったが)。

 だが結局のところ、彼等もまた無力に過ぎなかった。私が無傷のまま、あっさりと奴等を皆殺しにできたという事実に、大爆笑が止まらなかった。いくら組織の連中が魔十字鎧(まじゅうじがい)に身を隠したところで、ルナ・カノンの前では、所詮は丸裸にかわりなかったのだ。しかも組織の長であり、人界の魔王と畏れられた魔術師を、奴が油断していた隙を突いただけとはいえ、まさか呪文を一発唱えただけで殺せたとは自分でも未だに信じ難い。おまけに魔王の白い覆面を引き剥がしてみると、なんと正体が養父であるベルギムだったとは! 表向きは紳士的な人物を装いながらも、可愛い一四歳の娘に、L側の者を匿う国を壊滅させるための魔術師を養成する学校へ強制的に転学させた中年男ではないか! 自宅の地下室で犬や猫や白い十字紋の付いた人間を魔術の実験台にして徹底的に痛めつけることを何よりの愉悦としていた可哀想な豚男ではないか!

 これでよかったのだ。こうしなければ母さんだって、いつまでも苦しいばかりだった。好きでもないどころか、肩に触れられるだけで嫌悪感が露骨に顔に出るほど生理的に受け付けないようなやつと夫婦でいたって幸せになれるはずがないのだ。今の私の力をもってすれば、レナに苦労をさせずにすむ自信はある。そして明日になれば、どんなに激しく怒られたとしても、泣きつかれたとしても、無理矢理にでも、どこか遥か遠くの国へ、私たちの顔を知らない人たちの住む国へ連れていって、今度こそ安らかな国で暮らさせる。

 この日は、夜遅くになっても、約100匹のピラニアが泳いでいるプールのついた、悪趣味で成金趣味が全面に出たギラギラ豪邸には帰らず、学校の倉庫内で、古びた木の机やら椅子やら拷問器具やらを、鉄パイプでグシャベボコにしながら、ひとりで馬鹿笑いしたり大泣きしたりしていた。ほんとうは、事の最後に、父をバラバラに分解してからすぐに、レナのもとへ戻ったほうが、良かったのかもしれない。でも、どうしても家に戻るのが怖くて堪らなかった。さすがに、あそこまでしてしまえば、目の前で拒絶されると思って。かつて住んでいた家に襲いかかってきた白い兵隊や、ハンネを誤って殺してしまったときも、何も言わずに、泣きながらも、抱きしめてくれた母でも、今度という今度は。

 ジュドがやってきたのは、暴れ疲れて土埃だらけの床の上で、マットも敷こうとせずに寝ようとしていた頃だった。

【ルナ様】脳内に伝わってきた声は震えていた。普段、無感情で、何事にも無関心な彼から、ひどく吃驚させるほどの動揺が、短い台詞から伝わってきた。【重大な報告が】

 起き上がると、思わず目を見開いた。その紺色の冷たい瞳から、殺人鬼の心臓を鷲掴みにする、一筋の涙が流れていたのだ。

(……どうしたの?)

 ジュドは、その問いには返答せず、白い便箋の入った、一通の封筒を差し出した。

【ルナ様】

私は、それを開封し、中身に目を通す。

【貴女なら、私を殺せますか?】

 私は、自分自身でも不思議なくらいに、冷静に、穏やかに、言えた。

「使い魔に主の選択を止める権利はないんでしょ? あんたには何の罪もない。むしろ嬉しいわよ。そこまで母さんを想ってくれてただなんて。それに、どのみちレナは、ああしていたに違いないわよ。いつかは、きっと」

 大粒の涙すら流せずに言った。

「わたしこそ、ごめんなさい。おかあさん」

 もう生きる意味は、なくなった。

 私は倉庫から抜け出し、空に飛び立つ。私が、私を終わらせるところは、既に決めてある。

 アモーゼ島は、まさにルナ・カノンのためだけに作られたような場所だと、円い深淵の傍に座りながら思った。夜空には満月が浮かんでいるが、あれすらも、この底無しの闇に放り込んでしまえば、きっと二度と戻ってこない。

 最期に何を、虚空へ言い遺そうか。特に叫びたい想いなど、がらんどうの肉体に、あるはずもないのだが、それでも何かを、ぽつり、ぽつり、と、歌わなければ、ならないと、感じていた。頭のなかに今も棲みついている、四肢のちぎれた沢山の彼等から、母さんから、見つめられているような気がしていた。

 しかし言うべき言葉が、じっとしていても思いつかず、仕方なく、藍色の瞳を閉ざし、ゆっくりと立ち上がり、体から力を抜いて、ゆわり、と、身を穴に投げ出し、地獄へ近づいていくうちに、ようやく、それが、脳裏をよぎる。

 

 両親が 

 愛する我が子のために 

 してやれることは 

 かぎられている 

 ただ自殺してやることだ 

 あるいは 

 子どもが生まれたばかりのうちに 

 ナイフで跡形もなく 

 紅い無へ還してやることだ 

 これ以外の善行など 

 しょせんは麻薬だ 

 これ以外の祈り方など 

 ありえはしない

 

 

 

 このまま身を任せていればいい。こうして、ずっと瞼を閉じていれば、やがて、私は、いなくなれる。この無限の漆黒を求めていた。誰もいない。恐ろしい人もいない。傷つく人もいない。大事な人もいない。なんて素晴らしい軽さなのだろう。

 そして、これ以上、呻くべきことは、もう何もない。

 あとは、ゆっくりと死を待つだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このときの私に、永遠の光が訪れるとは思っていなかった。

殺戮のルナ・メイジ 8章

【ルナ様、まだ起きていらっしゃいますか?】
 深夜2時。ジュドは円い天井灯の傍に立ちながら、ベッドの上の主にテレパシーを送る。彼女の額からは大粒の温い汗が白いシーツに垂れ落ちており、苦しそうな呼吸の音が灯りの消えた室内に鳴りわたっている。
【頼まれたものは全て入手いたしました。貴女様が始末なされた者たちが所持していた、三冊の魔術書はテーブルの上に置いておきます……薬は入り用でしょうか?】

(ブツは明日になったら確認する……そうね、今ほしい ……)

 使い魔はポケットから錠剤を一粒取り出し、主の唇に目がけて投擲する。王は口を小さく開ける。すとん、と舌の上に着地した睡眠薬を、こくりと飲み込む。服用してから数分も経たぬうちに、意識を失うルナ。

  ジュドは何気なく、シングルベッドの端っこで、くの字の姿勢で寝ているドロシーに向けると、気がついた。まだ、起きている。その水色の瞳の奥から伝わる奇妙な磁力に引き寄せられ、二人の寝るベッドの脇に降り立つ。

 それにしても、実に雰囲気が被る。この少年とはじめて顔を合わせた時から思っていたが、あの白い猫耳を生やした青年を彷彿とさせる。

 珍しく、人間と対話をしてみたくなった。

【……ドロシー様。夜遅くに申し訳ありません。一つ、ご質問があるのですが、よろしいでしょうか?】
(……あ、こんばんは。いいですよ。なんでも聞いてください)
【これはルナ様にも言えますが、なぜ昨日出会ったばかりの他人に対して、心からの信頼を寄せられるのでしょう?】
(え? ……うーん……わかりません……悪い人じゃなさそうだった、から、かな……)
【悪人とは、思えない、ですか】

 首を傾げるジュド。人の考えることなど自分には知ったことではないが、今回のケースに限っては、どうにも腑に落ちない。この世界においてライトメイジであるドロシーと、この次元においてもダークメイジとして認知されるルナが、親交を深められている事実については納得できても、まともな人間ふたりが出会って一日も経たないうちに、実の姉弟か普通の恋人どうしの関係性が出来上がっているように見えるわけが、全くわからない。いくらなんでも距離感の縮まり具合が早すぎるのではないか。

【ルナが怖いとは、まるで感じないのですか?】

(いえ、ぜんぜん)

 男女の仲は謎解きのできないミステリー小説であるという、かつての次元の偉人の格言もどきが、ふと頭によぎった。掘り下げても仕方なさそうだ。

 (あの、僕からも質問していいですか?)

【なんなりと】

(ジュドさんは、ルナが生まれた頃から、ずっと傍にいたんですか?)

【いえ。今の主とは付き合ってきた期間こそ長いですが、私は元々、ルナ様の母であるレナ・カノンの使い魔なのです。数時間ほど前に自称・ユダマの語っていたとおり、レナ様は、もう生きてはおりませんが、彼女は、私の目から見て、とても立派な母親であり、偉大なダークメイジでした】

 レナは、ちょうどドロシーと同じ髪色をしていて、この世のあらゆる悪を包み込む優しさを秘めた目をした聖なる女性であった。そして、かつてルナとジュドがいた世界で、各地で勃発するLとDの争いによる戦災から、無力な人々を守るために、その強大な闇の力を、人種差別なき世を実現するためだけにふるった孤高の魔術師でもあった。

 ふと脳裏に浮かぶ、川べりの草原に建つ小さな木の家の傍で、木製のブランコをこぎながら無邪気な笑い声をあげる幼い子と、その様子を緑の木陰から温かく見守る母の姿。もう二度とは戻らない美しき過去。ルナが産まれ育ったそこは、レナの魔術「アン・バーリア」の効果によって、誰にも知られるはずのない安寧の地。当時、LとDの大戦はL側が圧倒的に有利で、D側の人々には、まともに生活できる場所の確保が極めて困難だったゆえに、愛する娘を守るために生み出された魔導の領域であった。

 だが不幸にも、魔女の王が4歳の頃、レナ・カノンの命を狙う悪しき聖術師によってアン・バーリアは無効化され、胸元に聖なる十字紋の付く白い軍服を着た謎の兵隊から、突然の襲撃を受けて、彼等の策略により、レナは術を使えない身体になってしまったのだ。幼少期のルナに、正式な訓練を受けてきた術師たちを一蹴できるほどの力が無ければ、二人が助かる見込みはなかったであろう。

