TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

「生誕」

 九月二四日の夜、何気なく財布の中から紙幣を取り出し、それを鋏で切り裂いたあと、晩御飯を食べてみた。今日のメニューは納豆ご飯とサラダ。いつものように美味しかった。
 食事を終えて、お皿を洗う。じゃぶじゃぶと音をたてながらスポンジの泡立ちを堪能する。舐めてみたら甘そうだと思いつつも確かめてみる勇気は湧いてこない。
 お風呂に入る。入浴は本来、自分自身の身体を隅々まで観察しなくてはならない試練であり、生きるがゆえの汚れを落とすために行うべき生活習慣ではないのだ、と笑ってみる。瞼を閉じる。窓の外の闇と一つになる。ごくまれに、この時だけが幸福なのだと断言したくなる。しかし、いつまでも、こうしているわけにはいかないので、シャンプーとボディソープを用いて肉体を清めることにする。
 私は白いお皿ではない。しかし今夜は、数十分前に綺麗にした、ごはん茶碗とサラダボウルに対して、なぜか仲間意識を持ってしまう。つい先日、無職になって社会人失格となった、こんな自分自身に、肉や魚や野菜のような立派な何かを乗せたり盛りつけたりする資格があるのだろうかと卑屈になってしまう。
 だが、陰毛や脂っこい皮膚に触れてしまうと、やっぱり俺は皿じゃなくて人なんだと落胆してしまう。別に人間を辞めたいわけではない。少年漫画を連想させる超人に変身したいわけでもない。そんな異常事態が起こってしまえば、気弱な自分では他の特殊能力者の、あるいはヒーローかヴィランたちの踏み台にしかなれないのだろうから。
 バスタオルで身体を拭き、下着を身に付け、ベッドの傍のコンパクトな座椅子に腰かけると、天井から一万円札が降ってきたので、これは本物なのだろうかと思い、たまたま手元にあった小説の七十五ページを剥がし取って、それと共に万札を鋏で、ちょきちょきした。机の上に散らばらせてみると、平仮名を一つだけ書き記せるメモ用紙を沢山、入手できたのだという小さな喜びが胸の内に湧き上がる。
 この心地よさを忘れないようにするためにアパートの外へ飛び出す。満月の浮かぶ夜空のもとで、近所の公園に向かって走り出す。目的地に辿り着くと、そこには少年少女たちがいなかった。こんな真夜中だから当然なのであるが、その当たり前が悲しみをもたらす。もっとも普段の私は、子どもが大の苦手なので視界に入ってしまえば一目散に逃げ出してしまう臆病者なのだが、それでも今は彼等と、どうしても遊びたくて仕方がなかったのだ。
 とはいえ、一人でも公園で遊ぶのは楽しいものだ。誰にも見られずブランコを漕ぐのは気持ちがいい。どこか遠くへ行かずとも、私たちは遠くに行ける存在なのだ、と、生まれてはじめて歌いたくなる。本日、九月二四日こそが、自分自身の真の誕生日だと両親に認めさせたくなるぐらいに、今夜は素晴らしい。
 夜風を浴びて満足したので、これさえ今日のうちに感じられれば明日からは無敵だと思えたので、とりあえず家に戻ることにした。名残惜しさを覚えつつも、公園から立ち去ろうとした。すると、音がした。ちゃりん。なんだろうと足元を見てみると、薄汚れた十円玉が一枚あった。恐怖のあまり、笑いが止まらなかった。拾ってみて、天を見上げてみると、これがどこから落ちてきたのか、さっぱり分からないと確信し、この奇妙な硬貨を汗に塗れた掌で握り締めた。さっき裂いたばかりの紙幣どもとは異なり、この十円玉だけは馬鹿力で捻じ曲げたり叩き割ったりしてはいけないと決意した。そもそも自分に、この化け物が壊せるのかという戸惑いの前では、ひどく脆弱な意思でしかないと思いつつも。

