TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 10章

 帝国からの刺客を撃退した日の翌朝に、ルナはドロシーの逃げ場を確保し、そこへ共に脱出しようという目的で、ベルドラード島の上空を飛行していた。とりあえず島から遠く離れられれば、安住の地が見つかるかもしれないと思い、天へ飛び立ってみたのだ。あそこに留まったままでは、次にいつ襲撃をかけられるか分かったものではない。

 ところが、その途上で思わぬ壁にぶつかってしまい、ここから逃げ出すのは無理だと諦めざるを得なくなった。この島には、どう足掻いても壊せそうにない、ドーム状の、透明色の障壁に囲われていると判明したのだ。海の彼方へ向かおうとしても、白い雲の上を突き抜けようとしても、叩くとトンドンと音のする謎のバリアに、行く手を阻まれてしまう。おそらく帝国の者が、労働者の逃走を防ぐために仕掛けたものだろう。

 ふゆふゆと宙を浮かびながら、頭を抱えるルナの背後にジュドが現れる。

【先ほど報告したとおりでございましょう】

(ええ……でも、この程度の結界なら簡単に壊せるわ。全力さえ出せれば、だけど……)

 だが今の魔女の王には、ある深刻な事情によって、力を開放できそうになかった。

【しばらくは体を休めなければ。明日になれば回復するかもしれません。ひとまずベルドラードへ降り、別の手段を模索しましょう】

 仕方なく、愛する彼の待つ小さな寮に戻る。玄関の扉を開けると、おかえりなさい、と甘くて甘い声が耳に届いたので、黒い靴を高速に脱ぎ捨て、ひゅぱーんと抱きつく。

「ただいまのキスして!」

 はい、とドロシーは満面の笑みで答え、望み通りの口づけを、頬に。しかし狂える乙女は一度きりで満足できず陵辱を待ち望んでいるかのように白く柔らかい後ろ首に手を回し何か言いたげな唇を口紅の塗られていない唇で押さえ込む。絡み合う舌先で、理性のボタンを外していく少女を、薄目で見やりながら、今日すべきはずのことを頭の中で整理する少年。主の痴態を、アクアリウムの海月を眺めるように眺めていたジュドは、(またか)と呆れた。またしても理性的に振る舞うべき場面において正気を失ってしまうとは。今まで、その悪癖によって、あなたが愛していたはずの、あの猫耳の彼に、どれだけ迷惑をかけてきたのか忘れているのか。それを責める気持ちは全く沸かないのだが、少しは成長してほしいものだと、心の中でぼやいた。

 青年は呪文を唱える。「ウォーブ」

 コートを着けた女豹めがけて、両手からバケツ1杯ほどの水を、ざしゅあっと放つ。

「申し訳ありません、ドロシー様、服のどこかに、濡れた箇所はございますか?」

「あ、いえ。大丈夫です。見苦しいところを見せてしまって、すみません……」

「ジュドオオオオオオオオァァァァァッァァァァァァァ!!!!!!! ジュドオオオオオオオオァァァァァッァァァァァァァ!!!!!!!」

「本日は午前中に、御二人で二日前の事件の現場へ赴くはずでは? 今なら敵もおりません。悪魔の居ぬ間に洗濯は済ましておいたほうが、何かと捗るでしょう」

 せっかく、いざ刺客が現れたとしても問題がないように、わざわざ怪しい者の動きを鈍くできる結界を、工場内はおろか、島全体にまで仕掛けておいたのだ。それも24時間が過ぎれば消滅してしまうのだから、早く行ってもらわねば困るのだ。

「~~~~~~~~~~っ!」

 歯痒そうな顔をしつつも、素直に忠臣の進言を聞き入れる魔女の王。ずぶ濡れになったコートを、狭いクローゼットのハンガーに掛ける。「あんたは留守番してて。万が一、近くで敵を見かけたら、即座に連絡するのよ?」