 しかしレナの術が永遠に封じられた損害は、あまりに重すぎた。あれ以来、母娘は悪臭の漂うスラム街で暮らさざるをえなくなり、ルナは毎日、母特製の、左頬の黒い紋章を白くする、幼い彼女には副作用がきつすぎる劇薬を飲んで、L側の子どもにしか通えない小学校に通うようになった。母親としてはルナをD側の子どもを育てる学校に通わせたかったのだが、自宅からの距離や経済的な事情などの様々な問題からできなかったのだ。当時はルナも飛行能力を有していなかった。レナは娼婦として、生活費と教育費を稼ぐようになった。貧しい暮らしだったが、それでも、ベルギム・フォーゼンという、黒い十字紋が左手についた高名な学者の男と、家族として共に過ごしていた頃よりは、遥かに幸福な日々であった。
 レナとベルギムは売春宿で出会う。彼女の美貌に惹かれた、銀縁眼鏡をかけた男からの熱心なプロポーズによって結ばれることになった。娘はレナが大して好きでもなさそうな人物と結婚するのに賛成できなかったが、彼の顔や言動から伝わる底知れぬ不気味さが嫌で仕方がなかったが、母を少しでも楽にさせるために、ぐっと我慢し、結局、ルナとレナはスラム街を離れ、マルモンドというDの人々だけが集う軍事国へ移住したのである。

 これが悲劇の始まりであった。

(ジュドさん? どうかしましたか?)
【いえ、なんでもありません。すこし昔を思い出していたのです……他に御質問は?】

(ジュドさんから見て、レナさんとルナなら、どっちが強いですか?)
【娘の方、ですね。なにぜ、レナ様とレオ・カノンの二人の血を引いているのですから】
(ルナのお父さんって、凄い人なの?)
【レオ様は私がレナ様に仕える以前に行方をくらましたため面識はないのですが、伝わるところによると、本気を出せば、一つの惑星はおろか、全宇宙すら滅ぼしかねないほどの力の持ち主らしいですね。やる気になれば人類など容易く皆殺しにできるルナ様であろうとも、流石に宇宙までは不可能でしょう】
 少年は目を瞬かせた。彼が何を言っているのか、まったく理解できそうになかった。いくら強力な魔術を扱えようと、ひとりの人間が、宇宙を滅ぼせる? 人類を容易く皆殺しに? 大真面目な顔で語られた嘘にしては、スケールが大きすぎるのではなかろうか?
【まあMPとMPSが切れれば魔術師であろうと聖術師であろうと無力と化すのは真理です。たとえレオ・カノンやルナ様がどれだけ強大な力を有していようとも、彼等が人である以上は限界も生まれてくる……】

 (えむぴい? えみえすぴー? っていうのは、どういう意味ですか?)
【おや、ご存知ないのでしたか。なら明日になれば教えましょう……ドロシー様、そろそろ眠くなっている頃ではありませんか?】
(……うん……たしかに……でも最後に、一つだけ聞いてもいいですか?)
【はい? なんでしょう?】
(ジュドさんは人の過去が視えるみたいですが、僕のは、どこまで分かりますか?)

【ええ。多少は把握しておりますが】
(多少って、どれくらい?)
【はい。ドロシー様はエルハープ大陸のロマティスという長閑な町で、父・ロイドと母・ルシアのもとで生まれ育った“一人娘”でした。しかし貴女が十二歳のとき、奇しくも、大切なご両親が流行りの重い感染症――それも聖なる回復術が効かないほどの病にかかり、その病気を唯一治せる高級な薬を手に入れるために、偽名を用いて、色に飢えた獣どもを相手に『夜の花』を売りはじめました。苦節の末に、何とか目的の物は手に入れられたのですが、不幸にも、その頃にはルシア様は病死してしまい、結果的に命を助けられたのはロイド様だけでした。そして中学校に通いはじめる時期が迫り、どうしても売春婦として働いていた痕跡を消し去りたかった貴女は、知り合いの魔術師の男に「自分の身体を売るから、性転換の術をかけてほしい」と頼み込んだ結果、無事、男性になれました。今のところ、この程度の情報しか入ってきておりませんね】
(………………………………………………凄いですね……ルナには内緒にしてて下さいね)
【もちろん。人は皆、誰にも言えない過去を持っているものです。それは我が主にしても、同じです】

 この少年も、今の主も、お互いに己が体験した過去を映画化でもされてみれば、自殺しかねないな、と思った。また、もし彼が彼女よりも先に早死したとしたら、きっと魔女の王は、この世界においてでも『アモーゼ島』を探し出すのだろうな、とも思った。

 アモーゼ島。唯一、不死の命を持った者が最期を迎えられると伝わる、幻の場所。ルナは、その名前を、数年前、学校の図書館で『世界ミステリー図鑑』を読んだ際に知った。書籍には、こう記述されている。「とある湖に浮かぶ小さな島の遺跡の中央部には、果てしない闇へと続く大きな穴(別名:救済の大穴)がある。穴の底がどうなっているのかを知る者は誰ひとりとしておらず、そこへ身を投げたした者は二度と現世には還れない」
 あちらの世界では、一般的にアモーゼ島は“おとぎ話の産物”として知られているが、あそこは現実に実在しているのだ。著者が本に載せた地図に示した位置へ、実際にルナが空を飛んで行ってみると、たしかに普通の人間には、それなり程度の魔力の持ち主では、視えるはずもなかった。なぜならば島全体に透明化の術が仕掛けられており、通常の肉眼では、ただの青い海しか映らないように仕掛けられていたからだ。
 だがルナには視えていた。特別な術を使うまでもなく。そして彼女は、そこで一度、自殺を図ろうとしている。

 ――過ぎた話だ。終わったことを、だらだらと回想していても仕方ない。
【ドロシー様、ルナ様の過去や、我々がここに来た理由は、知りたいですか?】
 もっともジュドにしても、魔女の王がパラレルワールドに転生した理由については、まるで分からなかったのだが。
(……大丈夫ですよ。深くは詮索しないから)
【……助かります。では、そろそろ、おやすみなさいませ】
 そう言うと青年は、家の壁をすりぬけ、どこかへと消え去っていった。 今夜は珍しく、地面に降りたって、夜空の月でも見上げてみようと思いながら。

殺戮のルナ・メイジ 7章

 窓を開けても、風の音も、虫の声も、死者の囀りすらも聴こえてこない夜だった。
「もう九時半ですね」
 ドロシーはテーブルの傍から、ベッドの上で部屋の外を眺めているルナに話しかける。
「あ……そういえば、一つだけいいですか?」
 彼女は満面の笑みを浮かべたまま少年の方へ振り向くと、やけに楽しそうに応える。
「なあに? なんでもきいていいわよ?」
「ルナは、どこの国の出身なんですか?」
 すると少女の顔から笑顔が消えた。そしてドロシーから目を逸らし、乾いた唇を右手で覆い隠し、何かを深く考え出した。
「……そもそも、ここが、どこかしら?」
「あ。言うの忘れててごめんなさい。今、僕たちがいるのはベルドラード島っていう小さな孤島です。多分、聞いたことないですよね。ここは世界地図にも載ってない島なんです」
(たしかに、ないわね)ルナは沈黙を保ちつつ、使い魔のジュドをテレパシーで呼び出す。
【お呼びでしょうか】

 紺色の瞳の青年が、どこからともなくドロシーの傍に現れた。
(……あんた、さっきまで何してたの?)
【島の上空を散策していました】
(……今、あたしはベルドラードという孤島にいるみたい……なんだけど……)
【……ルナ様、私の代わりに、彼に訊いてほしいことが……】
(……?……わかったわ……)

 ルナはドロシーに、青年の要望通りの質問をしてみる。「ここからメギアス大陸まで、どれくらいの距離かわかる? あと、今って西暦何年だったかしら?」
「西暦は、ちょうど今年で300年になりますが……めぎあすたいりく?……えっと、すみません、そこのベッドの枕、貸して下さい」
「? はい、どうぞ」
 ドロシーは白い枕のチャックを開け、掌に収まるサイズの緑色の正方形ブロックを取り出して、それの一面についた赤い丸ボタンを押す。歯を削るドリルのようなノイズが鳴る。
 驚いたルナが音のした方に目をやると、壁の中から何の変哲もない本棚が、ゴガ・ゴガと飛び出してきた。少年は、その金属製の棚から1冊の分厚い書物を取り出し、その本のページの間に挟まっていた古紙を、薄汚れた世界地図をテーブルの上に広げた。

 魔女の王は驚愕した。そこには少し前まで自分が暮らしていたメギアス大陸の名が記されていなかった。それどころかルナの知る大陸の名が一つたりとも見当たらないうえに、そもそも、この世界の地形自体に全く見覚えがない。
 ドロシーとルナは不思議そうに顔を見合わせる。彼女は咄嗟に、「あ、あたし……名前以外の記憶がメチャクチャになっちゃてるみたい! 住んでたとことか、経歴とか素性とか、いろいろ忘れちゃった……」と、すぐにばれそうな嘘をつく。
「きっと、そのうち思い出しますよ。根拠はないけど、そんな気がします」

 ドロシーは柔和な笑みを浮かべた。
「あなたがダークメイジであっても、ここから追い出す気はないから安心してくつろいでいてくださいね」

 するとルナの顔が、にわかに曇る。
「……ダークメイジ……何だったかしら!……思い出せそうで思い出せないわね!……」
 すると彼は本棚から1冊のメモ帳を取り出した。表紙には『DメイジとLメイジについて』という題が黒ボールペンで記されている。

「昔の家に置いてあった、歴史家である僕の父親が残してくれたメモ帳を読み上げてみますね――

 ダークメイジ(以下、Dメイジ)とは魔神ユダマが生み出した、破滅の魔術を使いこなす存在。ライトメイジ(以下、Lメイジ)とは慈神マリアが生み出した、救済の聖術を使いこなす存在。破滅の魔術とはあらゆる生命へ攻撃を加えるための手段であり、救済の聖術とはあらゆる生命へ回復を施すための手段である。
 マリアは、あらゆる苦痛に喘ぐ人々を救い出そうと、一部の民衆に聖術の才を授けた。
 ユダマは、凶悪な肉食獣から己の身を護らせるために、一部の民衆に魔術の才を授けた。
 DメイジとLメイジは今より180年前、つまり、ちょうど西暦100年頃に出現したと言われている。かつてDメイジとLメイジは共存できていた。だが西暦130年に、ある一人のLメイジの手によって勃発した事件(※)が発端となり、両者の120年間に渡る永き対立――ヴェルヘルム大戦が始まった。
(※):通称3.15事件。概要.とある王国の王子がDメイジの手によって暗殺された事件である。その謎を解く手がかりとなる調査資料には何者かによる検閲が、『何らかの術による表現規制』が加えられていた為、その詳細な内容/犯行動機は残念なことに不明。現在では、いかなる書物にも3.15事件の謎を解く手掛りは皆無とされている。
 西暦250年、ヴェルヘルム大戦は終焉を迎える。この争いの幕が閉じた要因は、終戦後の世界史の教科書には、各国共通して、D側とL側の間に平和条約が結ばれて~と、極めて簡潔な記述がなされている。だが、その事を詳しく調べ上げようとなると、なぜだか、あらゆる文献に、3.15事件と同様の不可解な表現規制が敷かれているのだ。現代を生きる人々が、正体不明の何者かが仕掛けた壮大極まりない奇術によって、DとLの戦史の研究を封じられている原因は、未だ謎のまま。
 西暦280年、現時点においてDとLは共存関係にある。しかし私は先述の謎が解明されない限り、この平和が永く保たれるとは思えないのだ。なぜ先述の平和条約について調べ上げられることを、かの者は恐れている?

