TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 3章

 その日の夜空に浮かぶ橙色の満月は、無機質な箱の中の、惨劇の舞台を照らせない。
 目覚めると、世界が牙を剥いていた。無垢なる視界は、広漠の絶望に埋め尽くされている。戦慄のあまり背筋が凍りついて、肉体の震えが止まらない。宇宙のすべてとともに、体中が切り裂かれる予感がするのに、全身が磔にされたように固まって、立てない。
 吐き気を催す臭い。異様な寒気。天井の梁から滴る、緋色の雨。眼前に散らばる、黒い血を垂れ流す、夥しい数の死骸。痛々しく分散する、白い衣を纏った人間の四肢。ぶしゃぶしゃの胴体から溢れる、赤紫色の泥。
 ドロシーはコンクリートの床に尻を打ちつけたまま、死屍累々の地獄を眺めていた。目を見開き、声にならない呻きを上げながら。
「なんで、そんな顔をしているんだい?」
 十字架は、ドロシーを宙から見下ろしながら、嬉しそうに語りかける。「ぼうやは今から、君が心より愛する仲間たちと共に、素晴らしき新世界に旅立てるのだよ? 一切の蹂躙や陵辱が起こりえない理想郷で、黄金色の幸福に満ちた生活を送れるようになるのだよ? なのに、どうして怯えている?」

 

ぴちゃあん
             ぴちゃあん
       ぴちゃあん     

 

「辛かったろう? 苦しかったろう? 永い間、ずうっと、ずうっと。でも、もう大丈夫さ。そこに着けば、もはや苦渋とは無縁の生活を送れるのだから」
 十字架は紅い雨粒を受けながら、pbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbと脳を揺さぶるような音波をたてつつ、ゆったりと浮かんでいる。その真下で横たわる死者たちは、口、腹部、胴体の四つの切断口から、黒紅色の薔薇を床に描いていた。
「ぼうやには聴こえないのかな? かつての同輩たちが唱える、すべての魂のために捧げられし歌が」
 少年は目線を上げた。
 聖なる神の使いを自称する、邪神が笑っている。
「……残念だな。あんなにも美しい歌声が、ぼうやの胸の奥に届かないとはな……おや……おや……私のそばで彷徨っている彼等……つい先ほど送ってあげた彼等も……寂しがっているみたいだ……君の門出を心から待ち望んでいるようだ……視えないかい?……ぼうやのお友達の姿が……」
 十字架が壊れた笑い声をあげた。すると突如、虚空が切り裂かれた。紫色の瘴気が溢れ出す、渦潮状の扉が開かれ、一匹の巨大獣が、重厚な足音を立てながら現れた。
 ドロシーは、荒々しい息を吐き、殺意の涎を垂らす魔物を、凝視する――一年前に読んだ冒険小説、『エリーの冒険』に登場していた、紛うことなき、あの怪物!――今も鮮明に覚えている。あのおぞましくも繊細なタッチの挿絵に描かれていた、真っ赤に充血した目をした獅子の頭部、背の中央部に人間の男の顔が浮かび上がっている逞しい山羊の胴体、黒く鋭い両目の間に刻みついた十字型の紋章、物語のなかで無垢な子猫を咬み散らかした毒蛇の尾を。

