TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

開かぬ朝顔

カプリ・チャコール、を吸いながら、今宵の月に、酔いしれる僕。美酒は暗黒。

 

何もかも、血肉とさせる、あの日々を、願わくば、もう一度。

 

帰れぬ二人。常夜の裂け目。もう二度と、戻らぬ過去よ、私を殺せ。

 

血で血を洗う、恋文の、熱と氷に、赤子と骸、蘇る。

 

愛の遊戯に、耽る白猫。愛の狭間に、堕ちる花片、虚空の目覚め。

 

私は祈る。私のために。吐きながら、血を吐きながら、ふと笑う。

 

もう一度、笑い合おうと、呻き去る、私の中の、夜の朝顔

実は虚無についての語りでもある

 専門学校時代に、ちっぽけな苦楽を共にした、私の同期生たちのことを思い出し、ふと思ったことを書き綴ってみた。

 今のところ同期生たちの中で、おそらく最も暇人である(最悪、生活に困窮してお先真っ暗になったら、独りで積極的に餓死すりゃいいじゃないという心構えで生きているおかげで、暇人フリーターであることに何ら抵抗がないのです)私だからこそ思うこと。
 Tライターズ(とある専門学校の生徒たちが書き上げた、文芸作品や日記などが投稿されるSNSサイト。そして、そのサイトにおいて最も精力的に様々な文章を投稿していたのは、私の同期たちである)で、私の同期たちが全く文章を書かなくなったのは、単純に皆が忙しくなったというだけでは、ないのだろうなあ。あそこに自分の書きたいことはないのだと、皆は薄らと気づいたのだろう(あるいは、もう既に書きたいことが何もなくなってしまっているだけかもしれないが。ただし、だとすれば、彼等に対して本気で失望せざるを得ないのだが)。皆がログインしても、近況を録に書かなくなったことから考えると。もしくはTライターズ以外に、自分の中に湧き上がった言葉を放出するに相応しい場を見つけ、その新しい場(たとえばブログやツイッターなど)で活動するようになっただけかもしれないが。
 無論、これを悪しき事態であるとは一切思わないし、全く悲しいことであるとも思わない。良いことであるのかは分からないが。
 そして、この事実から思いついたことがある。学校も、会社とさほど変わらない、檻なのだと。仲良くなれそうにない人間とも上手く付き合っていかなければならない閉鎖空間。
 僕らは、さほど心の底では繋がっていないのだ。ただ単に気晴らしのために仲良くしていただけ。ただ単に自分自身の暇を潰すために利用し合うための仲に過ぎない、のだとも言えるのだ。元より、だいたいの私たちが他人と関係するのは、あくまで人間が自分ひとりでは生きていけない脆弱な存在であるゆえに、他者の力を借りなければ生きていけないからだ。
 ただ、かと言って、人と人との関係性が、ここまで単純なものであると豪語するつもりもないのである。それだけの理由で、すべての人間が他者と関係するわけでも、もちろんない。だが、それ以外の理由を言語化しようとしても、私には無理なのだ。そして私には人間関係を作るということ自体に何ら快楽を見いだせない。だいたいの他人と遊ぶということには、それなりの快楽を見いだせるが、あの程度の快感を得るために、わざわざ人間関係を築き上げようとすること自体が、ひどくバカらしいものとしか思えないのだ。
 ところで私個人が人と関与してみるのは、自分自身にとって興味のある事物を見せてくれそうだからであり、人間自体が芸術の素材だからである。人間の言動は、すべてが創造のための足がかりであり、そして人間の生み出してきたものすべては、創造のための材料であり、道具でもある。
 しかし、このような理屈をアレコレと述べたところで、結局は気晴らしのために、自分自身の暇を潰すために、そして自分自身にとっての利益を得るために、使っているだけであると言えるということには、変わりない。
 結局、僕は、僕たちは、同期たちに何ら価値のない存在として見なされたことによって、あのサイトにて何も言葉を生み出さなくなっただけなのだろう、という風にしか自分には思えない。自分の中の何かを言葉にしてみることによって、自分の中での消化できないモヤモヤを攻略できるようになったり、その言葉への様々な反応を頂戴することによって新たなる気づきを得られるようになったり、などの無視できない利点が生まれることから考えても、ね。
 だが私には、彼等が日常にて起こったアレコレから湧き上がってきたモノの言語化をしないで気が済むほど、ヤワな存在であるとは思えない。どんなに忙しくても、どんなに疲れ果てても、それでもなお、どこかで自分の中の熱を言語化しなければ気が済まなくなるようになるのが、創作と文芸を学んできた者としての、生き様であろう。
 私は同期たちに、またTライターズで近況や何か適当な事をバシバシ書き込むようになってほしいと望んでいるわけじゃない。私の知らないどこかで、あなたたちが言葉にしたいことを、きちんと言葉にできているのだろうか、と、ほんの少し心細くなっているのだ。
 今だからこそ言えるけど、僕は同期である君たちのことを、そんなに好きじゃないよ。君たちも僕のことは大して好きじゃないだろうし(むしろ嫌いで嫌いで仕方ないという人間もいるかもしれないが)、それくらいで僕は全然いいのだよ。でも心のどこかでは、なんだかんだで君らが幸せに生きてくれることを、ほんの少しは望んでいるのだよ。私にとっては、どうでもいい君たちであろうとも、それでも脆弱にして可憐な人間なのだから。