 ――どうでしょうか? だいぶざっくりとした端書きに過ぎないんですが、多少なりとも記憶を取り戻すヒントになりましたか?」

 ルナは頭を掻き毟りながら答える。
「……ああ……………………思い出したわ。闇の魔術師・ダークメイジと光の聖術師・ライトメイジ。たしかダークメイジは、L寄りの史書には『かつて世界滅亡を目論んだ悪しき心を宿した魔術師』って書いてあった……」

「まあ現代は“ベルウォード帝国”に忠誠を誓うダークメイジじゃなければ、そんな物騒なことをしようとするのも、なかなかいないはずですけどね。あの日、帝国さえ現れなければ、2年前から始まった昨今の世界戦乱も起こらなかったわけですし」
「……ベルウォード帝国? 世界戦乱?」
「ほら、地図の真ん中にある大国のことです。まだ建国して4年しか経ってないのに、すごく戦争の強い不思議な国なんです。今では数え切れない程の国々を支配下において、現在でも各国に軍事侵略を仕掛けてるんです」

「……聞き覚えがないわね……」
「ベルウォードは帝であるドグマをはじめ、その部下や、そこで暮らす民衆まで全ての人がダークメイジで統一されてて、皆で一丸となってライトメイジを殲滅しようとしてるんです。この世界では、LとDは一つの国のなかで共に暮らしているのが一般的で、魔術師と聖術師のどちらかの割合が著しく少ないという例もあるにはあるんですが、あそこまで極端にLを排除している国は歴史上でも唯一なんじゃないでしょうか」
「…………どうして?」
「なんでもドグマは、ヴェルヘルム大戦が行われていた頃から生き続けているダークメイジみたいで、遥か昔に戦死した同胞の仇をとるために、帝国を創始したらしいです。だからライトメイジに凄まじい怨念を抱いていて、『この世界のすべてはDのものであり、Lの連中に生きる資格などない』って宣言したことがあるくらいですから。なにしろ国に侵略を仕掛ける際に、皇帝自らが陣頭に立って多国のライトメイジを虐殺してきたことから、本当に憎くて堪らないんだと思います」
「……じゃあ現代のダークメイジは、何でドグマに忠誠を誓ってるのかしら……」
「実は僕の仕事仲間の何人かに、自らの意志で帝国の一員となった知り合いのダークメイジがいるらしくて、同僚の話を聞くかぎりでは、どうもベルウォードのDメイジがドグマに忠誠を誓うわけは、だいたい4つあるらしいです。1つ目はドグマの圧倒的な力に心酔して、彼と共に覇道を突き進みたいと思ったから。2つ目は経済的に困窮していたところを、帝国からの莫大な報酬に釣られてしまったから。3つ目は様々な事情から世の中に尋常ならざる憎しみを抱いていて、やり場のない鬱憤を晴らすために、この世界を滅茶苦茶にしてやりたかったから。4つ目は単に帝国からの回し者に洗脳されてしまったから………………あ、あの……ルナ? お顔が真っ青ですよ?」
 赤髪の少女は頭を抱え込みながら、激しい頭痛に苦しめられながらも答えた。

「…………………………ぜんぜん大丈夫よ…………………………話を続けて頂戴」
「は、はい。現在ではライトメイジは世界的に苦境に追いやられていて、殆どの国家は、自国からL側の術師を片っ端から追放していったんです。あるいは追放せずに奴隷階級の身分として酷使しだしたり、最悪の場合、Lであるというだけで極刑に処したところもあるみたいなんです。帝国が現れる西暦296年までは、両者は上手く共生できていたのに、すごく悲しくなってきますよね……」
「………………へえーっ………………」
 ルナは両の掌を、じっと見つめた。己の指先に眼醒めし、あらゆる魂を嘲り笑う漠々たる殺意の声に、じっと耳を傾けた。
 嗚呼、ライトメイジ、ダークメイジ。ひどく懐かしく、もう二度と耳にするはずのなかった言葉。呵・呵・呵・呵・呵。そう、すべてが終わった、あの日、本当は両目も鼓膜も壊し尽くすべき、だったのだ。
「あ、すみません。なんだか一方的に喋りすぎて……やっぱり、まだ体調が悪そうだから、今夜は早めに寝た方がいいですよ?」
「あたしは健康よ。それに、こっちから聞いておきたいことも、まだ山ほどあるわ……」
 魔女の王は少年に背を向けると、コートのポケットから愛用の注射器を取り出し、一息に左腕の血管へ突き刺す。どくん・どくん・どくどくどくどくん。ひゅわーーーーーん……。嗚呼! やはり『DAMDAM』の効き目は最高だ! みるみるうちに体調が元通りになったうえに、泥々の殺意すら消え失せていった! たしかに、あの闇商人の言った通り、こいつは選ばれた者にとっては、まさに神薬! 流石ひと握りのダークメイジにしか効果が発揮されず、並大抵の魔術師が服用すると即死してしまうために、超危険薬物として流通が禁じられた激レア物なだけはある! 
 しかし彼女は『自身の将来設計図において、そう遠くない未来の恋人』の熱い視線を背中に感じ取った。少年は魔女の王の後ろ姿を不安げに見やっている。万一、彼が『DAMDAM』を使ってしまえば、あの芸術的にして神聖なる全身が一瞬で緑色に腐り果てて、すぐさま悶死してしまうので、なるべく彼の近くで使わない方が安全だろう。そもそも『DAMDAM』は全世界の聖術師を虐殺するために創られた薬物兵器としての側面を有しているので、もし、こちらの世界でも名が知られたクスリだとすれば、それを服用しているところを見られてはまずい。
 余韻に浸る暇もなく、すぐさま彼女は『DAMDAM』がタップリ余った注射器をポッケに戻し込み、水色髪の少年に微笑みかける。
「その左手についた十字紋から察するに、ドロシーはL側の人間なのよね?」
「はい、そうですね」
「なにか聖術は唱えられるのかしら?」
「はい。とは言っても、まだ僕は高度な術を全然扱えないんです。ヒーリィっていう、簡単な回復呪文しか……」
「どうして、この島で生活して――いえ。何年前から、ここで監禁労働に従事する羽目になったの? 良かったら教えて」
「うえ!? なんで分かったのですか!?」
「そりゃあ、さっきの話と、今着てる薄汚れた作業服を照らし合わせて考えてみれば、大方の予想はつくわ。あたし、ドロシーみたいな境遇の子なんて、いっぱい知ってるのよ」
「へ、へええ……僕は2年前、ベルウォードに故郷を攻め込まれて、父と共に強制送還されたんです。普段は島の真ん中にある工場で魔導兵器の部品を作らされています」
「魔導兵器? 部品?」
「僕たち製造員は、諸国が自国民を守るために生み出した対魔術用軍事バリア、通称・聖護壁(せいごへき)を攻略するための魔導ミサイル『BELL25』を造るために必要な、蒼魔玉っていう魔力のエネルギー源を大量生産してるんです。聖護壁が国全体に覆われれば、空から放たれた一切を滅ぼし尽くさんとする業火すら、その聖なるバリアが掻き消してくれるのですが、『BELL25』の威力なら、いとも容易く突破できちゃうんです。ミサイルを撃ち込まれたリベルアーツという国が滅び去った瞬間を実際にテレビで見たときは本当に驚きました。ちなみに父は『聖護壁は帝国が出現する以前の歴史において、一度たりとも破られなかった位の、凄まじい防御力を誇っていた』と仰ってたのですが……」
「……ふうん。『BELL25』ね。大したものじゃない。興味あるわ……」
 ルナはテレビ台の端に置かれた、木製の写真立てに目をやる。そこには紺色のブレザーを着たドロシーと、彼の父と思わしき中年男性が写っていた。実に人が良さそうで、目元が息子に瓜二つだ。どうやら中学校の入学式の際に撮られたようで、親子は満開の桜の下、校門の前で仲睦まじそうに肩を並べている。
「ところで、お父様、まだ帰ってきてないけど……あ、別の寮で暮らしてるの?」
「はい。隣の家に住んでたんですが、ちょうど3ヶ月前に行方不明になってしまって……」
「……やだ……なんだかブルーなこと聞いちゃったわね……あ、じゃあ、ご両親は両方L側? それとも片方がLで、片方がD? おふた方は、何か術は使えたかしら?」
「父と母の十字紋は白でした。二人が聖術を用いたところは一度も見てないです」
「使い魔を行使している場面も?」
「え?……つかいま?……ファンタジー小説で出てくるような、あれですか?」
「あら、知らなかったの? 世界中の誰もが使役しているわけじゃないけど、そんなに珍しい存在じゃないわよ。現に今、ドロシーの隣に立ってるもの。あたしの使い魔」
「うぇえっ!!??」