 承知しました、とジュド。二人は、お手々を繋ぎながら島の中心部へ向かった。

 赤髪の魔女は、桜の森に囲まれた、縦長の白い工場を観て、ぼやく。

「ずいぶん、ボロっちいのねえ」

「作業員たちのあいだでは、外壁の修理なんて数十年ほど前に行われて以来、一度もされてないっていう噂が流れてましたね」

 中へ入ると、玄関の右手側にある、どこか奇妙な扉に目をつける。(おそらく、これが昨日、ジュドの言ってた部屋のことね)

「……奥に、進みますか?」

「……あたしの傍から離れちゃ駄目よ?」

 ぎっ・い・い……。

 床の中央部に描かれた、黒く巨大な十字型の紋章が、目に飛び込む。入口の付近で、注意深く室内を見回してから足を踏み入れる。

 地下へ通じる隠し扉というのは、右奥の壁にできている、あれか。一見、何の変哲もないドアだが、たしかに報告どおり、得体の知れない禍々しさを感じ取れる。ドアノブに触れてみると、全身に凄まじい不快感が走った。ひどい吐き気を催したが、それを堪えて開けようとしてみたら、右手に灼熱の痛みが生じ、つい鋭い悲鳴を上げてしまう。

「ルナ!? 大丈夫ですか!?」

「ぜんぜん平気……でも厳しいわね」

 強行突破するのは至難の業だろう。まあ今の段階で地下へ進むつもりは毛頭ないのだが。

 室外から出たあと、一階の他の場所も一通り見終えたのだが、特に異様なものは見当たらなかった。ふたりは階段をカンカタと上っていき、二階の作業場へ通じるドアの前に立つ。扉の隣にある小さなガラス窓が僅かに開かれており、そこから蒼魔玉の、石鹸のような香りが漂っている。

 急に、軽い目眩と頭痛を覚えるルナ。その原因は薄々感づいていた。

「ところで、ジュドからMPとMSPについては、もう聞いてたかしら?」

「? はい。MPっていうのは、術を扱う人間の持つ特殊な力で、簡単に言うと“財布”です。たとえば僕のMPが100だとしたら、2ポイントを消費する呪文は、50回まで使えるんだと言ってました。ちなみにMPは、使い魔と一部の術師にしか計れない数値でもあり、しかも正確な数字がわかるのは、その中でも、ごく僅かだとも仰っていましたね」

「じゃあMSPの概要は?」

「あの人は心のスタミナだって説明してました。術師の精神が健康ならMSPは満タンですが、疲弊しきると0になるらしく、それが空だと一つの呪文で消費されるMPが倍増したり、呪文を唱えただけで体が激しく痛んだり、一部の術が使用できなくなったりする弊害が起きる。だからMSPを普段から100%にしておくように努めるのが、魔法使いの義務なのだと、ジュドさんは語ってました」

「MPとMSPの回復法は?」

「原則的にMPは、本人にとって必要な睡眠時間をとれれば満杯になるんですが、MSPの回復は人によって千差万別らしいんです。つまり、何もしなくても勝手に治っていく人から、一生かかっても0から100に戻れない人、なかには、そもそもMSP自体が減らない人までいるらしいです。MSPを全快させる手段も人それぞれで、それは各自で見つけていくしかないんだと聞きましたね」

「……MSPが0の状態だと、眠りにつくことによってMPは回復する? しない?」

「心に深い傷を負った身体は、その大元を治さなければ、闇は祓えないままだと……」

「……すごいわ。どれも百点満点の回答よ」

 がきゃん。死の臭いが鼻を突く。ふたりは苦しげな顔をしながらも前へ進んでいく。ぺきゃ。ぺぎしゃ。たくさんの壊れた機械の欠片を、踏みつける音を立てて歩く。無機質な床と壁には、蒼魔玉の溶けた青い液と、赤黒い絶望の混じりあった、広大なる架空の世界の、地獄のような地図が描かれている。

「……あれ?」と辺りを見回し、困惑の表情を浮かべるドロシー。「どうしたの?」

「二日前の死体が、ぜんぶ消えてる……」

 そこには、なかった。内部には大量の黒い血痕こそ残っているが、どういうわけだか死臭だけは漂っているのだが、労働者たちの死体のみならず、魔女の王に葬られたはずのヒトクイキマイラの亡骸まで、消失していた。