「旅のはじまり」

 時が止まっている。白い霧に視界が封印されている。悪魔の顔だけは見えている。それは美しい人間であるのかもしれないと思った。一瞬、ついに自分自身が、認知症を患ってしまったのだろうかとも疑った。心は今、生と死の境目を彷徨っているようである。激しい目眩に苛まれながら、私は青年の目を、じっと見つめている。真夜中の世界を照らす蝋燭を彷彿とさせる白く妖しい肌に温めてもらおうと、身体を必死に起こそうとする。
 しかし無理だ。私が死人だからだ。
 鏡の中に映る、私の双子の幽霊に、どうにか彼に取り憑いてくれないかと乞い願えば、できなくもないだろうか。
「お願い、貴女、こっちを見て」
 そう念じたところで巧みに操作できるような分身ではないと分かったため、ハンマーでもう一度、殺してやりたくなった。今度は鈍器だからロープでよりも楽に旅立てるかもしれないよ、と、頭の中で囁いておいた。
 窓の外に出てみると、ついに季節を感じられない存在に生まれ変わってしまったのだと実感してしまった。ベランダから一人で音楽鑑賞をする彼の横顔を見つめながら、はやくこっちに来て、と、泣き喚いていた。人の世の静寂が深夜0時と共に、かつて清らかな少女であったはずの悪霊を睨みつけている。
 部屋の中の青年が突然、人間の氷像と化していたのだが、私には、どうでもいいことだった。ただ単に本当の姿の一つが、今更になって現れただけだと分かりきっているから。
 殺せば俺の本当の姿は見えると主張しているような眼差しだけは、そのままだったのだけれど、それでも自分は死神にはなれない。慈愛ゆえに、ではなく、弱さゆえに。こんな姿になってもまだ、私は、世間体を意識してしまっている。もう幽霊であるはずなのに。
 衣服が脱げない、邪魔くさい、風呂に浸かりたい、しかし手と足を、どうやって動かせばいいのか分からないし、そもそも何が温水で何が温水でないのかの違いが分からない。
 それでも世間体だけは全身を縛り付ける縄のように残されてしまっている! 嫌われたくない、見られたくない、死にたいけど自殺したら家族に迷惑がかかるから、まだ旅立てないと死後であるにもかかわらず消えてない。まだ殺され足りないの? ううん、もう嫌だ!
 日記帳になりたい。鳥になりたい。鏡になりたい。死それ自体になりたい。でも私にそっくりな物にはなりたくない。私は死んでいるのに! 私は、とっくの昔に死んでる!
 頭が痛くないのに頭が痛い。この脳味噌あたりの不快感は、男の人が睾丸を蹴られた時の生き地獄に近そうだとも感じ取った。
 窓ガラスの奥にいたはずの彼は、すでにどこか遠くへ行ったのか、見知らぬ女のもとへ泊まりに行ったのか、とにかく家の中にいない。はやく、こっちに来て、と、念じる。何度も、何度も。そよ風だけは訪れてくれた。だが、こんなちっぽけなものでは、意識を溶かすための天国か地獄へ旅立てるわけがない。
 そう思った途端、正体は分からないが、とりあえず透明で不吉な何かを背後から感じ取った。やはり、予感した通り、辺りには何者も存在していなかった。
 たまらなく怖くなってきて、失禁してしまった。だが、この尿は、本当に私の下半身から流された液体であるのか、疑わしい。なぜって私は、死んでるからに決まっている。
 寒気がする。熱っぽい何かに殺されそうになってきた。男の手足が飛んでくる。大雨が降ってきた。叫び声が聴こえてきた。それが悲鳴であるのか歓声であるのかが分からない自分自身を粉々にしてやりたくなった。家の中には、まだ彼が戻ってきていない。私は、またしても泣き出してしまっていた。はやく朝になってと念じても頭が痛すぎて、朝顔が頭の中に咲き誇って欲しいと全く異なる願い事を真夜中に捧げてしまうから雨が止まない。
 ボールペンを握りしめる。私は、朝、気づいたら、子犬のぬいぐるみになっていた、という書き出しの小説を書き始めようとする。それだけで朝陽が昇ってきた! 彼も家の中に戻ってきた! しかも、なんと、青年は醜い豚のような姿に変貌していて、幽霊である私よりも幽霊みたいな生活をするようになっていた!
 私は喜びの歌を、空の青を祝福する小鳥を彷彿とさせる可憐で生命力に満ちた声で歌う。これでハッピーエンドだ、これで私は幽霊なんだと自分で自分を騙し通そうとしなくて済むようになるのである! 
 そして、ペンは剣や銃より強いんだぞ、わかったか、昨日まで王様気取りであった乞食野郎、と、高笑いをあげるのだ。日に日に大きくなっていく、数ヶ月前に首まわりにできた人面瘡のような赤い何かを睨みつけながら。

「とある手記の忘却についての手記」

 これは、会社を辞めてからの自分が毎朝、思うようになったことのメモ書きである。

 

