TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

人を生き甲斐にすることについての私見

 他人を生き甲斐にしてはいけない、という文章を読んで、そうかな? と思ったのだが、「ああ、他人を生き甲斐にすると、それがその人にとって、その他人に依存するということに繋がってしまうから」なのかもしれない、と思った。

 私としては、そういう生き方も全然ありだと思えるし、何も生き甲斐が無いよりは遥かにマシだと考えているのだが、とりあえず「他人を生き甲斐にするということ」と「他人に依存するということ」では似て非なるものである。私にとって前者は、特定の他者を支えること・助けること・力になること、という意味であり……私にとって後者は、特定の他者の足を引っ張る重荷となるという意味である。

 人が人に真に依存すると、その依存対象となる人間が死ぬと、本当に何も出来なくなってしまうものだと私は思っている。自殺した恋人の後を追う自殺なんかは、真に他者へ依存していた証としての行為であると見ている――自分自身の過去を、最初の恋愛相手に先立たれた頃を振り返ってみると、嫌というほど分かる。

 お互いがお互いを生き甲斐にして、共に生を歩む。これは私にとって「共存」であり、けして共依存ではない。そこに明確な違いを見出せない者もいると思われるが、お互いにお互いが居なくては生きていけなくなるのが「共依存」だと考えていると説明すれば、通りも良くなるだろうか。「共存」も「共依存」も、別段、それだけでは何も問題ないものだとは思うが、後者の方が不安定であることに違いはない。

 また、「共依存的共存」ならば発生し得る。そして「共依存」が「共存」に変化することも大いに考えられる。

 今の今まで生き甲斐にしていた、パートナーである彼・彼女が死んでも問題なく生きられるようになるのであれば、その彼・彼女に対しては依存しておらず……その逆に、その彼・彼女がいなくては自分自身が存在できない状態にあっても、その「彼・彼女のため」に生きていたいと心の底から思えなくなっているのであれば、彼・彼女は、パートナーである彼・彼女のことを生き甲斐にしていない。

「生き甲斐」は力・生への意志の証。「依存」は無力の証。

 そして人が他者に生き甲斐を見出していようが、人が他者に依存していようが、それでも幸福になれる人間なんて普通に有り得る。どちらも、運に恵まれていたと言うべきであるのか、あるいは幸福を掴んだ彼等に人を見る目があるべきというべきであるのか、もしくは様々なレベルにおいての交渉能力に秀でていたというべきであるのか。

 特定の他者を生き甲斐にすると、その他者が死んでしまえば自分自身の生き甲斐が消滅してしまうことになるから、人を生き甲斐にするということ人に依存することの意味は同じ、という風に捉える者もいるかもしれない……だが、実は消えると決まったわけではない。彼が死ぬことによって、その生き甲斐までもが消えるというわけには、ならない。抽象的な例だが、たとえば彼が死んだあと、彼の代わりに自分自身が彼の夢を果たそうとする、という生き甲斐ができることもある。彼の宝物を彼の代わりに大事に大事に護っておくという生き甲斐ができることもある。彼は死んでもなお、遺された者の力として、人の中で生き続けることはある。

 これは僅かに前段落の論旨から脱線した話になるのだが、私の最初の恋愛相手が見せてくれた「灰皿の上で一万円札を滅多切りにする」という、この一見すれば単なる愚行は、いまも私の力となっている。永遠の力として、死ぬまで私の中で遺り続けるだろう。かつて私は最初の恋愛相手に対して、ずっぷりと依存していたが、同じように彼女からは、かけがえのない生き甲斐も貰えていたのだ――あの行為は、今後の私の文章のテーマの一つとして、今も生きている。

 他者を生き甲斐にしてはいけない、という文章を私に見せた人間は、元から「他者を生き甲斐」にしたことが無いのではないかとも思わなくもない(他者に依存してはいけない、というのであれば自然なのだが、生き甲斐だと違和感を覚えてしまう)。あるいは「他者」が「生き甲斐」になっていたのではなく、「他者」に「依存」したくてもし切れない状態を幾度も味わってきたから、そういう考え方が生まれてきたのではないかとも思った。そこまで過去のことについて深く話を掘り下げてみた人間の言葉ではないから、私の見当違いであるのかもしれないが。

 ただ私としても、「他者を生き甲斐」にするのは、実際かなり難しいものだというのは強く同意できる。してはいけない、とまでは思えないが、「他者を生き甲斐にするのは至難の業」であると心の底から思う。だから人を見る目に自信がないのであれば、「他者を生き甲斐にしてはいけない」という風に考えるのも、けして間違った姿勢ではなく、むしろ大いに推奨できるくらいである。

 ただ、どうしても、この人の力になりたい、と思える人がいるのであれば……できたのであれば……そういう生き方を選ぼうとするのも、そう悪い道でもないとは言っておく。それ以前に、おおよその人間なんて、そうそう簡単に生き甲斐なんてできるものでもないのだし、ね。もっとも他者以外から生き甲斐を、きちんと見出せる人間(人を生きがいにしてはいけない、と言った人)の発言であるから、そこまで心配こそしていないのだが……世の中には生き甲斐として見られるに相応しい、この世の宝である人間(勿論ここに、この文章を書いている私は含まれていない)というのも、いくらか知っている自分自身としては、若干の違和感を覚えさせるものではある。「人を生きがいにしてはいけない」という考えが。