人はなぜ虫を嫌うのか、という問いかけへの回答

 虫は好きです。道具として。使用法は以下の通りです。

 幼女の、まだ産毛の生え揃っていない膣にゴキブリを這わせるのがイイと思います。特にイチゴ柄の下着の中に忍び込ませるのが最高だと思います。幼女の泣き顔は、きっと自分の彼女とのノーマルなセックスよりも遥かに興奮するでしょうし、引田天功の脱出ショーの動画よりも遥かに見応えがあるでしょう。

 あるいはジュースの入ったコップの中にイモムシを入れて、入念にかき混ぜ、三分たったら取り出して、ものすごく喉が乾いている人に「はい。冷えたジュースだよ!」と看護婦のような笑顔で渡すのも味があります。

 もしくはトランクスをはいた男のトランクスの中にオオハサミムシかケムシを、女の下着の中にヘラクレスオオカブトを入れるのも趣があっていいと思います。男が性病だったならば、女が処女か未亡人だったならば、しめたものです。ただし女の場合、ブスは嫌なので、そこらへんは誤解しないでほしいですね。

 でもやっぱり、私が一番好きなのは、人間界の汚れを全く知らない無垢な青虫を、美女の女性器か、美少年の肛門か、死体の眼窩の中にねじ込むことです。実際にやったことは勿論ありませんが、もし実際にできる機会が来たならば、ピカソマグリットの絵にも劣らぬ程の芸術作品を創れそうな予感がします。

 この通り、昆虫は一般的な人間の様々な欲望を満たしてくれる最高のパートナーであり、色々な意味で無限の可能性を持った生物なのですから、われわれ人間は、もっと彼等を尊重しながら生きていくべきだと思います。

代弁屋

「嘘をつかなきゃ生きられない、ほんとのことを言ったら殺される」と思い込まされている僕にとって、「代弁屋」は、とても魅力的な仕事人。僕は父親に虐待されていて、彼は日々のストレスを発散するために、愛するべきはずの息子の体を殴ったり蹴ったりするのだ。

 でも、たまには本音で話してみたくなることもある。だから自分の本音を分かってくれる上に、それを言葉に出してくれるという「代弁屋」が居るという話を聞いたとき、心が躍った。これで父とまともに話をすることができると喜んだ。今までは父が怖くて仕方が無かったけど、これならばと。僕は代弁屋と交渉をした。代弁屋は子供の悩みには無料で答えてくれるというので、小学生の僕にはとても有り難かった。

 その日、父が帰ってきて早速私は父に話がしたいと言い、代弁屋を呼ぶ。代弁屋は父の前に現れた。代弁屋の第一声はこうだ。「息子さんはあなたに死んでほしいと思っています」

「あらゆる眠りへ」

 奇抜な男を見かけた。悪夢の目をしていて、三日月の唇を右手で隠した、黒いシルクハットを被った青年が、喫茶店で読書をしている。彼がガラスの向こう側で、ブラックコーヒーを嗜んでいるのかが知りたかったので、私は私の両眼を店内に潜り込ませた。

 左目曰く、男は耐え難き命の苦悩から、数時間後に自殺するつもりでいるらしい。右目曰く、男は古時計の中で最期を迎えるらしい。

 おそらく、私たちの思い出の中で埃を被っている。あれの、ことだ。

 今も鮮明に覚えている。私が少女だった頃、あなたが鏡の前で虚ろな目をしたお祖父様を、包丁で刺し殺したシーンを。少年の涙が、あなたを恋い慕う女の膣の奥に忍び込んでいるのだと、気づかせてくれた、時計の長針。