(今、あたしとシュドは間違いなく、かつて暮らしていた世界のパラレルワールドで生きている。以前の次元で得てきた知識は、ここでも、ある程度は通用するはず)

「へぇ……そういうことも、あるものなのね……ところでドロシー、一つ聞いていい?」

「はい? なんでしょうか?」

「お仕事中に、結構な頻度で、頭痛や目眩に苦しめられてなかった?」

「え? よく、わかりましたね?」

 ルナは検品室から拝借してきた、不良品のサンプルとして使われる野球ボールサイズの蒼魔玉を、スカートのポケットから取り出す。

「こいつはね、毒があるの。溶かすと出てくる青いガスを吸うと症状が現れるのよ。個人差もあるけど、普通なら3~4時間も吸ってれば立ってるのも辛くなるわ。耐性の弱い人だったら、すんなり逝っちゃうでしょうね」

「……やっぱり……なんですね……」

 二度と思い出したくもない、恐ろしい光景が頭によぎる。作業中、隣で黙々と手を動かしていた色黒の若い男性が、突然、ブルーベリーのような顔色になって、激しい嘔吐を起こし、そのまま気絶して帰らぬ人になった悪夢の記憶が、少年を沈痛な面持ちにさせる。

(人の世に悲劇は、つきもの。そして歴史は繰り返されてしまうもの)

 恋人の右手を優しく握り締めながら、ルナは事件の背景を推測していく。

 昨夜、自分たちを襲撃した魔術師がベルウォードからの者であることから、十中八九、一連の凶行は帝国が仕組んだものだ。組織的な力が働いているのであれば死骸の回収も難しくないと思われるし、その理由にも説明がつく。確証はないのだが、確かな自信がある。おそらく人々とキマイラの体内に遺された魔力のエネルギーを再利用するためだ。魔導文明を発達させるには、死んで間もない骸が必要不可欠なのだ。かつて暮らしていたマルモンド国をはじめとしたDの国々にしても、死屍累々によって国家を繁栄させてきたのだから。いずれにしても、一筋縄にはいかない相手から命を狙われたのだと、はっきりした。

「大体わかったわ……もう出ましょ?」

 ルナは少年の震える手を握りしめる。怪しげな気配こそするが、どこにも魔術師が見つからない。これ以上、留まっていても仕方がなさそうだ。ふたりは出入り口に向かった。

「あ、ところで、さっき空から脱出場所を探すついでに、この島は見回りましたか?」

「ううん、まだよ?」

「もし良かったら、今から、僕がぐるっとベルドラードを案内しましょうか?」

「ぜひ、お願いするわ! (ジュド。もう留守番はいいわ。今から、こっちにきて、あたしのサポートに入って。少しでも危険な気配を感じ取ったら、いつもよりも素早く報告するように心掛けて。あと、ちょっと肌寒いからコートを持ってきて頂戴)」

【承知いたしました】

 島を、案内。ルナは、その道中にて、魔術の実験台が見つかれば幸いであると思いながらも、こう思ってみた。これは、ちょっとしたデートの、お誘い! 大した目的もなく、愛する人と散歩ができる! 未知なる神秘に遭遇したおかげで、陰鬱な心に光を灯せるかもしれない! たとえ、どれだけ強大な敵が島に潜伏していようとも、愛し合う私たちの邪魔など絶対にさせやしない。さあ、警戒心を緩めて、優雅に歩いてみせましょう! 