 ドロシーは驚きのあまり横を振り向く。

「はじめまして、こんばんは」
 恭しく左手を横方向へ水平に差し出して一礼している謎の美青年が、そこにいた。
「ゆうれい!? ユーレイ!?」
「一応、幽霊ではなく人型の精霊です……」
 赤髪の魔女は、きゅすきゅす、と笑った。ジュドは色白で、顔の上半分は普通の人間なのだが、その筋の通った鼻から下に、口がないおかげで、時々、そう誤解されるのだ。
「しかし、あんたが人前に出るとはねー」
「ちょっとした悪戯心が芽生えたもので……」
「でも急にどしたのよ? 紅茶かコーヒーでも淹れにきてくれたの?」
「私はあなたの執事ではありませんよ? ただ、ある報告をしにきたまで」
「報告? 何かしら?」
「その前に、一つだけドロシー様に聞いておきたい事が……宜しいですか?」
「ふぁ、ふぁい? にゃんでしょう?」
「昨晩、貴方に襲いかかったヒトクイキマイラの操り主の姿を、お覚えでございますか?」
「ひぇえっ!? なんで知ってるの!? 僕がキマイラに殺されそうになったの!?」
「ジュドは人間の眼を見て、対象となった人物の過去の一部を見抜くスキルを持ってるの。要は霊視の一種みたいなものよ」
「まあ中には視ようとしても視れない者もおるのですが……」
「は、はあ……えっと、ジュドさんみたいにテレパシーで喋る、黒い十字架です……たぶん」
「黒い……十字架……?」
 ルナは奇妙な違和感を覚えた。そして、なぜだか母の最期の顔が、頭に思い浮かんだ。

 ジュドの死人のような目が僅かに見開いた。
「……奴なのか? ……いや、まさか……?」
「ふぇっ? あれのこと知ってるんですか?」
「いえ、そんな者は記憶の片隅にも残っておりません。そして現時点において、私が正統な人間として認めている者は三人のみ……」
「……? で、何を報告しにきたの?」
「かのヒトクイキマイラの使い主は、まだ工場の地下に潜伏している可能性が高いと、御二人へ伝えにきたのです」
「……へっ?」ドロシーの顔が青くなった。
「玄関を入ってすぐのところに、妙な小部屋がありましたよね?  ――おそらく、あの中に仕掛けられ十字紋の隠し扉』の奥で、いまだに敵は潜んでおります」
「ど、どうして、そう判断したんですか?」
「もし私の推測が外れていたとしても、先ほど発見した隠し扉からは、魔術師の気配と、尋常ならざる殺気が漂っていたのは確かです。それに、その者が仮にベルドラード島から姿をくらましたのなら、あの紋章からは魔力が失われているはずなのです」
「じゃあ、もう、あそこには絶対に近づいちゃいけないのか……」
 魔女の王はベッドに腰掛けたまま、窓の外へ目線を向ける。今のところ夜の林からは悪意や殺意を感じない。が、沈黙の闇が我々に何らかの警告を発しているような感触はある。
 昨夜に起こった事件の概要は既に聞いている。一体、何を目的とした凶行なのかは判りかねるが、黙って看過するわけにもいかない。災いの火種は早急に取り除かなければならない。
「ルナ、さっきも言ったけど、ここから北にある工場には近づ――」
 目覚め出す。魔女の王の、紅き血が。
「ジュド、その地下自体には潜り込めた?」
「厄介ながら高度な封印術が敷かれていて、私の力では侵入できませんでした……」
 少年は黒いカンカン帽をかぶった使い魔と、その主の顔を、おろきょろと見回す。
「じゃあ、あたしのMPは満タン?」
「はい」
 すると少女の背後から、得体の知れぬ殺気が漏れ出したような気がした。
「なら話は早いわね。久々に腕が鳴るわ……」
「え!? まさか倒しに行く気なんですか!? 返り討ちに合うかもしれませんよ!?」
「仮にも私は魔術師。左頬の黒十字は飾りじゃないのよ? 第一、このままじっとしてたって、いずれ向こうから攻めにくるわ」
「で、でも、何をされるか――」

 ルナは今にも泣き出しそうな未来の恋人の、聖女のような身体を抱き締めた。
「これは魔女の恩返し。死にかけの私に何の見返りも求めずに温かいパンを恵んでくれた義理は果たすわ、命を懸けてでも」
「本当に殺されるかもしれませんよ! 僕の同僚や上司だって、きっとあいつに――」
 可笑しくて堪らなかった。魔女の王である自分が、どこの馬の骨とも知れぬ術師ごときに敗れるはずもないだろう。
「大丈夫。絶対に守ってみせるから」
 彼女はクッスリと笑った。
「素敵よ、ドロシー。ほんとに可愛くて素敵」
 そう言うと、彼の心を温めるために、二人の思い出の中で永遠に残るはずの口づけを、
 しようとしたのだ。
 

 ミギイッ ミギイッ ギュギイッ

 

 古びた鉄橋が崩れ落ちる前兆のような怪音とともに、辺りが漆黒の闇に包まれる。
 
 ミギイッ ミギイッ ガギイッ

 鳴り止まぬ不可解な凶音。
 そして皆は、視界の一切を覆い隠す暗黒のなかで、かつて体感したことのある異様な殺気を、はっきりと感じ取った。

 ミギイッ グギイッ ガギュアッ

 魔女の王は少年を抱擁したまま術を唱える。
「……MD―バリア。ジュド、分かるわね?」

「敵側も手を打つのが早いようで……」
 青年は一瞬にして姿を掻き消した。
 少年は、がく、がく、がく、がく、と怯えながら、昨夜の狂宴を思い出していた。
「ルナ、これっ、て」
 彼女は、こうした状況に追いやられる体験を、幾度も積み重ねてきた。命の危機に追いやられる場面など、慣れっこだ。
「……間違いなく敵襲ね」
「はやく、はやく逃げなきゃ」
「今は、じっとしてて。大丈夫、あたしを信じて」
 魔女は冷静に周囲を見渡す。自身の経験上――おそらく敵は、既に闇の内に潜んでいる。我々が恐怖によって怯んだ隙に、悪しき魔術を解き放ち、命を奪い取ろうとしているのだろう。術師や殺戮獣を堂々と襲撃させるよりはクレバーな戦い方ではある。神経を研ぎ澄まさねば。対攻撃魔法バリアを貼ったところで、一瞬にして葬られる可能性は、どこまでいっても0になりえない。ここは耐えろ、耐えしのげば勝てる。術によって構築された暗闇ならば、いつか必ず晴れるはずだ。だから、しばらくは耐え忍べ。
 ――やがて、しだいに闇が薄れていき、部屋のなかが徐々に見え出してきた。

 ミギイッ グギイッ ゲギュアッ

「ルナ! これなら逃げられ――」魔女は彼の震える肩を、きつく抱きしめたまま、「まだ駄目……! 焦ったら負ける……!」
 かつて一人で家にいた際、屋外から何者かの怪しげな気配を察知し、その者を探し出すために部屋の窓を開けた瞬間、サッカーボールほどの体積をもった火の玉が、自身の顔めがけて飛んできた経験から、この判断に至った。いくら予防線を張っていようと、敵方の力は未知数であり、そもそも相手の姿が判明していない現状、先ほど島中の偵察に向かった使い魔からの報告を待つのが最善であろう。

 ミギイッ ゴギイッ ゴギュオッ

 謎の怪音。獲物を待ち構えた、血肉に飢えた化物の鳴き声にも聞こえてくる。しかし辺りを見回しても、異様な存在は全く見当たらない。半開きのカーテンの向こう側を見やっても、刺客の気配など一切しない。

 ミギャアッ ミギョアッ ミゴアッ

(いったい、どう攻めてくるつもり……?)

 ミギェッ ミギュアッ ミゴガアッ

 

 バチンッ!


 ……ザーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーッッッッッッッッッッ……突如、箱型テレビの黒い画面から、耳障りな雑音とともに、灰色の光が放たれる。
 振り向くと、そこには、アンク型の黒い十字架が映し出されていた。
「……きこえているかな、ドロシー・ファルバイヤ……そして赤髪の少女よ……」
 少年は今にも消えそうな声で、
「……悪魔だ、昨日出てきた……!」
「悪魔? 違う……我は、この不条理なる世界に苦しめられし者どもを救済するために現世へ君臨した唯一神であり、偉大なるDメイジの創造主である『ユダマ』の化身だ……!」