 時には昔の話をしなくては今が色褪せる。と、思うのだが、自分には過去の記憶がない。そもそも昔語りをするための友や女もいない。
 しかし、いま、眼前にある鏡に映る者は、私の分身である、はずだ。彼は自分自身に瓜二つな容姿をしているから、精神的な双子なのかもしれない。右腕を伸ばして触れようとしてみると、彼も私に触れようとしてくれる。
 だから、この水溜りのように恐ろしい物は破壊しなくてはならない。しかし、この決意は常に、生まれてすぐさま、現実の時空に押し潰されてしまい無に還ってしまうものだ。 
 それゆえに込み上げる吐き気に慣れるために、そう時間はかからなかった。
 ただし鏡の中の男は、私の生き写しであるはずだが、私独自の苦悩には全く苛まれていないようにしか見えない。どんなときも、生きているようには感じられない。彼は人間ではなく、凶器や工芸品のようなものでしかない。いや、彼を閉じ込める四角い物体の成長を阻む悪魔と言い切るべきなのか?
 仮に昔の話を少しでもするとすれば、おそらくは、この悪魔のことは何一つとして喋れそうにないのであろう。
 殺してみろ、と、顔を洗いながら呟く。顎に髭剃りを当てる。鏡の中の二つの眼球は無反応だ。こちら側を無感情に観察している。
 背後を振り返ると、洗面所の淡い黄色の壁が、こちらを見つめていないのが理解できる。時が止まればいいのにと思えてしまう。
 現実に戻り、二階に上がる。自室に入り、本棚から一冊の本を手に取る。背表紙には「何も書かれていない本」と記されているが、パラパラとめくるだけでも真っ赤な嘘だとは、すぐに分かる。なんだかんだで、これも、小さな出版社から出版された本なのだ。正真正銘の空白は、けして売り物にはならない。
 溶け切らぬ寂寥が自分を孤独にさせない。ふざけるな、と、誰かを殴りたくはなるのだが、何を殴れば良いのかが分かれば幸いだ。

「灯火」

 金閣寺が燃えているかのような心が、窓の外で彷徨っているのを目撃した。その金色のローブを纏った死神が、俺を殺そうとしているのか、いま、絞縄が首に食い込んでいる。部屋の片隅に放置された段ボール箱の上には、まだ腐ってはいない蜜柑が乗せられている。
 天井の上から舞い降りてくる七個ほどの黒い平仮名を頭上で確かめる。かなしみとあい。天使はいない、地獄の使いもいない。まだ死んではいない。なぜだか自殺していない。
 だから、目を開けてみる。いつもの景色の強烈さに負けそうになる。目に映る全てが、何の変哲もない物でしかなくて、だからこそナイフで辺りを滅茶苦茶に切り裂いてみたくなる。しかし、たとえば財布などの中には空虚な過去の証としての虚無はあるのだ。それが、それだけが、そこらじゅうにある!
 そんなことを呪いつつも、今日も仕方なく歯を磨き、スーツを着用して外出し、いつもの電車に乗るのだ。夜になれば疲労困憊を目蓋と四肢に訴えかける身体を風呂に浸して、粗末な食事を嫌々ながらも口内に流し込んで、またしても眠りについてしまう。
 誰か俺を殺してくれ。この繰り返し自体が、激しい苦痛を呼び起こすのだ。金なんぞ要らない、女も欲しくない、現世という名と透明色の鉄檻と巨大な箱を用いて本質を隠匿する、この牢獄から脱出したいだけなのだ。
 またしても朝になる。ここで天使は生きてはならないという掟によって、あの穢れなき大空は天国になれない。と、口癖を口ずさむ。そして質素な朝食を摂って電車に乗り会社に向かう。気がつけば太陽は闇に紛れ、哀れなマリオネットは、ふたたび、死に夢想する。ある日、何かが通勤中に起こって、とんでもないドラマが大いなる檻を破壊してくれると期待している自分自身であれば、はっきりと自らの影の内に潜んでいると自覚している。
 だが、かと言って、この陰惨な自我と密接であり貧弱でもある肉体への、やましい自己愛までは消せないのだと、気づかせる出来事ならば、今でも時々、起こり得るのだ。
 起床する。いつものようにビジネスバッグを片手に持ち、会社に向かおうとして、玄関の扉を開ける。陽の光の眩しさを実感する。
 すると、どこからともなく、鋭利な刃物らしき物体が足元に飛んできた。道路には血飛沫が撒かれ、虚空に男の悲鳴が木霊する。私は、泣いてしまっていた。
 破れてしまったスラックスの下から生き血を、人差し指で掬うと、つい、母さん、と、甘えた声を発してしまっていた。だが、どうせ辺りに人はいないのだ。この美しい真紅の薔薇の茎の棘どもの気高さを、誰にも知られる場ではないのだから構いやしない。
 どこかに必ず向日葵を連想させる、名前のない花が咲いていると示唆する光が舞い降りてきたような気がして、久々に笑顔になれた。