 永遠に愛しているとは、もう伝えられないのね。でも、それでいいわ。あなたが、過ぎ去りし日々の炎を抱えながら、生きていてくれたのだと知れただけでも、私は、幸せ。

殺戮のルナ・メイジ 9章

 エルザが死んだ次の日、私は学校にいた教師と生徒を、一時間も経たないうちに皆殺しにした。あそこまで容易く殺れるのなら、もっと早く決行しておけばよかった。刃向かう敵の殲滅を成し遂げたあと、激しい興奮のあまり、薄汚れていて悪臭の漂う野蛮人の両腕両足と、かよわくて醜い小人の両腕両足を、祝祭の鮮血とともに、屋上から暗黒の十字紋が描かれた校庭に、どばら、どばら、と、撒き散らすと、最高に心地よかった。

 ただ、騒ぎを聞きつけた国の武力組織であるダーク・ジオの面々が、空から校舎に突入してくるという事態を計算に入れていなかったのは、失態だった。もしかすると、あのダーク・ジオなら――たとえ自国外の大量殺人犯の魔術師であろうとも、積極的に勧誘を行い、その者を厚遇する組織になら――命が狙われるはずもないという甘えがあったのかもしれない。(もっとも奴等からのスカウトなど、断固として断るつもりではあったが)。

 だが結局のところ、彼等もまた無力に過ぎなかった。私が無傷のまま、あっさりと奴等を皆殺しにできたという事実に、大爆笑が止まらなかった。いくら組織の連中が魔十字鎧(まじゅうじがい)に身を隠したところで、ルナ・カノンの前では、所詮は丸裸にかわりなかったのだ。しかも組織の長であり、人界の魔王と畏れられた魔術師を、奴が油断していた隙を突いただけとはいえ、まさか呪文を一発唱えただけで殺せたとは自分でも未だに信じ難い。おまけに魔王の白い覆面を引き剥がしてみると、なんと正体が養父であるベルギムだったとは! 表向きは紳士的な人物を装いながらも、可愛い一四歳の娘に、L側の者を匿う国を壊滅させるための魔術師を養成する学校へ強制的に転学させた中年男ではないか! 自宅の地下室で犬や猫や白い十字紋の付いた人間を魔術の実験台にして徹底的に痛めつけることを何よりの愉悦としていた可哀想な豚男ではないか!

 これでよかったのだ。こうしなければ母さんだって、いつまでも苦しいばかりだった。好きでもないどころか、肩に触れられるだけで嫌悪感が露骨に顔に出るほど生理的に受け付けないようなやつと夫婦でいたって幸せになれるはずがないのだ。今の私の力をもってすれば、レナに苦労をさせずにすむ自信はある。そして明日になれば、どんなに激しく怒られたとしても、泣きつかれたとしても、無理矢理にでも、どこか遥か遠くの国へ、私たちの顔を知らない人たちの住む国へ連れていって、今度こそ安らかな国で暮らさせる。

 この日は、夜遅くになっても、約100匹のピラニアが泳いでいるプールのついた、悪趣味で成金趣味が全面に出たギラギラ豪邸には帰らず、学校の倉庫内で、古びた木の机やら椅子やら拷問器具やらを、鉄パイプでグシャベボコにしながら、ひとりで馬鹿笑いしたり大泣きしたりしていた。ほんとうは、事の最後に、父をバラバラに分解してからすぐに、レナのもとへ戻ったほうが、良かったのかもしれない。でも、どうしても家に戻るのが怖くて堪らなかった。さすがに、あそこまでしてしまえば、目の前で拒絶されると思って。かつて住んでいた家に襲いかかってきた白い兵隊や、ハンネを誤って殺してしまったときも、何も言わずに、泣きながらも、抱きしめてくれた母でも、今度という今度は。

 ジュドがやってきたのは、暴れ疲れて土埃だらけの床の上で、マットも敷こうとせずに寝ようとしていた頃だった。

【ルナ様】脳内に伝わってきた声は震えていた。普段、無感情で、何事にも無関心な彼から、ひどく吃驚させるほどの動揺が、短い台詞から伝わってきた。【重大な報告が】

 起き上がると、思わず目を見開いた。その紺色の冷たい瞳から、殺人鬼の心臓を鷲掴みにする、一筋の涙が流れていたのだ。

(……どうしたの?)