 二人の背筋に、まるで世界が吐き気を訴えかけているような悪寒が走る。
「さて……ぼうや。昨晩は、すまなかったね。君を『神の国』へと導いてやれなくて……私にも予知できなかった……まさか、あのタイミングで、そこにいる我が子羊に反旗を翻されるとは夢にも思わなかったのだ……!」
 魔女の王は、生き血のごとき紅い弾痕に塗れた『ユダマの化身』を睨みつけた。
「しかし女……いや、ルナ・カノン……その姿を見るのは何年ぶりか……」
 少女の頭のなかが真っ白になった。呪われし心臓が、凍てついた薄闇に蝕まれていき、うっすらと顔が青くなる。
「こうして再会できたとは夢にも思わなんだ……お前は私の声など、とうの昔に忘れているだろうが、私は、お前のことを片時も忘れたことがない……!」
 張り詰めた空気が、さらに重苦しくなっていく。十字架は薄ら笑いを浮かべる。
「しかし、なぜ貴様が、昨夜この島に辿り着いたのか……いや、見通す必要もないな。もう間もなく、Dの眷属によって『天国』へと導かれる運命なのだから……!」
 ドロシーは恐怖のあまり目を瞑った。
「……人は、なにゆえ生に固執する……物質への執着か……己の浅ましい欲求を……死すれば無へと帰す欲を満たすためにか……? まさしく悲劇! あまりに愚か! あの醜悪なる現世でガラクタのごとき幸福を求めるなど! 分かるだろう。人間が様々な意味において不便極まりない肉体を有している以上、世界が残虐となるのは当然であり、人類とは始めから生まれてこなかった方が善い存在であると。だからこそ我々は『死』を贈り、穢れきった現実から解放させ、生きたままでは到達することの叶わない神の国へと案内するのだ……ルナ、お前ならば、わかるはずだ」
 彼女は鋭い視線を、自称・神に向けたまま、少年の後頭部を優しく撫でる。
「なぜ、そんな眼で見る? 本心では私の言葉に強く共感しているにもかかわらず。こうも考えているはずだ。この現世が真に存続すべきであれば、自らの手によって己の命を絶つ者など、はじめから存在するわけなどないではないか、と。そして忘れてはいないはずだ、お前の実母であるレナ・カノンの最期の姿を! あの女の! あまりにも惨めな末路を! 笑えてこないか!? 己の身体を痛めつけてまで産み落とした我が子が、この現実において人間が幸福な生を送るなど不可能であるという真理を、自死の直前まで気がつけなかったという愚かしさに! 覚えているだろう! 奴が遺した遺書の内容を! 『ルナごめんなさい。無力な私を許さないで。あなたをこんなにも辛い目にばかり合わせてきた私を生涯呪い続けて。どこまでいっても最悪以外の何物でもない世界に産み落としてしまった、この私を……』」
 頭がおかしくなりそうだ。何が、何が狙いなのだ。奴は何のために、自分の前で触れられたくもない過去を語った!? そもそも何故、あの十字架に知られているのだ!? 己の名前や容姿のみならず、レナ・カノンの遺した遺書の一字一句まで正確に!?
「愉しくなってこないかあ? レナの生涯を思い返すたびに……いや! 幸いを希求するあまり、魂の奥底から悶え苦しむ人間の無様さを目の当たりにするたびにいっ!! ビャハッ、ビャハハハハッ、ビャハハハハハハハハハハハハアッッッッ!!!!!!!」
 薄闇のなかで、狂った笑い声とテレビのノイズに掻き消される、歯ぎしりの音。ルナのなかで交錯する、惑乱と憤怒。絶大なる殺意の萌芽。魔女の王は右手の人差し指を、灰色の画面へと向ける。自らを神と僭称する十字架を殺せるとは、微塵も考えていないが、テレビ本体を木端微塵に破壊すれば、甲高く耳障りな嘲笑なら止められるはずだ。
 だが、そう思った途端、ブツンと、テレビの電源が消えたと同時に、花火の弾け飛んだような音がした。不意に、二人の背中に熱い痛みが駆け巡る。このときは気がついていなかった。窓辺の虚空にできた、黒い瘴気の漏れ出す三角錐状の穴――魔瘴穴(ましょうけつ)より放たれた魔術の炎が、ルナたちに直撃したことを。もしMバリアが張られていなければ、ドロシーは間違いなく、見るも無残な焼死体と化していただろう。
 少年を胸元にきつく抱き寄せ、咄嗟に窓の方へ振り返ると、思わず目を見開く暇もないほどの至近距離から、火炎の龍が飛来する。          
 ドジュアッ! 流石に避けられなかった。
『未来の恋人』は、今まで体感したことのない激しい熱傷を負い、悲鳴を漏らす。
 魔女は思い出す。幼い頃、病気で寝込んだ母のために、近所の料理屋で、疲れきった身体に効くと評判のスープを、なけなしの小遣いをはたいて買おうとしたら、脂ぎった額に白い十字紋の付いていた店主から、巨大な鍋に入った大量の熱湯を浴びせられ、泣く泣く帰らざるをえなかった、悪夢の体験を。

 ――それなりに、やるのね。余程の術でなければ、バリアさえ張ってあれば、ダメージは容易く0になるはずなのだが。
 魔瘴穴が拡大する。疾風の如き速さで襲いかかる、三体の紅き龍。もう食らうわけにはいかない。何発も何発も当てられればバリアが壊れてしまう。魔女の王の矜持とともに。
 彼女は反射的に詠唱する。
「MD―シルド!」
 ……ドシュウン……。成功した。ルナの目元を狙った一体を、ドロシーの背を狙った二体を、人差し指から解き放った暗黒の盾によって、いとも容易く掻き消せたのだ。魔女は鼻で笑う。愚かね。この程度の小火で、私たちを殺そうとしたの? 魔瘴穴が更に拡大され、窓の向こう側が、悪意の充満した闇に覆われ、五つの渦巻く紅炎を視る。相手の次の出方が読めた。戦い方に芸が無さ過ぎて、どうにも敵側から賢さを感じられない。あるいは単に舐められているのだろうか?
【――ルナ様】使い魔からのテレパシーが送られてきた。【敵の居場所が判明しました】
(そのゴミ屑は、どこにいるの?)
【黒いローブを纏った三人の魔術師が、夜空を浮かびながら、術を詠唱しております。この建物の遥か真上で発見いたしました】
(すぐ、そいつらを始末しにいくから、少しの間だけ相手を見張ってて頂戴。もし怪しい動きをしたら、即座に報告して)
 使い魔への指示を終えたと同時に、再び襲いかかる業火の龍。今度は五体。十中八九、術の威力も高まっているはずだ。
 ルナは、黒く輝く靄が生み出された指先を突き出したまま、不気味なほどに落ちつき払った声で発動する。「MD―シルド・エフ」
 正面に、背面に、左方と右方に出現する、二人を護る、四つの逆三角状の闇。先ほど生成したものよりも防御力は劣るが、こちらも張っておけば死角からの奇襲に対応できるうえに、前方への守りを更に固められるのだ。
 ……ドシュン……。二重に構えられた対魔法用の盾の前に、またしても、呆気なく無力化されてしまう、邪悪なる焔。魔女の王は嘲笑の声を立てずに、乾いた笑いをしてみせる。
 今までの出方で、敵方の力量も、だいたい把握できた――もう、いいだろう。
「ドロシー」赤髪の少女は、甘く囁く。

「もう怯えなくていいわ。だって今日から、貴方は私の王子さまだもの」
「……えっ?」水色髪の“王子様”は、ぶるぶると身体と声を震わせながら返答する。
「あたしの背中にしがみついてくれる?」
 少年は『未来の恋人』の頼みを、何の躊躇いもなく聞き入れた。
「そのまま、ありったけの力で抱きしめてて。絶対に怖い思いなんてさせないから」
「……? ルナ、何を……?」
 彼女は、彼の問いかけには答えず、微かな声で、詠唱する。
「DW(ダークウィング)・エステクト」 
 ルナの双肩に、蛍の光のような、二つの闇色の球が降りてくる。それらは魔女の王に、透明色の巨大な翼を授けるのだ。
 さあ、鳥籠から抜け出すときはきた。
 彼女は彼を背負ったまま、高らかに叫ぶ。
「オーバードライブモード、スタート!」
 少女の全身を貫く、覚醒の閃光。
 ふたりの足元に、魔の風が渦巻く。
 ドロシーの恐怖の涙に濡れた目が見開かれた。

 

 

 

 

 オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 風に風に風に風に風に風に風に風に風に押し上げられて押し上げられて押し上げられて押し上げられて押し上げられて、ジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェットジェエッッッッッッッッッッッッッッッッッット!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! どういうわけだか天井をすりぬけている!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンンン!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 22時35分の夜空に木霊する絶叫!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! 幼い頃、父に連れていってもらった遊園地のジェットコースターより速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速い速いいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいいい!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!ねえルナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナナどこまで上昇するの僕たち!?!?!?!???????????わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ体を横に傾けてグルビュゴしないでシートベルトなんてついてないから落っこちちゃうからあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 魔女はクスススと微笑みながら思った。ヘンねえ。これまでの人生で、ここまで速く飛び回れた日なんて、ありはしなかった。今日は、オツキサマよりも高いところへ辿り着けるのかもしれないわね。でも、そこには、きっと私たちにとっての楽園なんてない。ドロシーだって、そう感じるに違いないわ。今は、こなすべきことをこなさなきゃ。
 急にスピードが緩やかになった。ジェット機が気球へと早変わりしたかのようだ。頭がフラ・クラしてきた。
 すると少年は驚愕の声を上げた。魔女の王は囁く。「あいつらに見覚えがあるの?」
「帝国だ……! ベルウォードの魔術師……!」
 2人から50mほど離れたところに、標的はいた。ジュドからの報告通り、たしかにドロシーの暮らす寮から遥か真上に、黒いローブを纏った三人の男が、黒表紙の魔導書を開きながら、何らかの術を詠唱している。
(あの胸元に付いてある、『BELL』と刻まれた十字の紋章は……嗚呼、やっぱりそうだ。あの日、僕たちの故郷に突如として侵略してきた、地獄からの使者たちだ……!)
 ターゲットが建物から脱出し、そう遠くない位置から自分たちが観察されている現状には、幸いにも、まだ気がついていない様子だ。“壊す”のは容易だろう。しかも現在、ルナとドロシーの肉体には透明化の呪文(ダークウィング・エステクトは、使用者に高度な飛行能力を与えるだけの術ではない。詠唱者と、詠唱者の身体に触れた者を、壁のすり抜けのできる透明人間へと変化させられる、極めて汎用性の高い魔術である)が施されており、並の術師ごときには、絶対に見破られるはずもない。
 けれども重大な懸念事項があった。
「……一つ、聞いていい?」
 彼は首を小さく傾げながら、「は、はい?」
 魔女は指先に殺気を込める。「人が殺される瞬間って、見慣れてないわよね?」
「は、はい……みたことは、あるけど……」
「でも、ここで彼等を殺さないと、きっと私とドロシーは助からない。我慢してくれる?」
「……はい。がまん、します」
「これから唱える呪文は、ひどくシンプルで、この世で最も残虐とも言える魔術よ……だから、しばらくは目を閉じてて。お願い……」
「……わかりました」
 少年は彼女の頼みを聞き入れた。
 魔女の王は、禁忌の術を唱える。

 

 「バベル」

 

 ――奇襲は成功した。
 三人のうちの一人の四肢が、夜に轟く爆音とともに、いとも容易く切り裂かれ、胴体の四つの切断口から大量の鮮血が噴き出し、ばびゅらららららららららららららららららららららららららららと天使の子守唄が響き渡り、ひらり、ひらり、と、桜の花片がアスファルト上へ舞い散るように漆黒を纏った両腕と両足と、死した男の手から離された魔導書と、生首の生えた黒い達磨が、堕ちてゆく。
 二人は、仲間の無残極まりない最期の瞬間を目の当たりにして、悲鳴などあげられず、ただ呆然としていた。だが両者とも、すぐに錯乱し、「フレアードラ!」「フレアードラ!」と、炎の魔術を乱発する。彼等の眼にはルナたちの姿が映っていなかったために、五匹の焔の龍は滅茶苦茶なところへ進んでいく。偶然にも、そのうちの一匹は少年の方へ向かってきて、彼の右足を焼き尽くそうとしたが、「MD―シルド」の力によって雲散霧消する。そして、たまたま彼女の目元に飛来してきた、小火のような一匹の幼い龍。魔女は、顔から足の爪先までを防護している靄状の黒い盾を、下へ少しずらし、敢えて避けようとせずに、鼻で笑いながら、そのまま受け止めてみせた。まるで熱が感じられず、火というよりは、そよ風の類だと思った。
「バベル」
 ――2体目の撃墜に成功した。