 鼻歌を歌いながら、しっとりと散策しているうちに、ベルドラードは意外にも緑豊かであり、あの吐瀉物臭い配給広場を除けば、それなりに自分好みの地であると気がついた。桜の林は普通に美しいし、何より島の南に広がる花畑が、趣味である青姦を実行するのに最適そうなところが、たいへん喜ばしい。ふるわりとした、お花たちをベッドにして、恋人を、犯す。燃え上がり、蕩ける胸中。

 そんなルナの横顔を見て、ふと今朝の出来事を思い出し、とりあえず避妊具を用意できないうちは、きっぱりNOと断れるように努めておこうと、固く決意するドロシー。

【しかし、いやに長閑ですね。今のところ怪しい者や罠らしき物は、一切見当たりません】

「帝国の管轄地でさえなければ、ここで一生を過ごすというのも、ありねっ!」

(奇妙なものだなあ、こんなときに)と思いながらも、その楽観的な様子に救われるドロシー。「あなたの傍にいられると落ち着けます」

 魔性の横顔を照らす昼の陽に、ひひぇっと気味の悪い笑顔を見せつけ、無性に熱くなる女体に嘘をつくために、気温のせい気温のせいよと心中にて復唱する魔女の王。

「島の北部の、漁村も紹介しましょうか?」

 するとルナは一瞬にして真顔となり、極寒の地を連想させる、低く冷たい声で尋ねた。「そこに人間は、いなかったわよね?」

「厳密に言うと、この島には、囚われの身である僕たちが強制連行される以前にも、その村で暮らしていた先住民が20人くらいいたはずなんだけど、なぜか皆、今は行方不明になっています……ルナ? どうしたの?」

「……そいつら、全員、ライト側だった?」

「あ………………はい。もし、後々、彼等が戻ってきたとしたら、あなたの姿が見られないように努めておくので、安心してください」

 ドロシーとしては彼女が何者であろうが一向に構わないのだが、ライトメイジがライトメイジであるだけで、ダークメイジに命を狙われてしまう世界情勢においては、白の人々にとって悪の象徴そのものである黒い十字紋をつけた魔女と、ベルドラードの村民たちとを会わせるのは、まずい。

「……ありがとう、うれしい……それじゃあ、案内してちょうだい」

 二人は村に到着する。

 ここも無人であるかぎりは、あたし好み。寂れた木の家の立ち並んでいるところや、砂浜の上で老朽化した漁船が横になっているところが奇妙に愛おしいの。と、荒廃の地を見回しながら、ぼんやりと思う魔女の王。

 先住民たちがいなくなる以前から虚空のような場所だとは思っていたが、彼等が1人残らず行方をくらましたあとは、さらに空虚さが増したと、改めて実感する少年。

「ねえ、ドロシー。生きるために必要となる物資を、空き家で物色しない?」

「うーん……やめときましょう。家主が戻ってきたら、ただの泥棒になっちゃいます」

「そう言うと、思ったわ……可愛い」

【……ルナ様。私もドロシー様の仰るとおり、盗みをはたらくのは賛同しかねます】

「どうして反対なの?」

「民家のいずれかに敵方の術師の用いる拠点があり、そこに侵入してしまう可能性があるからです。有益な道具を入手するために漁られた室内には、例えば指紋などの、あなた様の痕跡が嫌でも残るため、つまり相手にとって有力なデータを与えてしまう恐れが】

「ねえ、あんた、さっき怪しいものや罠は無いって、悠長に断言してなかった?」

【絶対は絶対にない、という絶対を信じるゆえの意見でございます。そして、あなた様の“お心”を配慮した上での諫言でもあります】

「……わかった。今回は、素直に聞き入れる。でも、ジュド。空き巣はしないけど、かわりに盗撮はしておいて。とんでもない何かを発見したら、村を出る前に必ず報告するのよ?」

 二人は海辺に赴いた。そこには邪悪な気配は漂っておらず、これといって今後の生活に役立ちそうな道具は落ちてはおらず、魔女の王にとって必要となる物もないと判明した。 そして辺りに響く、さざ波の音と小鳥の鳴き声が、ルナとドロシーの気を緩ませていた。

 少年は、少女の左手を、か弱い右手で握り締めながら、こう感じた。衰弱の島に、ようやく夜明けの時が訪れたようだ、と。

 砂浜から海の彼方に想いを馳せながら、何気なく足元の貝殻を拾い、それを耳に当ててみるドロシー。ベルドラード島に来て、はじめての体験である。この音を聞いたのは、いつ以来だろうか。もう二度と思い出したくもない過去の中でも、今も美しく響き続ける、父と母の健やかな笑い声が、ふと蘇り、つい目頭が熱くなってしまった。