 ジュドは、その問いには返答せず、白い便箋の入った、一通の封筒を差し出した。

【ルナ様】

私は、それを開封し、中身に目を通す。

【貴女なら、私を殺せますか?】

 私は、自分自身でも不思議なくらいに、冷静に、穏やかに、言えた。

「使い魔に主の選択を止める権利はないんでしょ? あんたには何の罪もない。むしろ嬉しいわよ。そこまで母さんを想ってくれてただなんて。それに、どのみちレナは、ああしていたに違いないわよ。いつかは、きっと」

 大粒の涙すら流せずに言った。

「わたしこそ、ごめんなさい。おかあさん」

 もう生きる意味は、なくなった。

 私は倉庫から抜け出し、空に飛び立つ。私が、私を終わらせるところは、既に決めてある。

 アモーゼ島は、まさにルナ・カノンのためだけに作られたような場所だと、円い深淵の傍に座りながら思った。夜空には満月が浮かんでいるが、あれすらも、この底無しの闇に放り込んでしまえば、きっと二度と戻ってこない。

 最期に何を、虚空へ言い遺そうか。特に叫びたい想いなど、がらんどうの肉体に、あるはずもないのだが、それでも何かを、ぽつり、ぽつり、と、歌わなければ、ならないと、感じていた。頭のなかに今も棲みついている、四肢のちぎれた沢山の彼等から、母さんから、見つめられているような気がしていた。

 しかし言うべき言葉が、じっとしていても思いつかず、仕方なく、藍色の瞳を閉ざし、ゆっくりと立ち上がり、体から力を抜いて、ゆわり、と、身を穴に投げ出し、地獄へ近づいていくうちに、ようやく、それが、脳裏をよぎる。

 

 両親が 

 愛する我が子のために 

 してやれることは 

 かぎられている 

 ただ自殺してやることだ 

 あるいは 

 子どもが生まれたばかりのうちに 

 ナイフで跡形もなく 

 紅い無へ還してやることだ 

 これ以外の善行など 

 しょせんは麻薬だ 

 これ以外の祈り方など 

 ありえはしない

 

 

 

 このまま身を任せていればいい。こうして、ずっと瞼を閉じていれば、やがて、私は、いなくなれる。この無限の漆黒を求めていた。誰もいない。恐ろしい人もいない。傷つく人もいない。大事な人もいない。なんて素晴らしい軽さなのだろう。

 そして、これ以上、呻くべきことは、もう何もない。

 あとは、ゆっくりと死を待つだけだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 このときの私に、永遠の光が訪れるとは思っていなかった。

殺戮のルナ・メイジ 8章

【ルナ様、まだ起きていらっしゃいますか?】
 深夜2時。ジュドは円い天井灯の傍に立ちながら、ベッドの上の主にテレパシーを送る。彼女の額からは大粒の温い汗が白いシーツに垂れ落ちており、苦しそうな呼吸の音が灯りの消えた室内に鳴りわたっている。
【頼まれたものは全て入手いたしました。貴女様が始末なされた者たちが所持していた、三冊の魔術書はテーブルの上に置いておきます……薬は入り用でしょうか?】

(ブツは明日になったら確認する……そうね、今ほしい ……)

 使い魔はポケットから錠剤を一粒取り出し、主の唇に目がけて投擲する。王は口を小さく開ける。すとん、と舌の上に着地した睡眠薬を、こくりと飲み込む。服用してから数分も経たぬうちに、意識を失うルナ。

  ジュドは何気なく、シングルベッドの端っこで、くの字の姿勢で寝ているドロシーに向けると、気がついた。まだ、起きている。その水色の瞳の奥から伝わる奇妙な磁力に引き寄せられ、二人の寝るベッドの脇に降り立つ。

 それにしても、実に雰囲気が被る。この少年とはじめて顔を合わせた時から思っていたが、あの白い猫耳を生やした青年を彷彿とさせる。

 珍しく、人間と対話をしてみたくなった。

【……ドロシー様。夜遅くに申し訳ありません。一つ、ご質問があるのですが、よろしいでしょうか?】
(……あ、こんばんは。いいですよ。なんでも聞いてください)
【これはルナ様にも言えますが、なぜ昨日出会ったばかりの他人に対して、心からの信頼を寄せられるのでしょう?】
(え? ……うーん……わかりません……悪い人じゃなさそうだった、から、かな……)
【悪人とは、思えない、ですか】