 最後に残った術師は、恐怖に取り憑かれ、けたたましい絶叫を張り上げながら、ルナの目の前で背を向けて、本拠地である帝国へ戻ろうと、この場から迅速に逃げ出そうとする。彼の金切り声に反応して、つい目を開けてしまったドロシー。魔女の王の唇が歪む。
「ディバインベル
 男は術によって、あらゆる動きを封じられた。手足が拘束具に繋げられたかのように動かず、術を詠唱しようにも喉から声が出ない。
 そしてルナは呟く。

「バベル」。
 少年は驚愕した。あの恐ろしい帝国の魔術師が一瞬にしてバラバラに分解されたという現実を、にわかに信じられなかった。いや、そもそも、これは本当に、この世の光景であるのか? 夜空に浮かんだ人間が、いきなり両腕と両足が魔の力によって削ぎ落とされ、赤黒い液体が島中に散らばるなど、夢としか思えない。こうも思った。おそらく自分は今日、本物の魔術というものを初めて見たのだと。一人の術師の、無惨で、どこか幻想的な死に様を目の当たりにして、恐怖心よりも、驚異の感情が強く芽生える。
「ルナ、ありがとう」
「あなたは……あたしのこと、こわくない?」
 ドロシーは屈託のない笑顔で言う。
「たしかに、さっきの呪文は怖かったけど、ルナは綺麗で優しくて恰好いい女の子だと思うし、ちっとも怖くないですよ」

 胸が苦しくなった。嬉しさのあまり。過去の罪業を知られていない後ろめたさのあまり。赤髪の少女は深い息をつく。わたしと慈しみ合おうと、愛し合おうとした者は皆、例外なく無残な最期を遂げた。だから本当は、あたしと、この子は、出会っちゃいけなかった。かつて自分が生きていた世界とは何から何までが異なっていれば話は違っていたのかもしれないが、よりにもよって、別次元の世界でライトメイジとダークメイジの名を聞かされる羽目になるとは。生の悪夢からは、未だに逃れられないというわけか。
 だが戦うほかにないのだ。この果てしなくグロテスクな現実と。なぜなら愛する者から、無垢なる信頼を寄せられているのだ。「綺麗で優しくて格好いい」とまで言われたのだ。彼と刹那のあいだだけでも、同じ時間を共に過ごしてみたいのだ。たとえ、それが許されざることだと分かっていたとしても。

殺戮のルナ・メイジ 6章

 その日の午後は、授業をサボって学校の屋上からシリアルキラーのような青空を眺めていた。今日も聴こえてくる。私たちユダマの使徒らが殺戮してきた、マリアの使徒たちの嘆き声。生まれた時から白い十字紋を体につけていただけで迫害された者どもの悲痛の叫び。耳を削ぎ落としたい。鼓膜を破って自殺したい。嗚呼、こんな日にかぎって愛用のウォークマンを部屋に忘れてきてしまうとは! レッドハーツの、レッドハーツの歌が聴きたい! 彼等の音楽だけが今の私にとって唯一の支えだ! 右腕の大蛇のような切り傷が疼いて痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い痒い!    
 死にたい。あいつと母が再婚して、私にとって居心地の良かったスラム街を離れ、聖術師(ライトメイジ)を殲滅するための魔術師(ダークメイジ)を養成する学校に通わされるようになってから、毎日のように思うようになった。これ以上、彼等を嬲り殺しにしたところで何になる? たしかにL側の人々は、遥か昔から、つい数年前までにかけて、私たちD側に沢山の酷いことをしてきた。でも、だからといって、その蛮行をやり返していいわけにはならないはずだ。にもかかわらず、どうして新しい父も教師も同級生も、気味の悪くて堪らない笑い声を上げながら、彼等を襲い続けられる? 結局のところ、DもLも同じ人間に過ぎないではないか。ただ皮膚についた紋章の色が違うだけで、なぜ、あんなにも醜い争いが起こってしまうのだろう。聖神マリアよ。邪神ユダマよ。何故お前たちは償おうとしないのだ。何故お前たちが創造したLとDの術師を無へと還さない? 貴様たちが人類に術の才能を与えなければ、現在の紛争が生み出されるはずもなかった!
 だが私一人の手では、どう足掻こうとも解決できるはずのない問題を考えあぐねても無意味だ。受けにいこう。退屈な授業を。先生には、この前と同じように、「昼休みにL側の人間を見つけたから、さっき始末してたんです」と言って、その証拠となる写真(道端で焼死していた見知らぬ青年が写っている。けさ撮ってきたブツである)を持っていけば、長い説教をくらわずに済むはずである。そう思って、重苦しい身体を無理に引きずってまで、嫌々ながら教室に戻ろうとしたのだ。
 けれど本当は、あの時点で学校を抜け出すべきだった。鉄網フェンスを乗り越えて、空の彼方にでも逃げ込むべきだったのだ。
 今も分からない。スラム街で暮らしていた頃、大の仲良しだったエルザが、どうして実験室で磔にされながら、断腸の思いを込めて泣き叫んでいたのか。
 そこにいた人間はエルザだけだった。明るい日差しの差し込む室内に響き渡る、黒いローブを纏った餓鬼どもの嘲罵。黒板の前でパイプ椅子に座りながら、悪意の充満した光景を観賞している男の教師。無力な少女に、未熟にして邪悪なる雷を、氷塊を、小火を放つ邪悪な魔術師たちを、そして、その所業を止めようともしないばかりか、むしろ愉しんで眺めている狂った大人を、自分と同族であると絶対に認めたくなかった。そして理解できなかった。何故、彼女を痛めつけることが、そんなにも愉快なのか。右頬に白い十字紋が付いていただけで、あの子が魔術の実験台として扱われてしまうのか。
 嗚呼、間違いなくエルザは惨殺される! 
 やむを得ない。母さんには悪いが、あの日と同じように彼等を『分解』するしかない。「止めて! お願い!」と叫んだところで、まず事態は解決しないだろうから。幸いにも奴等は、廊下側の窓から、災禍の舞台劇を眺めている私の存在に、気づいていないようだ。絶好のチャンスだ。私は醜い魔術師どもを見やりながら、禁忌の術を唱えた。
「バベル」
 わずかに開かれていた窓から術の詠唱を耳にしたのか、エルザが私に視線を向けた。
 その瞬間、小気味よい爆破音が鳴り響く。
 弾け飛ぶ無数の四肢。
 ぷぴゅらららららららららららららら。
 吹き散らばる黒い鮮血。
 おそらく地獄とは、こういう場所なのだろう。と、空想してみたら、なんだか愉快な気分になれたので、久しぶりに笑顔になれた。
「ルナちゃん?」彼女の怯えた声が聴こえてきた。
 本当に、こんなところで再会するとは思わなかった。ブロンドの前髪に僅かに隠れた白い十字紋と、所々が破れている見慣れた薄茶色の服を、ふたたび見られる日がくるとは。
「エルザ! 大丈夫、すぐ助ける!」
 そう言って、甘い死臭の漂う実験室に足を踏み入れ、エルザの傍へ近寄ろうとした。
 けれど彼女は顔を震わせながら、眼をきつく瞑りながら、「来ないで!」と喚き叫んだ。
 息の根が止まりそうになった。だが、今、思い返してみれば、当然の反応だった。当時は母さんから貰った、一ヶ月に一回は服用せざるを得なかった例の薬を、頬の黒い紋章を白くする劇薬を飲んで生活しながら、エルザをはじめとした周囲の人々に、今の今まで自分をL側だと誤認させていたのだから。

 両親と友人を魔術師たちに惨殺された過去を持ったエルザに、そんな嘘をついていたのだ!
 私は涙を堪えつつも、黒い磔柱に駆け寄り、エルザを急いで逃がそうとした。
「いや! 近づかないで! いやあ!」
「お願い! 落ち着いて! ここから早く抜け出さないと、他の奴等に――」
「死なせてえっ! 死なせてえっ!」
 絶句した。心臓が止まりそうになった。
「みんな嫌い! みんな大嫌い! どうせわたしはあの日死ぬはずだったの!」
 閉じられた瞳から流れ出す、ふたすじの、
「どうせわたしはあの日死ぬはずだった!」
 絶望の涙を見て、
「ママはわたしのことなんて庇わなくて良かった! わたしには術の才能なんてないんだから、このさき生きてたってしょうがないのに!!」
 沈黙するほかになかった。
「貴様等! これは一体どういうことだ!?」
 私達のやりとりを聞きつけたのか、大勢のダークメイジが教室の外に集まってきたのだ。
 暗黒が臓器を蝕んでいく。今までは母さんのために耐えていたが、もう限界だ。
 こんな世界など今ここで終わらせるべきだ。地も空も人も何もかも虚無の彼方へと失せてしまえばいい。
 私は禁断の呪文を唱えた。

 

「   」


 それから先のことは、よく覚えていない。
 ただ校舎中に無数の死骸が転がっていた。
 みんなバラバラ。とにかくバラバラ。ひたすらバラバラ。スクラップみたいな四肢。

 有象無象の腕と足。香水のような赤黒い液体。
 実にあっけなく終わった。ここまで簡単に皆殺しにできるとは思わなかった。生徒も教師も皆、所詮は雑魚に過ぎなかった。
 きこえてくる。丸時計の針が進む音。
 でもエルザの叫びは、もう聴けない。
 もし自分が男だったなら、あの子を恋人にするつもりだった。可愛くて、美しくて、誰よりも優しかったから。

 なのに、どうして、私は、彼女を……?

