TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 2章

 扉を閉めると、一面の薄闇に覆われた。辺りを見回すと、どうやら狭く古びた部屋に入ったようである。室内は、がらんどうで、埃臭さが漂っている。

「………………………………………………」

(行き止まり?)と一瞬だけ思ったが、おかしい。あのドアには『地下倉庫』と書かれたプレートが張り付いていたではないか。少年のイメージでは、ドアを開けると、すぐに工場の奥底へ長々と続く階段があり、そこから下っていけば倉庫に辿り着くはず、だったのだが。

「………………………………………………」

 だが進むほかに道もなさそうだ。とりあえず隈なく調べていこう。そう判断し、足を踏み出そうとした。

「………………………………………………」

 ところが、なぜだか身体が硬直して、全く動けそうにない。どこかから何者かに麻痺の呪文を受けたかのようだ。

「………………………………………………」

 しかも胸のあたりが、急に苦しくなってきて、吐き気まで込み上げてきた。

「………………………………………………」

 目眩がする。
「………………………………………………」

 彼は扉のそばで立ち尽くしたままだ。
「……………………………………………よ」
 尋常ならざる寒気が襲いかかってきた。
「…………………………………………だよ」
 意識が朦朧としてきた。
「……………………………………だめだよ」
 やがて少年は気絶した。
「…………………………坊や……だめだよ」
 ”囁き声”には気がついていなかった。
「……坊や……こんなところで……寝てはだめだよ……本当に君が眠るべき場所は……ここじゃあないんだよ……ねえ……坊や……ねえ……ねえったら……」
 しかし、まるで目覚める気配がない。

 ならば心臓の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥へ語りかけるしかない。
「起きろ」
 氷柱の声が、彼の意識を呼び覚ます。
 小柄な身体が、百獣の王に睨まれた草食動物のように震えあがった。視線の先に、部屋の中央部に、そこに在るはずのない『物体』が、床に描かれている十字型の黒い紋章の真上で、優雅に浮かんでいた。
「ようやく、気がついてくれたかい?」
 全身が少年よりも遥かに小さく、総身が漆黒色で、中央部に薄桃色の細い唇が付いたアンクの十字架が、どこか楽しそうな声音で語りかける。

「はじめまして。たしかドロシー君、でいいのかな?」
 少年の頭の中は真っ白になっていた。
「彼から君の名を教えてもらった時は、少女なのかと思ったが……なるほど。君は元々、女性として生まれてきたようだね。が、この島に強制連行される以前に、売春婦として働いていた痕跡を何とか消したかった坊やは、ある魔術師の助けを借りて、自身の性別を転換してもらったからなのか……嗚呼、すまないねえ。思い出したくもないことを思い出させてしまって」
 得体の知れない悪意を感じ取った。なぜ自分の名前のみならず、触れられたくない過去の一部まで知っているのだろう。
「どうして怯えてるんだい? もっとリラックスしてくれていいんだ。別に君を地獄へ連れていくつもりなんてないんだ……」
 ドロシーの頬は真っ青になっていた。どういうわけか身体の小刻みな震えが止まらない。十字架の全身からは、強大な邪気が、無彩色の殺意が醸し出されている。
 黒い十字架は葉を揺らす風のような音をたてながら、ゆっくりと少年に近寄ると、親しみをこめて言った。

「私は聖神マリアの使いの者さ。きょうはマリアの言いつけによって、君をとても素敵なところへ案内しにきたんだよ」
 未知の物体は、呆然としている彼の耳元に回り込むと、小ぶりな唇を蠢かす。
「私は君がここに来る未来を予知していた」
 少年はアンク十字の輪の部分を、横目で凝視する。
「君は工場長と会いたくて、その彼が現在、この部屋の奥の地下倉庫に居るかもしれない、と、あのキツネ目の青年から聞いて、魔防壁の封印を解いたのだろう? 違うかい?」
 室内が更に寒くなった気がした。
「そして君は今、疲れ果てている……日々の過酷な労働のせいで……本当は心底やりたくもない仕事に追われているせいで……」
 混乱が加速する。
「……とても……悲しくて……たまらない……穢れなき魂を宿した者が、この世界の勝手な都合のせいで、汚臭に満ちた建物に閉じ込めれれ、くる日もくる日も、あんなにも恐ろしい物質の製造に携わらなければならないだなんてね! 嗚呼! 実に恐るべき話だ! 大粒の涙を禁じ得ない話だ! しなやかな心と肉体が、破滅への道を進んでいる現実が、私は憎くて堪らない! すべて紛れもない事実だろう? あの二年前に起こった軍事侵略によって、君は牢獄のなかで、週六日、七時から二十時の間、ひたすら馬車馬のように酷使される運命を余儀なくされたのだろう? 違うかい?」
 十字架は嘲笑いながら、囁いた。
「私に見透せないものなど、ないのだよ」
 少年には何も言い返せなかった。
「けれど、だ」
 突如、硝子が砕け散ったときの音がした。
「君の望む道は、今より切り開かれる」
 天井の細長い電灯は砕け散っていない。
「もう、そこまで来ている。真なる革命の気配が。歓喜の産声が上がる予兆が」
 辺りの薄闇が、徐々に濃くなってゆく。
「いいかい? ぼうや」 
 黒い十字架が、深い闇へ掻き消えてゆく。
「天国は、すぐそばにある」
 ぽとん。
 白い作業帽の上に、一滴の雫が落ちてきた。
「人間にとっての天国は、己が胸の奥に眠っているんだ。どこよりも深く、寂しげなところで、君が帰ってくるのを、待っている」
 ドロシーは、ぼんやりと上を見上げた。
「だから、目を覚ますんだ。君にとってのユートピアは、この地上にはないんだと、ね」
 しかし、見渡す限りの黒。
 どこを見回しても、単調すぎる漆黒。
「迷える子羊を天国……いや『神の国』へと導くためならば、私は手段を選ばない……無償の愛を捧げるために……」
 ――ぽと、ぽと、ぴちゃっ、ぴちゃっ……無限の夜のなかで、見えない雨が降り出す。常闇が、徐々に薄れてゆく。

 

 ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん

 

「さあ、目覚めのときだ」

 

Piiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii……。 魂を吸い取っていきそうな音楽が鳴り響く。頭の中が揺さぶられて、ぐらぐららりらりらりリリリと揺れて、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。ざ、ざ、ざ、と雑音が規則正しく鼓膜の中で弾みだす。目の前が時々、うっすらと白くなる。頭の中が刃物で掻き回されているようだ。ざん、ざん……がん、がん。頭皮の内側が鉄のハンマーで叩かれている感じもする。息をするのが苦しくなる。いたいいたいくるしいいたい……。
 やがてドロシーは虚無のなかへと沈んでいった。

「ぼうや?」
 十字架は声をかけて、自分の術が成功したかどうかを、念のために確かめた。
 少年は、ぐったりと倒れ込んでいる。
 醜い笑みが、こぼれた。