 首を傾げるジュド。人の考えることなど自分には知ったことではないが、今回のケースに限っては、どうにも腑に落ちない。この世界においてライトメイジであるドロシーと、この次元においてもダークメイジとして認知されるルナが、親交を深められている事実については納得できても、まともな人間ふたりが出会って一日も経たないうちに、実の姉弟か普通の恋人どうしの関係性が出来上がっているように見えるわけが、全くわからない。いくらなんでも距離感の縮まり具合が早すぎるのではないか。

【ルナが怖いとは、まるで感じないのですか?】

(いえ、ぜんぜん)

 男女の仲は謎解きのできないミステリー小説であるという、かつての次元の偉人の格言もどきが、ふと頭によぎった。掘り下げても仕方なさそうだ。

 (あの、僕からも質問していいですか?)

【なんなりと】

(ジュドさんは、ルナが生まれた頃から、ずっと傍にいたんですか?)

【いえ。今の主とは付き合ってきた期間こそ長いですが、私は元々、ルナ様の母であるレナ・カノンの使い魔なのです。数時間ほど前に自称・ユダマの語っていたとおり、レナ様は、もう生きてはおりませんが、彼女は、私の目から見て、とても立派な母親であり、偉大なダークメイジでした】

 レナは、ちょうどドロシーと同じ髪色をしていて、この世のあらゆる悪を包み込む優しさを秘めた目をした聖なる女性であった。そして、かつてルナとジュドがいた世界で、各地で勃発するLとDの争いによる戦災から、無力な人々を守るために、その強大な闇の力を、人種差別なき世を実現するためだけにふるった孤高の魔術師でもあった。

 ふと脳裏に浮かぶ、川べりの草原に建つ小さな木の家の傍で、木製のブランコをこぎながら無邪気な笑い声をあげる幼い子と、その様子を緑の木陰から温かく見守る母の姿。もう二度とは戻らない美しき過去。ルナが産まれ育ったそこは、レナの魔術「アン・バーリア」の効果によって、誰にも知られるはずのない安寧の地。当時、LとDの大戦はL側が圧倒的に有利で、D側の人々には、まともに生活できる場所の確保が極めて困難だったゆえに、愛する娘を守るために生み出された魔導の領域であった。

 だが不幸にも、魔女の王が4歳の頃、レナ・カノンの命を狙う悪しき聖術師によってアン・バーリアは無効化され、胸元に聖なる十字紋の付く白い軍服を着た謎の兵隊から、突然の襲撃を受けて、彼等の策略により、レナは術を使えない身体になってしまったのだ。幼少期のルナに、正式な訓練を受けてきた術師たちを一蹴できるほどの力が無ければ、二人が助かる見込みはなかったであろう。

 しかしレナの術が永遠に封じられた損害は、あまりに重すぎた。あれ以来、母娘は悪臭の漂うスラム街で暮らさざるをえなくなり、ルナは毎日、母特製の、左頬の黒い紋章を白くする、幼い彼女には副作用がきつすぎる劇薬を飲んで、L側の子どもにしか通えない小学校に通うようになった。母親としてはルナをD側の子どもを育てる学校に通わせたかったのだが、自宅からの距離や経済的な事情などの様々な問題からできなかったのだ。当時はルナも飛行能力を有していなかった。レナは娼婦として、生活費と教育費を稼ぐようになった。貧しい暮らしだったが、それでも、ベルギム・フォーゼンという、黒い十字紋が左手についた高名な学者の男と、家族として共に過ごしていた頃よりは、遥かに幸福な日々であった。
 レナとベルギムは売春宿で出会う。彼女の美貌に惹かれた、銀縁眼鏡をかけた男からの熱心なプロポーズによって結ばれることになった。娘はレナが大して好きでもなさそうな人物と結婚するのに賛成できなかったが、彼の顔や言動から伝わる底知れぬ不気味さが嫌で仕方がなかったが、母を少しでも楽にさせるために、ぐっと我慢し、結局、ルナとレナはスラム街を離れ、マルモンドというDの人々だけが集う軍事国へ移住したのである。

