TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

エッセイ「桜」

 この文は創作課題で提出したエッセイ。別に自己評価が高いわけではないが、担当講師の講評が面白くて大爆笑していたのを今でも覚えている。
「えー、普通の人間は『桜』という題を出されたら百科事典か何かで桜を調べて本文に取り掛かるものですwwwwww」
「全体的に表現がいちいちオーバーで、悪の大魔王みたいな文章を書きますwwwwwwww」
「君は宗教に興味があるでしょうwwwwwえー、これからも宗教臭い文学に取り組んでくださいwwwwww」

 

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 桜花の散りざまの如く、すべての生命が最期を迎えられたら、きっと世界は妖美なる桃の色に包まれるであろう。
 全ての生命には等しく滅びは訪れる、その普遍の真理を人間は悟れない、だから死を恐れる。実に凡庸な話だ。
 何故人は、他の生物と比較して優秀な脳味噌を持つにも拘らず、現実に縋ろうとするのだ? 私には彼等が滅びを恐れる意味がまるで分からない。
 人にとって生とは美しいものなのか? 死を恐れる者は、恐らく桜の演出は嫌いだろう。
 何故桜に宿る魂は、直ぐに滅びが来ると知りつつも生の中で、咲き誇ろうとするのか。桜自身に問いかけても、理由は分からないかもしれぬ。けれど桜は自らの役割を悟っているのだ。ただ桜花を散らせ自分は生きていると主張するだけでも彼等は満足なのだ。
 人と桜に魂はあるか。現世に縛られる身分では知る由もないが、両者にそれがあってもおかしくない。人も桜も種がなければ生まれてこない、性質は違っても生きもするし死ぬ。
 つまり人と桜を比較して決定的に違う点といえば、生死と魂についての悟性の有無なのである。
 前述の通り桜は、桜としての役割を自覚している。ところが人間は鋭い知性と、種の繁栄を限度なく望む性質のせいで自分自身の首を絞める様相を心に描いてしまうのだ。桜に知性はないが、けして愚かなことはしない。
 桜の花言葉に「精神美」と「淡白」がある。実の所、人間の魂が最終的に目指している地点ではないだろうか。桜が理由もなく美しく咲き誇る様は花言葉の通り「精神美」を感じさせる。桜が桜自身の生死を恐れずに咲こうとする様も花言葉のとおり「淡白」である。
 人間が何かに恐れ、道を進めなくなった時は、私が解釈する桜の有り様を思い返せば少しは楽になるであろうか。