TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

あるフォロワーさん(K)との対話のメモ書き

 小説書きで、解離症を患っている、私のこよなく愛する現・相互フォロワー・Kとのリプライのやり取りのメモ書き。とても刺激的な対話を2点できたので、こちらのブログでも掲載いたします。また、そのフォロワーさんからブログで発表する許可も事前に頂いております。

 

 

 

 

 1(あやふやな善悪)

 

 私「一応、私も子どもを絶対に作らないと固く誓ってこそいるものの、今のところ別に反出生主義ではない。かつては、それに近い考え方をしていたが、反出生主義が仮に世の中に受け容れられ実践されたとすれば、私が死ぬまでのあいだ半端に生き難くなるだけにしかならないのだろう、という意味で賛同できん。やるんだったら反出生主義者も含めての、人類滅亡の日を迎えるように、ね。それだったら私は応援できるんだけど、穏便な方法で反出生主義を浸透させようとするのは、そもそもお門違いじゃねーのか? 道行く人々すべてを老若男女問わずに瞬殺し、自殺するまで警察に捕まらないぐらいの方法じゃなきゃ。この地球上に生きる人間の数が減っただけで、悪の比率が減るとは思い難い」

 K「世界全ての悪が淘汰されたとしたら、その時には善と悪との中間層の一部が「悪」に格上げされるのではないでしょうか。人間としての資質は変わらないけれど、彼らは「悪」とされ、それを淘汰しても、更に「悪」は生まれる様に思います。そして、善の比率も中間層の比率も変わりはしないのでしょうね」

 私「今まで悪と認知されていなかったそれが、悪として表に立つ。まるで無限ループに呑み込まれているようです……」

 K「あくまで想像の話ではありますが、「善」が淘汰されたとしても、善/中間層/悪の比率は変わらない様に思えます。酷く気持ちの悪い話ですが。一人で想像して軽く吐き気を覚えました(笑)」

 私「個人的に「悪」は淘汰できるものであると思うのですが(……悪心は無理だと思うのですが……)「善」が淘汰される日なんて来るのでしょうか。それこそ人類が永遠に滅び、二度と地球上に出現しないようにでもならない限りは、「善」は淘汰されえないとも思います。仮に「善」が無くなる日が来るとすれば、それは私たち一人一人が社会生活を営まずに済むようになれる生命を手に入れるということだと思っています。ここで私の言う「善」の定義は一般的な「道徳的な価値としての良さ。道徳的に正しい事、多くの人が是認するようなもの」であり、「道徳」の定義にしても一般的な「社会生活を営む上で、ひとりひとりが守るべき行為の規準」であり、つまり「善を淘汰するということは、私たち人類の身体そのものへの革命を起こす」ということだと私は考えております。私たち一人一人が、人と関係せずに生きられるようになれなければ、善が滅びることはあり得ないと見ています」

 K「……「善」と「道徳」の定義をそう置くのではあれば確かに、我々が人と人との間にある存在である限り「善」が無くなることは未来永劫あり得ないでしょうね。大体同じような意味で「善」という言葉を用いていましたが、その癖そこまでは考えておりませんでした……。時間は流動的で、時代とは連続性のあるものですが、ある程度離れた世代を比較すると、概念の断絶が見られるように思います。それでいて「悪」を根絶するとなれば「世代による概念の断裂」がより強固となり、「悪」の新たな概念が生まれ得るのではないか、という考えの派生として「善」の淘汰を挙げたのですが、確かに、そうですね。幾ら概念(?)が変わろうとも人間が人間である限り「善」は淘汰し得ないですね……」

 私「……「悪」と言っても、私が想定している「最悪」は「暴力」であり、そして私個人が主題として設定している「最悪」は「性暴力」で、いかなる時代であろうとも起こり得るはずの、それらの概念の実質に違いはないから悲しいものだと本気で思っております。私たち人類の悲哀の一つと言ってもいい気がします」

 K「……。「最悪」も、ある地点では「善」でコーティングされている事も多々あると思います。「暴力」も「性暴力」も善とされてきた時代もある訳です。若しくは、今は「悪」とされていても、過去の善に「悪」のメッキをしているだけかもしれない(話がズレていますね。すみません)」

 私「うふふ。たしかに認知の上での善悪は曖昧ですね。人なんて「教育」によって巧みに洗脳できれば、イチコロ」

 K「自身が他人の認知によって構成されているという現実(?)を回避するべく絶対的な善悪を求めてしまいがちなのですが、それすら他人の認知によって作られていそうで恐怖ですわね、と思いました。うふふ」

 私「また「実行者が暴力に至るまでの過程」については時代によって僅かに変わってくるだろうし、また「暴力が誕生するまでの背景(根本的な原因)」も時代によって変わってくるとも思っておりますが、それらは時代だけを指標にして見るべきでない、ケースバイケースにしてデリケート極まる問題だとも思います」

  K「それは確かにそうですね。そうとしか言えない。似通った案件が多かろうとそれは本質に関係ない。仰る通り、ケースバイケース、ですね」

  

 

 

 2(正常と異常)

 

 私「この現代日本において「普通じゃない人間」と恋愛しようとすると、だいたいメンヘラと愛し合うしかなくなると見ている。別にメンヘラが「普通じゃない人間としての証」であるとは思っていないのだが、良くも悪くも「奇抜」になりがちなのも確かで、多くの者は「奇抜」を「奇抜」としてしか見られない。「普通」と「普通じゃない」を見分ける際に、「わかりやすいところ」を見て「普通」か「普通じゃない」かを判断するのは悪手。誰もが異常だと見なすような事なんて、ほとんどは一皮剥けば「しょーもないもの」でしかないんだよ。たとえば俺が「かつて学校の制服を切り裂く自傷に耽っていたことがある」と言った際に、そこであなたは私のことを「普通じゃない」と見なすべきではない、ということ。当時の精神状態が正常でなかったのは認めるが、これも一皮剥けば「しょーもないもの」の集まった結果、でしかないわけよ。自分自身が必死こいて封印していた黒歴史で、Twitterでの出来事によって本気で病んでしまうまで(というか、メンヘラの魂に憑依されるまで)は忘れ去っていたことになるのだが、これを時折タイムラインで言及するようにしたら、なんか妙に異常だ異常と引かれ気味な反応を多く貰うから自分でも不思議」

  K「行動は行動でしかないのに」

 私「さすが。よく、わかっていらっしゃる」

 K「表面に出て来ない「行動」と、実際に現れた行動とは、薄皮一枚で繋がっているだけのものであって、皆はその薄皮を重要視し過ぎているように思う。内に潜んだ「行動」の悍ましさより、日常という名の積み木を崩す行動を異常とする社会」

 私「ふむ。昨日、あなたの話した「善悪の曖昧さ」にも繋がってくる話、と捉えても問題ないでしょうか?」

 K「どうなのでしょう?私としては繋げて考えてはいませんでしたが。ただ世の風潮(?)として、「行動」があまりに素直に受け取られ過ぎているのではないかと思った次第です」

 私「ああ、それは本当に仰る通り。世には、正常と異常の見極めの、早すぎる人間があまりに多すぎる。一般的な思考からいけば善は正常なもので(わかりやすく無害で、取り立てて騒ぎ立てるほどのものではなくて)、悪は異常なもの(わかりやすく有害で、騒ぎ立てるべきレベルのもの)になるのでしょうが」