 私は陽射しの差し込む実験室にて、床に転がっていた一本の腕の中指薬指小指を踏み潰し、聖なる少女の生首を拾い上げて、ぽつり、ぽつりと、歌い出す。エルザも大好きだったレッドハーツの、あの曲を。

 生まれたところや 皮膚や目の色で
 いったい この僕の
 何が わかるというのだろう――

殺戮のルナ・メイジ 5章

『衰弱の島』――正式名称はベルドラード島というのだが、その孤島で強制労働に従事する、明日への希望を見失った労働者の間で流行した、禍々しい俗称である。
 島の中央部には、小規模で錆びれた工場があり、そこは奴隷たちの働き場。小さな牢獄の内部に漂う、過剰なカビ臭さと、日々の過酷な労働が、従業員たちの精神を絶望の谷底に突き落としていた。
「……つかれたぁ……」
 工場員の一人、ドロシー・ファルバイヤは、『配給広場』にて溜息をつく。
 あの大惨劇の起こった翌日、唯一生き残った彼は、いつも通りの時間に出勤して、これからのことを工場長や非番の作業員に相談しようとしたのだが、始業時間になっても管理者と自分を除いた製造員が全員来ない。当然、そんな状況で作業をするわけにもいかず、工場の外に出て、暫くの間、島中をくまなく捜し回ってみたが、結局は徒労だった。どこへ行っても、人影すら見当たらなかったのだ。
 おまけにベルドラード島の北部にある漁村で暮らす、工場関係者以外の人々まで行方不明になっていた。嗚呼、どうすればいいのだろうか……とアレコレ考えているうちに、いつしか12時半、配給の時間になっていたので、ドロシーは配給広場に赴いたのである。
 その広場はドロシーをはじめとした労働者一同が住む、コンクリート製の古い借家に囲まれている。中央部にピラミッド型のオブジェが設置されており、この置物こそが島の工場員にとっては唯一の生命線なのだ。
 彼はオブジェの頭頂部についた挿入口に、昨夜、体調を崩し食欲が著しく欠けていたために使わなかった『配食チケット』を差し込んでみた。果たして、現時点でも食料は配布されるだろうか……。
 ポワン! 軽やかな電子音が鳴った。
 ピラミッドの底部に取り出し口が表れた。そのなかにはビニールに包まれたコッペパンと、紙パックの牛乳が入っている。
「やった!」 一食分の食事を確保できただけでも幸いだ。これで昨夜出会った赤髪の少女に、ささやかな食事を与えられる。ドロシーは早速、彼女の居る自宅へと向かった。
 あの人、もう元気になってくれたかな? 

 

 目覚めると、灰色の天井が映っていた。寝心地の悪いベッドから体を起こし、辺りを見回すと、どういうわけか打ちっぱなしのコンクリートの壁に囲まれた、狭い部屋に運ばれていた。室内には埃をかぶった壊れたテレビ、冷蔵庫、クーラー、『13時前には帰ってきます。それまでは、ゆっくり休んでいてほしいです』と拙い文字で記されたメモが置かれた檜の小机があって、日常生活にはさほど困らなそうだが、本当に必要最低限の家具しか置かれていないため、全体的に殺風景である。
 ここは夢の世界かと頬をつねってみた。痛い。たぶん、現実だろう。ルナは頭を抱えた。この家に導かれる以前の記憶が、極めて曖昧で、そもそも、なぜ、ここで寝ていたのだろうか。ただ、昔読んだ冒険小説『マリーの冒険』に登場するキマイラに似た化物を反射的に葬ったことだけは、薄らと覚えている。
 もっとも己の忌まわしい過去や名前は忘れていなかったが。赤髪の少女は嘆息を漏らす。 
 ぴいぃ♪ ぴいぃ♪ 
 ベージュのカーテンを引き開けると、淡い陽の光が陰鬱な影を差し込んだ。
 窓の外には満開の桜の林が広がっており、赤みがかった土壌には、聖女の処女膜のような花片が散らばっていた。薄紅色の樹木の枝先には、一羽の可憐な雀が、殺戮という概念を知らない哀れな鳥がとまっている。
 ぶしゃぶしゃにしてやりたい。魔女の王は愚者どもの阿鼻叫喚、鏖殺の焔を夢想しながら、窓を押し開けた。凍てつく風が吹き込んだ。熱い怒りが込み上げてきた。ルナは瞼を閉じる。腹の底で渦巻く、殺意の暗黒を解き放つために、紅の精神を研ぎ澄ませ、大いなる破滅を願い、魔女は雀の“核”を、じっと見据えて、「バベル」――そう唱えようとした。
 だが――こん、こん、とドアをノックする音がした。驚きのあまり心臓が飛び跳ね、カーテンを勢いよく閉じて、びくびくと部屋の中を見回しても、当然、誰もいるわけがなかった。客人だろうか。自分を保護してくれた、この家の住人が戻ってきたのだろうか。
少女はコートの右ポケットに常備してあるナイフを震えた手で握り締めた。がちゃり。扉が開かれ、何者かの足音が、ひたひたと聞こえてきた。目眩がする。身の毛がよだつほどの、おぞましい吐き気がやってきて、鼓動が早くなる。しんと張り詰めた空気が、魔女の王の血潮を滾らせていく。彼女は息を荒げながら、あの鳥を殺す前に、まず足音の正体が、かつて絶滅させたはずの、正真正銘の人間がたてるものであるかを確かめようとしていた。そうであれば、たとえ自分を保護してくれた恩人であろうと、絶対に容赦はしない。雀などよりも遥かに罪深き種族を、生かしておくわけにはいかない。
 かちっ。部屋の住人が、天井の電灯のスイッチを押す。薄暗い室内が一瞬にして明るくなり、彼女の視線の先にいる人物の姿が、はっきりと映し出される。
 ルナは目を見開いた。
 まるで時の流れが止まったような感覚が生じ、暖かい何かが心の中に溶け込んでいった。
 そして、なぜだか、すごく懐かしい気持ちになって、一筋の涙が零れ落ちそうになる。
「あ、た、ただいま、かえりました」
 少年は弱々しくも透き通った声で語りかける。「あ、あの体調の方は、どうですか?」
 少女は真っ赤になった顔を俯け、首にかけたドブネズミのペンダントに視線を移し、それを右の掌で、せわしなく弄りだす。
「えっと、きのう、仕事場で倒れていたから、僕の家に運んできました」
 ……しごとば? 目線を僅かに上げ、もう一度、彼の澄み切った瞳の青空を見つめてみると、頬から炎が吹き出そうになった。
「あ、元気になるまでは、しばらくここにいてくれても平気だから、今は安静にしててほしいです……あ、そうだ」
 そう言うと、両腕に抱えた紙パックとパンを、檜の丸いテーブルの上に置いた。
「もう1時ですね。もし食欲があったら、これ食べても大丈夫です……あ、すみません。苺ジャムとかマーガリンとか無くて……」
 藍色の目を剥く。物盗りのごとき手つきで、真っ白なパッケージに『メグミルク』と記された牛乳パックと、ビニールに包まれたコッペパンを掴みとり、小刻みに痙攣する両手で、不器用に袋を破り捨てると、死に物狂いで喰らい出す。そして紙パックにストローを勢いよく差し込み、頬をへこませ、上体を反らしながら、一気に喉の奥へ注ぎ込む。食べきって、ふう、と満足そうに息を吐くと、ミルクの薄べったい容器を握り潰す。
 水色髪の少年は、飢えた獣の形相に呆気にとられたものも、心の底から重荷が取り除かれた気分になり、軽やかな爽快感を覚えた。
「よっぽど、お腹が空いてたんですね」
 そう言うと彼は、慈愛に満ちた笑みを浮かべた。
「あ、まだ、ゆっくり寝ててください。いくら体調が良くなったからって、お医者さんに診てもらったわけじゃないんですから」
 清潔で愛くるしい笑顔が、女を昂ぶらせる。

 ドロシーは玄関から部屋へと繋がる短い廊下に向かう。台所の銀色の取っ手のついた白い引き出しの中から、余っているはずのチケットを探しだす。華奢な体つきに比例した、極めて食の細い体質が幸いだった。しかし、たったの2枚しか見つからず、心の奥が暗い雲に覆われる。今日なんとか食いつなげたとしても、明日からは飢餓の生活を送らざるをえない。配食の管理を担う工場長や漁村の人々が行方不明になった挙句、この島には果樹園や野菜畑などの農地が一切ない。これからは野草を主食にすべきか。しかし草の適切な調理法や、毒草の見分け方を知らない。あるいは海辺で魚釣りをしながら糊口を凌ぐべきか。釣竿は持ってないが、あの漁村なら釣竿など道端にでも捨てられていそうだ。けれども台所の古びたガスコンロは壊れていて火が点かない。
 深い溜息をつく。嗚呼、自分の扱える呪文のレパートリーの乏しさに嫌気が差す。疲弊した肉体を癒す術のみならず、もっと色々なものを使いこなせるようになれば、もう少し楽に生きられるはずなのだ。

 ルナは、口づけの雨で汚したくなる少年の頬を、うっとりと観賞していた。すると彼の横顔に、ふと憂いが生じたのを見て、何気なくベッドの傍にある冷蔵庫を開けてみる。そのなかには、水玉模様のパッケージに『アクアジュエル』と記された、冷たい飲水の入った一本のペットボトルしかない。
(ねえ、ジュド……)固いベッドに寝転がると、コンクリートの壁の上を、のろのろと歩き回る、魔女の王の『使い魔』に尋ねかける。
(あの子、まだ昼食とれてないの?)
【はい。どうやら彼は昨夜から冷やしておいた、ペットボトルに入れた水道水だけで我慢するようですね】
(……さっきのパンと牛乳、本当は、あの子が食べるはずだったの?)
【ええ、無情ながら正解です】
 嗚呼、実に居たたまれない気分だ。
【だが貴女ならば、彼の空腹を満たせる呪文を唱えられるはず。なのに、なぜ、そんな顔をなさっている?】
(ジュド、怒らせないで。私が、できるかぎり他人のために術を使いたくないことを、あんたは、よく知ってるはずじゃない)
【重々承知の上で申し上げております。しかし、どうしても、かの少年を微笑ませたいのなら、やむを得ないのでは】
 そう言うと、青いローブを纏った細身の美青年は、薄暗い天井の底へ、沈むように掻き消えていった。

 仕方ない。あの少年に暗く沈んだ表情は似合わない。ルナは魔術師としての信念を押さえ込み、低く掠れた声で呟く。
「……オルド・リム……」
 部屋の方から彼女が、はじめて何らかの言葉を発したのに気づくドロシー。そして次の瞬間、なにか柔らかい物が落ちたような音も聞こえてきた。振り向いてみると、思わず心臓が縮みあがった。見間違いかと思い、恐る恐る足を進め、ふたたび丸い机の上を凝視すると、つい腰が抜けそうになった。
 そこには、さっき少女が胃に流し込んだはずの、ビニールに包まれたコッペパンと、未開封のメグミルクが置かれていたのだ。
 赤髪の少女が、「ね、ね、ねえ」と、会話のキャッチボールが極めて苦手な人間のように話を切り出した。「お、おなか、すいてる?」
「こ、これ、どうやって出したの、ですか?」
「いいのよ、そんなこと! で、どっち!? 食うの!? 食わないの!?」
「だ、だいじょうぶです。僕、小食なんで」