 本の思い出が走馬灯のように蘇る。物語のキーパーソンである一五歳の少女エマは話の序盤で、祖母の病気を治すために、薬屋のいる町へ向かう途中の山道で『ヒトクイキマイラ』という名の、人間が主食の魔獣と遭遇する。エマは必死に逃げようしたが、ヒトクイキマイラの足は速く、すぐに追いつかれてしまい、八つ裂きにされそうになってしまう。
 けれど奇跡は起きた。突如、巨大な炎の玉が空から降ってきて、ヒトクイキマイラは一瞬にして焼き尽くされ、甲高い悲鳴を上げながら死んでいったのだ。エマが上を見やると、そこには空飛ぶ魔法の箒に跨りながら、にっこりと微笑んでいる赤い髪の少女がいた。彼女こそが、物語の主人公であるエリー・セントワーズであり、この出会いがきっかけで二人は仲間になって、壮大なる冒険の幕が開かれていくのである……。
 嗚呼、無意味だ! おとぎ話を思い出したところで! エリーは夢の世界の永住者であって、現実には存在しない! 今ここにいるのは、刃の如き牙と、猛々しい四本の脚を、赤黒く濡らした、地獄の使者だけなのだ!
「素晴らしい! 素晴らしい! 一切が麗しすぎて堪らない! これこそが究極の芸術である! いかに才気に満ちた画家であろうと、本物の死者たちが織り成す情景の美しさだけは絶対に表現できるはずがない!」
 心の底から愉しそうに、十字架は謳っている。
「待たせたな、ゼロワン。あれが本日のメインディッシュだ。もうすぐ食べさせてやる」
『ゼロワン』――そう呼ばれたヒトクイキマイラは、けたたましい唸り声を発すると、前脚を一歩踏み出す。キマイラの手前に落ちていた一本の腕が、風船が破裂したように潰れ、悲嘆の鮮血が飛び跳ねる。
 ヒトクイキマイラは、じりじりと迫ってきた。灰色の体毛の下に生えた人面瘡の上に、天井の梁から一滴の紅い雫が落ちる。徐々に詰まっていくドロシーとの距離。瑞々しい死者の血液を垂らす乳白色の牙から、目を逸らせない。可憐な獲物を見据える獅子の眼には狂喜が宿されている。
「先ほどの労働の対価としては充分だろう、ゼロワン。さあ、極上の餌を堪能したまえ。骨の髄まで、たっぷりと……徹底的に壊せ」
 悪魔の呟きが、きこえてきた。獣の息が顔に、あたった。そして太い前脚の爪が肩に食い込み、少年は押し倒されて、恐怖のあまり気絶した。
 邪神は狂気を帯びた高笑いをあげた。この時の彼は、己の立てた計画が、もう間もなく完璧に成功すると確信していたのだ。
 
 だが
 突然――
 何の前触れもなく
 ガラスの割れたような音が
 辺りに反響した

 その単調な響きが
 暗黒に囚われた世界を破る
 前奏曲であることを
 誰もがわかるはずなどなかった……

 

 ゼロワンは、仰向けに倒れ込んでいる少年の左肩から、ズジュ……と歯牙を抜き、音のした方に目線を移すと――空間が歪んでいる。

 白い霧のような、神聖なる気の漏れ出した、渦潮状の扉が現れており、その扉の前で、赤髪の女が立ち尽くしていた。

 男は十字架の身体に隠した眼を、生きた影を纏った少女に向けた。(何だ……何が起こっているのだ!?)
 女が何者であるか、はっきりと判別できないが、少なくとも『L』側からの刺客ではないのは確かだ。彼女からは艶やかな闇が視える。全身からは破滅の空気が醸し出されている。そして隠しきれない『D』の力と意思が溢れている。その姿を眺めているだけで、つい自らの悶死を思い描いてしまう。
 キマイラは室内に轟音を響かせた。これは今、ゼロワンの前方で佇んでいる彼女の足を竦ませて、徹底的に喰らい尽くすための威嚇である。
 だが魔女は全く動じておらず、両の瞳は虚ろなままだ。
(……?……もしや……)
 よく見れば、どこか見覚えのある面影だった。赤い髪、細い釣り眉、切れ長で藍色の吊り目、筋の通った鼻、小ぶりな耳、整った唇、白く清らかな肌、すらりとした体つき――全体的に端正な容貌であるのだが、目の下の黒い隈と、全身から漂う強大な暗黒の気配が、見る者に異様な陰鬱さを与える。そして何より、彼女の左頬についた、黒く小さな十字形の『D』の紋章が印象的である。
(……まさか……奴は……)
 もし自分の予想が当たっていたとすれば、ここで彼女を殺そうとするのは、何の罠も用意していない現状では、まずい。生身の凡人が無防備で戦場に赴くよりも、遥かに恐ろしい。
 十字架はキマイラにテレパシーを送った。
「いいか、我々は現在、危機的状況に立たされている。だから、ここは一度、撤退す……ゼロワン!?」
 しかし魔獣は命令を拒んだ。失神しているドロシーの真上を通り抜けて、標的めがけて直進する。疾風の如く。地を震わす雄叫びを上げながら。増幅する邪気。剥き出しの殺意。飛翔する殺戮者。揺れる鬣。
(このポンコツめ……愚かな真似を! ……MPの消耗は可能な限り避けたいのだが……やむを得まい!)
 そう判断し、緊急脱出用の呪文を唱えようとした。これさえ発動できれば、キマイラともども本拠地に戻れる上に、彼女も確実に始末できるはず……。
 だった。魔女は何かを呟いた。
「……ベル」
 邪神は耳を疑った。
 ゼロワンは、まるで身体を氷漬けにされたかのように、暗い宙に囚われた。獅子の瞳に驚愕が浮かんだ。
 魔女は再び、はっきりと言い放つ。