 そんな彼の傍で、深海へ堕ちゆく自らを思い描きながら、胸中にて燃え滾る破壊衝動の如き情念を沈めようとするルナ。椰子の木の陰を纏っている、恋人どうしで座るに適したサイズの、椅子として適切な切り株を発見しただけで、つい理性が女の欲に押し潰されていた。愛する者の可憐な瞳の裏で湧き上がる、幸福な思い出の数々を推し量ることの叶わぬ、哀れな獣と化してしまっていたのだ。

「そろそろ、暑くなってきたわね……」

「では一度、あそこの日陰で休みますか?」

「そうね……ゆっくり、しましょ?」

 それから、しばらくの間、ふたりは肩を寄せ合いながら、空白のごとき海辺を眺めていた。その海景色は少年にとって安寧をもたらす静寂の象徴であり、少女にとっては、この世界の人々に救済をもたらす場へと繋がる門の一つである。すべての人間の肉体を一人たりとて残さずに、宇宙のように巨大なトランクの中に閉じ込めて、海の底へ沈めるよう手配できれば、肌の十字紋の色が白であろうが黒であろうが何の意味もなくなる新世界に皆で到達できるかもしれないから海は善く、青い。だから溺れたくなる。

 彼女は緩慢に立ち上がった。「ねー、どろちー?」と、妖しくも甘ったるい声をかけながら、彼の頬を両の手の十本の指先で触れ、「やっぱり、かわいい」と微笑むと、勢いよくキスをして、ズボンの下の柔らかいのであろう太股を直に愛でることを望みながら薄汚れた作業衣の奥に隠された陰茎に手を伸ばした。ふたりは、わずかな間、沈黙した。ルナはコートを脱ぐ。上着の下の、黒いボタンの7つ付いた白いシャツを晒す。自らの胸元を指差し、尋ねる。「みたい?」

「……なにを?」と、今から見せたがっているのであろうものの分からないふりをし、やや怯えた顔つきをつくってみるドロシー。しかし紅潮した肌は教唆していた。かつて女体であったはずの、その男体は女を求めていると。

「意地はらないの。素直になっちゃいなさい」

 すると彼女は先程までのスローな動きからは想像もつかぬほどの早さで、シャツのボタンを外し、黒のブラを脱ぎ捨て、極めて人間的な乳房を晒し、彼に押しつけた。それを少年は魔女の腕の中で、おずおずと舐めた。娼婦の手つきでスカートの中の太ももを撫でた。焦燥が、生まれた。色めき立つ男と、奇妙な無音に耳を傾ける女は、この現世において誰よりも先に、天国へ向かおうとしていた。

 やがて射精を終え、正気に戻り、恥ずかしさのあまりに泣き出した恋人の顔を見て、ついクスススと微笑みながら、ルナは呟く。

「……目的は、果たせた」

 辺りを見回しながらも素早く衣服を着直し、下品な高笑いをはじめたところを見て、小さくも怒りの篭った眼で、謝罪を無言で要求し出すドロシーに胸を撃たれ、(……もう一回、しても、支障はないかしら……)と頭を使い出した、馬鹿女の阿呆面に、水ではなく糞を放ってやりたくなる阿呆面に内心では毒づきながらも、きっちりと報告を済ませるジュド。

【成功、しました……ルナ様】

(あら、やっぱり、そうなのね……)

「どういうことだか、説明してくれなかったら、わたし……僕、もう死にたいよ」

 震えた声で女々しく抗議する未来の夫の前で、若干、申し訳なさそうな顔を、つくりながらも、頬を赤らめながら、未来の最愛の妻は極めて正しい回答をしてみせる。

「そりゃあ、あたしがダークメイジではなくて、ルナ・メイジだと覚えてほしかっただけよ! MY SWEET LOVER!」

 主に対しては冷めた目つきを崩さぬ忠臣も、今もなお少女の頃の面影の残る少年には、ひどく申し訳なさそうに、小声で平謝りを続けていた。そして二人が工場へ出発する前、密かに命じられた通り、けして衝動的にではなく確信犯的に生じられた色事が終わったあと、王が密かに披露した魔術劇の舞台裏を言葉だけで覗かせようとはしなかった、が、恋人たちの眼前で、人間の左腕と人間の右腕と人間の左足と人間の右足を一つずつ、砂浜に放り投げることはした。それらからは黒い鮮血が滴り落ちていて、ドロシーは悲鳴をあげたと同時に尻餅をつき、ルナは不敵に笑う。