 と、言ったそばから、ギュル・ラ・グーと、愛らしい腹鳴りを起こしてしまうドロシー。 

 テーブル越しで正座をしている少年の恥じらう様子を見て、ルナの刺々しい目つきが、だんだんと蕩けていく。赤髪の魔女はクスススと幽かに妖気のこもった笑い声をたてた。
「せっかく用意したんだから、食べなさい」
 少年は困惑しながらも、いそいそとプレゼントの包装を解く。ビニールをゴミ箱に捨て、何の味もないパンを口元に運び、あーん。むしゃもぐ、むしゃもぐ。牛乳パックの飲み口にストローを差して、こきゅ、こきゅ。
 眺めているだけで女体が、poooooooooooooooooooooo!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
「あ、ありがとうございました」
 食べ終えると、ちょこんと頭を下げて礼を言った。しかしルナは軽い苛立ちを覚える。どうも心のどこかで自分を警戒しているせいか表情が固く、戸惑いを隠しきれていない。
「もしかして、まだ足りないかしら?」
「あ、いや、じゅうぶん、です」
「ふーん……ところで、好きなデザートとかあるかしら? あったら教えて頂戴」
「……ええっと…………ホットケーキ」
 魔女は、机の上に添えられている、彼の白い紋章のついた左手を ! と、一瞥すると、のそのそと彼の傍に近寄って、それを握り締める。少年の小さな背中が、びくりと震えた。
「ねえ、なんていうの? 名前」
「あ、えと、ドロシーっていいます」
「ふうん……女の子、なの?」
「…………いちおう、男です」
「どうして私を見殺しにしなかったの?」
「……え? 死にそうだった……から?」
「あたしなんかを助けたら、世界が滅びるよりも恐るべき災いが、ドロシーの身に降りかかるかもしれないって、そう感じも考えもしなかったの?」
「??? い、いえ、まったく」
「そう……そう、なの」
 赤髪の魔女は、ドロシーの優美な左手の甲に、無数の破滅を呼び寄せてきた右手を乗せたまま、あの呪文を再び唱える。
「……オルド・リム……」
 すると少年は驚愕の声を発した。
 音もなく虚空が切り裂かれ、白い皿のような天井灯の真下に、四本足の丸い机の真上に、魔力の漏れだす黒い渦が現れる。そこからカラスの羽を生やした食器たち――白い大皿に乗った焼きたてのホットケーキと、メープルシロップの入った透明色の容器が、ゆらゆらと舞い降りてきたのだ。
「すごい! すごい!」
 青々と光り輝く眼を瞬かせながら、惜しみない賞賛の拍手を贈る。
「たべてもいいんですか!?」 
「そりゃあ、もちろんよ」
 ドロシーは、皿に添えられた手術用のメスのようなナイフと銀のフォークを持つと、ふわふわのホットケーキを器用に八等分する。そして円を描くようにシロップをかけ、そのうちの一切れを舌の上に運ぶ。極上の笑顔で、もぐ、まぐ。もぐ、まぐ。
 ふたりは限りない幸福感に包み込まれる。嗚呼、まさに、いくら金を積んだところで、絶対に手に入らないもの。
 少女の惚けた口から、にひぇひぇ、にひゃひゃひゃー、と馬鹿みたいな声が漏れ出す。
 いつしか八分の一になった魔法のデザート。彼は言った。口周りについた甘い食べかすを拭き取ろうともせずに。
「最後の分、よかったら、いかかですか? すごく、おいしいですよ」
「…………………………」
「……あの、僕の顔、どこかヘンですか?」
「…………………………せて……」
少年は首を傾げた。「は、はい?」
「……………………って……させて……」
「……え、ええっと……?……」どうにも言葉の一字一句を、うまく聞き取れない。
 彼女は気恥ずかしさを胸中へしまいこむのに苦戦しつつも、魂の奥底から言葉を絞り出す。

「……あーんって、たべさせてほしい……」
そう言って眼を俯ける彼女を、不思議そうに見つめるドロシーは不意に、くすりと笑う。
「あなたは変わった人です。でも、お安い御用です、お姫さま」
 軽い冗談を口ずさみ、残ったパンケーキをフォークで刺しとり、その麗しき口元に差しだす。赤髪のプリンセスは、餌に飢えた雛鳥のごとく、ぱくう! そして、ふぁむ、ふぁむ。まるで仲の良い姉弟のように、あるいは幸福な恋人どうしのように二人は微笑みあう。 
「食後のシロップがたっぷりかかったホットケーキは、やっぱり格別ですよね」
 収まらない胸の高鳴り。世界のすべてが壊れてしまいそうで、もう抑えきれない。少女は欲望のまま、彼の痩せこけた身体に飛びついて、きつく、きつうく抱き締める。
「ひゃっ!?」

 あわおろ、と困惑するドロシー。
「あたし、ルナっていうの」

 未来の恋人の肩にもたれかかりながら、「いっしょに昼寝したい。眠くなっちゃったの」
「ひるね? 今から? 僕と?」
「ドロシーとなら、悪夢にうなされる気がしないんだもん、ぜんぜん……」
 急に不思議な気持ちになった。自分はルナという人物について、まだ多くのことを知らなすぎる。同様にルナもまた、初対面である自分がどのような人間であるかなど、全くもって分からないはずなのだ。にも関わらず、なぜ彼女が子犬のように甘えてくるのか、よく分からなかった。
 ただ、それが本心から口にしたものであるのは分かった。ツリ目の下に浮かび上がる真っ黒な隈と、ぴくぴくと痙攣する両の瞼が深刻な眠気を主張していて、言葉の端々から痛々しいほどの切迫感が伝わってくる。そして彼女の細い両腕は、飢えた肉食獣に睨まれた子鹿のように震えている。
 だから彼女を安心させるために言った。「はい、僕なんかと一緒でよければ」
 穏やかな声音だった。深い感動を覚えて、つい胸を掻き毟りたくなって、強い衝動に駆られて少年をベッドの上に押し倒す。嬉しさのあまり、顔を幸せそうに緩めるルナ。性別を男に変えて以来はじめて異性に、それも綺麗な顔立ちをした女性に覆い被さられて、頬が薄桜色に染まるドロシー。

 やがて赤髪の少女は、すうすうと安らかな寝息をたてはじめた。目覚めるまでの間は、その至高の抱き枕を、けして手放そうとしなかった。ドロシーは、しなやかで力強い腕のなかで、これから先のことをアレコレと想像していたが、いつしか瞼が重たくなっていき、ついには彼も、くうくうと静かな寝息をたてはじめる。

哲学ごっこ第一回まとめ「知っているつもりを避けるには?」

  1. ①「そもそも知るって、どういうこと?」

 1.知るとは「確かめる」
 2.知るとは「気づく」
 3.知るとは「全体像を掴む」
 4.知るとは「忘れないこと」
 5.知るとは「手際の良さを身につける」
 6.知るとは「学ぶ」
 7.知るとは「関係性の構築」
 8.知るとは「統治」
 9.知るとは「人と人との営み自体」

 10.知るとは「イメージと現実の擦り合せ。経験/体験」 

 

②「知っているとは、つまり?」

「知っている」とは……その物事に関する情報を得ている、知識として持っていること。

「既知」とは……すでに知っていること。すでに知られていること。対義語は「未知」。

 

「知っているつもり」とは……その物事に対する心構えができているということでもある。実際はそうでないのに、そうなったと誤認した状態でもある。不安定な知である。それ以上、その物事については、何も知ることなどないだろうと見限った状態でもある。

「知っているつもり」とは……その対象について、懐疑心が一切なくなっている状態とも言える。 

Q「知っているつもりを避けねばならないわけは?」
A「手痛い失敗を避けるため」

 

 ……「知っているつもり」を避けたいのならば、敢えて何もかもを疑ってみるしかなさそうだ。その中でも、ある何かに対して疑う余地などないと驕っている自分自身に対しては、特に疑いの目を向けよう。その疑いから、何もかもを調べ尽くす姿勢を養うべきだろう。今、私が、あえてしてみせたように。 探ろう。多角的に考察していこう。 そして慎重になるべきだ。何事にも、価値をつける場合、動く場合。 

 

 

③「知っているつもりを避けるには?」

 1.何者も、何事も、自分の目で見て確かめる。そして自分以外の複数の者の目も借りて、物事を深く、広く、確かめていく。自分だけの目をアテにしては駄目だ、そして自分を省いた多くの人々の目だけをアテにしても駄目だ。自他に対して、冷徹であれ。慎重になれ。安易に判断を下そうとしてはならない。

 2.アンテナを強くしよう。感覚を研ぎ澄ませよう。この世のすべては、あなたと連関する。「私」を、現状においての「私」のままに放置しておくべからず。絶え間なく「私」を更新させ続けるべし。何事にも、何者にも、真摯に、ひたむきに取り組み、小さな世界を掘り下げていこう。すべてと私は繋がる。

 3.物事の「状態・内容・価値」を「把握する・理解する・悟る」。

  ・状態……ある事物・対象の、時間とともに変化しうる性質・ありさま。
  ・内容……中身・実質。すなわち剥き出しのままの姿。
  ・価値……Aを非Aよりも上位に位置づける理由となる性質、人間の欲求を満たす性質、人間社会の存続にとってプラスになると考えられる性質。

5.その物事について詳しくなる。持ちうるかぎりの知識や経験を総動員して、その物事の実質に近づこうと試みていく。 

6.その物事と直接的に関与してみよう。その物事から何かを学ぼう。
7.その物事の要求するレベルに達そう。
8.対話をしてみよう。仕草を観察していこう。何を好むか、何を嫌うか、徹底的に隈なく調べあげていこう。
9.何者かになってみよう。何らかの立場を有してみよう。 

10.その物事の全体を見通そう。その物事の成り立ち、その物事に関係するあらゆる物事を観察していこう。じっくりと。
11.その物事にとって、あなたが、なくてはならないような存在になるようになること。
12.その物事自体の、あるいは物事の近くの命の面倒を見ること。世話をすること。