「悪魔が来たりて」

「あくまがきたりて、かみをきる」
 幼い頃に祖母から教えられた、おまじないである。これを十三秒以内に言い切ると、地の底から「騎士」が詠唱者を守りに来る、らしい。詠唱を、けっして他者に聞かせない、というルールさえ守れれば、最強にして不死なる者を召喚できてしまう、らしい。良識ある読者諸氏からしてみれば、中二病を演じる趣味のある人間のジョークのようにしか思えないであろうが、どうやら、小学生だった頃の私は、その「騎士」の召喚に成功していた、らしいのである。真面目さと率直さだけが特徴的な両親の発言であったし、しかも「騎士」が、数年前に我が家に忍び込んでいた泥棒を殺したこともある、らしい。
 だが、そんな化物を呼び寄せた記憶は、一度たりともない。ましてや自宅に空き巣が侵入していたところを目撃した覚えすらないのだ。一応、おまじない自体が、祖母から教わっているというのは事実である、はずなのだ。
「あくまがきたりて、かみをきる」 
 ところで私は、先ほどから、これを、ずうっと唱えているにも関わらず、噂の騎士様は、なぜだか、いや、当然といえば当然なのだろうか一向に姿を表す気配がない。一階で両親が何者かに殺されたのかもしれないのに。
 恐ろしくて下に降りれないから事の詳細は不明なのだが、とにかく母親が数分ほど前に、助けてという悲鳴を二階にまで響かせていたのは確かなのだ。身体の震えが止まらない。ずどん、ずどん、と、大きな足音が聞こえてきた。部屋の窓から脱出したくて仕方がないのに、腰が抜けて動けない。「あくまがきたりてかみをきる、あくまがきたりてかみをきる、あくまがきたりてかみをきる」と半狂乱しながら念じるぐらいしか助かる道はない。
 そう、思っていた。
 瞼を閉じ、ただただ時間が過ぎるのを待っていたら、知らず知らずのうちに朝になっていたようだ。鼻歌を歌いながら扉を開けてみると、予想通り、目の前には何者も存在していなかった。静寂をもたらす廊下があるだけ。歩いてみると、気持ちがいい。
 一階には豚肉と牛肉が散らばっており、パックの中に詰められていないから不衛生だ、と思い、「あくまがきたりて、かみをきる」と、いつものように呻いてみる。しかし、余計にリビングが汚れるばかりで何の意味もなかった。あくまは、頭の中の消しゴムがわりにはならないのだと、未だに理解できない自分自身を俯瞰するだけでも、あどけなさが削がれていない。はやく殺したくて仕方がない。
 外に出たい。いい加減、家の外に出たくて堪らない。ただし誰かに助けてほしいとは全く思えそうにないのである。私のような鶏肉では、どうせ騎士ヅラした偽善悪魔に食い殺されて終わってしまうだけだ。あんな奴等の血肉で、騎士様の甲冑と銃を汚すわけにはいかない。おばあちゃんが教えてくれた、おまじないは、最高にして最悪の悪魔を裁くための、正義の呪文なのだから。
 目眩がしてきた。激しい頭痛が襲いかかってきた。私は鏡の前で、微笑んでみせた。