「大事な物は、目だけでは見えない。耳だけでは聴き取れない。手だけでは触れられない。舌だけでは味わえない。鼻だけでは嗅ぎ取れない。五感だけでは、物足りない」

 遥か昔に読み終えた、そんな気のする、題名の思い浮かばないのか忘れてしまっているのか、とにかく何らかの小説の登場人物の台詞を口ずさんだあと、ぼんやりとした目つきで海を見渡す、赤髪の魔女。

 三人は村へ戻った。そのうちの一人は呟いた。「……我ながら、見事な……皆殺し」

 細々とした描写をする意味も無いと、大いなる筆を放り投げた創世神に溜息をつかせる惨劇が、ドロシー・ファルバイヤを戦慄させ、ルナ・カノンに余裕を持たせた。ジュドは魔女の王の慢心を戒めるための一言を放った。

「……この程度で、殲滅が完了した、などと……思っておりますか?」

「愚問……愚問よ……雑魚を一掃したくらいで驕るほど、ぬるくはない」

 種と仕掛けは簡単だ。要するに淫行中に、崩壊の呪文を、無言で発動したまで。以前まで生活していた次元においては、すべての人間は術を使用したい場合、たとえば「バベル」を使いたい時には必ず「バベル」と、名称を口にしなければならなかった(……おまけに小声で詠唱してもならない制約までもあった……)のだが、どういうわけだかルナ・カノンは物心ついた時から、けして言わなくとも唱えられるように、自然となっていたのだ。呪文名を声に出した方がMPを僅かに節約できると判明してからは、状況に応じて発声するかしないかを決めていた。

 今回は、早朝に使い魔から【おそらくベルドラード島の漁村にある全ての民家一件ずつに、一体の魔術師が潜伏しております】と、ジュドの愛用するメモ帳から切り取られた一枚の紙切れからの報告を受けたおかげで、うまくいった。彼に張り巡らせた結界には、ある条件を満たした者すべてを、「バベル」によって一撃必殺する効果があり、帝国の魔術軍服を着用した者が何かしらの術を発動すれば、問答無用で弾けて死ぬ。

 前述した通りの一応の対策こそしていたが、ここまで安易に片付くとは、お遊戯中に怪奇現象が何一つとして起こらなかったとは全くの想定外であった。しかし実力のうちの半分も出さずとも問題なかったのだから幸運ではある。相手が想像以上に手ぬるいのか、単純に戦力を温存しているだけなのか、思いもよらない理由によって簡単に始末できるように仕込んでおいたのかは知らないが、とにかく勝利は勝利として素直に喜んでおこう、なぜ勝てたかの分析は帰宅してからやればいい。

(勝ち続けるためにも、気は抜けない……)

 虚無が魔女を見つめている。お前は全てのものを分解できるのだろうかと期待している。いや、しかし、見事なものだと感動する虚空は、いつか、ぜひとも時空すら破壊してみせろと、無音で嘲笑っている。

 できるものならば! と。

 そして配給広場に漂う、清らかな血生臭さは、彼女の胸を、ときめかせていた。少年は、たくさんの涙を流した。恐るべき敵であるはずの帝国の魔術師であろうと、可憐にして脆弱な人間であったという真理を目の当たりにした二人は今、手を繋いでいる。

 ルナは最愛の彼から目を背けながら言った。

「……私は……あなたを守る……」

 ドロシーは前髪で両目を隠しながら泣いていて、何も返答できなかった。

 その様子が、一瞬、横目に入っただけで、聖なる母、レナ・カノンには似ても似つかぬ両の瞳に、憎悪にも似た殺意が浮かんだ。