「バベル」

 キマイラの全身に極度の苦痛が走り、その血走った眼が見開かれる。殺戮獣の体躯が段々と膨れ上がっていく。
 ゼロワンは鋭い悲鳴を上げた。
 鼓膜の破れそうな爆破音がした。
 獅子の頭がついた山羊の胴体から、毒蛇の尾と四本脚が切り裂かれて、黒い鮮血とともに空を舞い、床に叩きつけられた。
 少女は無表情で目の前に転がっているヒトクイキマイラの亡骸を、虚ろのまま眺めている。けれど、その奥で横たわる、数多の死者の海には視線を移さない。
 背筋が凍り付いた。
(……奴以外の者に『バベル』を唱えられるはずがない……絶対に間違いない……)
 ――かつての記憶が、はっきりと蘇る。
(……こいつと本気でやり合うとなれば……今はまだ……準備が足らなすぎる……) 
 幸いにも、自分の存在には気がついていないようだ。十字架は静かに唱えた。
 「スペース……ムーヴ」
 すると邪神は一瞬のうちに、一切の音も立てずに、虚空の内へと消え去っていった。

 

 ……ゴーーーーーンンンンン……。
 鐘に似たチャイムの音が、少年の意識を、闇の中から現実へと引き戻す。
 瞼を開けると、紅色の雨が止んでいる。僅かに時が流れたせいか、室内が更に暗くなっている。ドロシーは上体をゆっくりと起こし、あちこちを見回すと、いつのまにかアンク十字がいなくなっており、自分を食い殺そうとしたキマイラがバラバラになっている。
(……あれ?……どうして僕は、ここに?)
 ようやく気がついた。さっきまで一階の、地下倉庫へ向かうための部屋にいたはずの自分が、何故か二階の作業場にいることを。嗅ぎ慣れたカビ臭さ。つい数時間ほど前まで稼働していた、運搬用エレベーターに繋がっていた木っ端微塵のベルトコンベア。青白い液体と青々とした煙が漏れ出す、完璧に粉砕されたドラムマシン。グシャゴナになった産業用ロボットたち。白い作業服を着たまま皆殺しにされた同僚たち……。
(……これから……どうすればいいのかな……みんな……殺されちゃった……)
 涙が浮かんだ。左肩から流れる痛々しい赤が、ぴちゃりと落ちた。胸の奥が冷たい痛みに囚われた。絶望の闇に覆われた。
(……もう……かえろう……)
 書類の提出など明日でいい。工場長の行方も、あとで探せばいい。少年は立ち上がると、体を後ろに、作業場の出入り口の方に向けた。
「……えっ?」

……キュオオオーーーーーンンン……

 不思議な短音が、辺りに木霊する。その音とともに、彼の前方にできていた純白の丸い穴が縮んでいき、無くなっていった。
 そして、そこに見知らぬ少女が、悲涙の鮮血を吐きながら倒れ込んでいた。