「味噌汁の温もり」

 瞼を閉じ、母なる温もりに口づけをする。故郷の景色が色鮮やかに移りゆく。田園風景、寂れた町並み、清らかな川に支えられる鉄道橋。両の手を静かに下ろし、目を開ける。机の上には、たくさんの和布と豆腐と一寸法師がリラックスしている大きなお椀がある。まるで何名もの五歳児たちがドラム缶風呂にギュウギュウ詰めになってまで浸かっているかのごとき、お汁物である。まったく、こいつらは、これから全員、一匹ずつ順番に、私の口の中に放り込まれる定めであるのに、随分とまあ呑気そうで結構なことだ。
 このアパートに引っ越してきてから、滅多に飲まなくなってしまっていた味噌汁に、再び口をつけようとする。ところが泥棒の気配がしたため、棚の裏に隠された木刀を手に取り、机の側からゆっくりと離れ、忍び足で玄関に向かっていった。窓の外を見渡してみると、可愛い子狸が、昼の光を浴びる駐車場で今にも死にそうになっていて、必死で生気を全身から放っていた。
 この子には何を食べさせれば良いのか分からなかったので、とりあえず味噌の溶かされた熱いお湯から一寸法師を一つだけ摘み出し、まだ幼い狸の口元に差し出してみた。すると、不思議と、すんなり受け容れられた。ほぐもぐ、ぽぐもぐ、と、生まれたばかりであるような子どもにしては奇妙なほど鋭くて丈夫そうな歯で、神経質な性格を現すかのようにネチネトと、彼の全体を味わっている。
 単なる茸の一本ごときに薄気味悪い奴だと感じ取り、それを子狸が食べ終わる前に素早く室内に退散し、そして素早く味噌汁を食べ終わらせた。そして眠たくなってきたので布団の中に潜り込んだ。足元から、何かが潜り込んでいるような感触が伝わってきたのだが、なぜだか、これに殺されるなら本望だと思えてくるのであり、神経を鈍らせる甘い匂いが、どこからともなく鼻を刺激してくるので、平凡な明日は果たして訪れるのだろうかという期待と不安が、もうすぐ、胸一杯になりそうだ。しかし眼前の暗闇が濃い。あまりに濃い。

「聖剣がそこらじゅうに落ちている世界」

 ある日の朝、散歩中に、またしても大地に刺さりし聖剣を見つけた。ピクミンを引っこ抜くような感じでエイヤッと入手した。どうせ昨晩、勇者の責務に耐えかねた者が、この家のあたりに放棄していったのであろう。
 持主のいなくなった聖剣を見かけるたびに、放っておくと勿体ない気がしてくるので、我が家に持ち運んで大きめのダンボール箱の中で収納するようにしている。だが今回は、いつものように元の使い手が「落とし物募集。こんな聖剣、どこかで見かけませんでしたか」という類の内容の貼り紙を街中に貼り付けることなど全く考慮せずに、さっき手に入れたばかりの、この伝説の剣で、このまま隣町付近にて悪さをしている一匹のゴブリンを退治しに向かおうと決意した。そして、俺はウルトラ・グレート・スーパー・ヒーローと鼻歌を歌いながら、かつて前世で探索した経験があるのかもしれない洞窟の中に入っていった。
 いつであるのかは知る由もないが、以前、真面目に踏破した覚えがあるおかげなのか、初見での攻略をはじめたにも関わらず、スイスイ進める。もともと自分には多少の戦闘力があるし、おまけに天使のような何かが雑魚敵の少ないルートを案内してくれるという能力も備わっているのだが、それらだけが原因ではないのだと直感できるのである。
 だが、しかし、なんと、このダンジョンには、いや、このダンジョンにも、悲しきかな、私の劣悪な観察眼では、これといって特筆すべきポイントが見つからない。はっきりいって描写のしがいがない。なぜならば「えー、解説なんて面倒くさいからヤダ。自宅にあるゲームの攻略本の39ページを見ればイラスト付きで詳しく解説されてるから、そっちを参考にして頂戴」とあしらっても、読者諸氏にとっても無問題だからである。ちなみに攻略本の攻略対象となっているゲームのタイトルは、無事に帰還してから書き記すと約束しましょう。お楽しみに。
 ここまでの文章は、今日の日記に書き写す予定の、スマホのメモ帳アプリにメモしたものである。ゆったり、のんびり、ダンジョンの探索ができているという証である。探索中に、こんなん記録できる余裕持てちゃう俺つえー。
 そんなこんなで最深部に辿り着いた。
 とてつもなく、つまらない話になるのだが、そこにボスのゴブリンはいなかった。
 スマホの中には、今日、殺すつもりでいたゴブリンのデータも、しっかり保存されていたのだが。どうやら数日前のネットサーフィンは徒労に終わってしまったようだ。
 だが、本当に敵は、どこにもいないのだろうか、と、疑う価値があると判断し、移動呪文でサッサと帰宅はせずに、最深部の調査をできるところまでやっておくことにした。
 聖剣の柄が、おかしくなったのである。
 幽霊のように、毎日、毎日、喧しいお前のために、なんで俺が、こうも働かなくてはならないのだ、と、喚いている若い男の怒鳴り声が、右の手に握り締められた勇者の剣から聞こえてくるようになったのだ。
 瞼を閉じれば、男の姿も、はっきりと浮かんでくる。プレートアーマーに身を包んだ、どこかの国で働いている騎士である。
 なぜ君は兜の中から声を発してくれていないんだ? そして、なぜ、その兜の目の辺りの暗闇から、俺の中に封印されているはずの工場の燃え盛る映像が映し出されてる?