 これが悲劇の始まりであった。

(ジュドさん? どうかしましたか?)
【いえ、なんでもありません。すこし昔を思い出していたのです……他に御質問は?】

(ジュドさんから見て、レナさんとルナなら、どっちが強いですか?)
【娘の方、ですね。なにぜ、レナ様とレオ・カノンの二人の血を引いているのですから】
(ルナのお父さんって、凄い人なの?)
【レオ様は私がレナ様に仕える以前に行方をくらましたため面識はないのですが、伝わるところによると、本気を出せば、一つの惑星はおろか、全宇宙すら滅ぼしかねないほどの力の持ち主らしいですね。やる気になれば人類など容易く皆殺しにできるルナ様であろうとも、流石に宇宙までは不可能でしょう】
 少年は目を瞬かせた。彼が何を言っているのか、まったく理解できそうになかった。いくら強力な魔術を扱えようと、ひとりの人間が、宇宙を滅ぼせる? 人類を容易く皆殺しに? 大真面目な顔で語られた嘘にしては、スケールが大きすぎるのではなかろうか?
【まあMPとMPSが切れれば魔術師であろうと聖術師であろうと無力と化すのは真理です。たとえレオ・カノンやルナ様がどれだけ強大な力を有していようとも、彼等が人である以上は限界も生まれてくる……】

 (えむぴい? えみえすぴー? っていうのは、どういう意味ですか?)
【おや、ご存知ないのでしたか。なら明日になれば教えましょう……ドロシー様、そろそろ眠くなっている頃ではありませんか?】
(……うん……たしかに……でも最後に、一つだけ聞いてもいいですか?)
【はい? なんでしょう?】
(ジュドさんは人の過去が視えるみたいですが、僕のは、どこまで分かりますか?)

【ええ。多少は把握しておりますが】
(多少って、どれくらい?)
【はい。ドロシー様はエルハープ大陸のロマティスという長閑な町で、父・ロイドと母・ルシアのもとで生まれ育った“一人娘”でした。しかし貴女が十二歳のとき、奇しくも、大切なご両親が流行りの重い感染症――それも聖なる回復術が効かないほどの病にかかり、その病気を唯一治せる高級な薬を手に入れるために、偽名を用いて、色に飢えた獣どもを相手に『夜の花』を売りはじめました。苦節の末に、何とか目的の物は手に入れられたのですが、不幸にも、その頃にはルシア様は病死してしまい、結果的に命を助けられたのはロイド様だけでした。そして中学校に通いはじめる時期が迫り、どうしても売春婦として働いていた痕跡を消し去りたかった貴女は、知り合いの魔術師の男に「自分の身体を売るから、性転換の術をかけてほしい」と頼み込んだ結果、無事、男性になれました。今のところ、この程度の情報しか入ってきておりませんね】
(………………………………………………凄いですね……ルナには内緒にしてて下さいね)
【もちろん。人は皆、誰にも言えない過去を持っているものです。それは我が主にしても、同じです】

 この少年も、今の主も、お互いに己が体験した過去を映画化でもされてみれば、自殺しかねないな、と思った。また、もし彼が彼女よりも先に早死したとしたら、きっと魔女の王は、この世界においてでも『アモーゼ島』を探し出すのだろうな、とも思った。

 アモーゼ島。唯一、不死の命を持った者が最期を迎えられると伝わる、幻の場所。ルナは、その名前を、数年前、学校の図書館で『世界ミステリー図鑑』を読んだ際に知った。書籍には、こう記述されている。「とある湖に浮かぶ小さな島の遺跡の中央部には、果てしない闇へと続く大きな穴(別名:救済の大穴)がある。穴の底がどうなっているのかを知る者は誰ひとりとしておらず、そこへ身を投げたした者は二度と現世には還れない」
 あちらの世界では、一般的にアモーゼ島は“おとぎ話の産物”として知られているが、あそこは現実に実在しているのだ。著者が本に載せた地図に示した位置へ、実際にルナが空を飛んで行ってみると、たしかに普通の人間には、それなり程度の魔力の持ち主では、視えるはずもなかった。なぜならば島全体に透明化の術が仕掛けられており、通常の肉眼では、ただの青い海しか映らないように仕掛けられていたからだ。
 だがルナには視えていた。特別な術を使うまでもなく。そして彼女は、そこで一度、自殺を図ろうとしている。

 ――過ぎた話だ。終わったことを、だらだらと回想していても仕方ない。
【ドロシー様、ルナ様の過去や、我々がここに来た理由は、知りたいですか?】
 もっともジュドにしても、魔女の王がパラレルワールドに転生した理由については、まるで分からなかったのだが。
(……大丈夫ですよ。深くは詮索しないから)
【……助かります。では、そろそろ、おやすみなさいませ】
 そう言うと青年は、家の壁をすりぬけ、どこかへと消え去っていった。 今夜は珍しく、地面に降りたって、夜空の月でも見上げてみようと思いながら。