TH.Another Room

学生時代に書いた文芸作品をアップしています。

殺戮のルナ・メイジ 4章

 今日で日記をつけはじめて、もう10日目。わたし、はじめて友だちができた。ひまわりのついたむぎわらぼうしをかぶった、えがおのまぶしい女の子だった。なまえはハンネ。学校をぬけだして、ピュオーネ川のほとりで小石をなげてあそんでたら、いっしょにやろって声をかけてくれた。ほほの黒いきずをみても、にげださなかった。ほんと? ってきいたら、うんって頷いてくれた。うれしかった。だからわたしたちは、夕日が空にのぼるまで、ずーっと ぽちゃーん ぽちゃーん ぽちゃーん まあるい音を、かなでてた。元気いっぱいに、わらいあいながら。
 カラスがなきはじめた。ハンネは、かえらなくちゃって言った。わたしが急にさびしくなって、とちゅうまで、いっしょに帰っていい? あたしのいえ、すぐだからってきいたら、おひさまみたいににこにこしながら、いいよって言うと手をつないでくれた。夕やけがむねにしみて、なきそうになった。
 かえりみち、わたしはハンネに、またあそぼうねって、うそをついた。ヒトをだますのは、とくい。あたしは一生うそをついて生きないといけないって、お母さんになきながら言われたから、うまくなった。しかたなく。
 だけどハンネは、きらきらえがおで、うんって言ってくれた。あたまとむねのなかがナイフでぐちゃぶしゃにされてるみたいに、めちゃくちゃになった。
 あと、おくすりのせいで、げろをげーげー、じめんにびちゃびちゃ、はきたくなったけど、今日はまだ、がまんできた。いつもより、らく。おなかもすいたし、ねむりたい。
 でも、ぶじにたどりついた。
 ハンネは、のんきにわらった。
「ねえねえ、あたしのおうち、ちょっとだけよってく? ばんごはんいっしょにどう? デザートのプリン、わけてあげよっか?」
 わたしは、ことわった。これいじょうは、だめだった。プリンはたべたかったけど。
 すると、ガチャリとドアが開いた。
「この大ばか!」
 白ぶたみたいなおばさんが、いきなり出てきて、ハンネのほほを思いっきりはたいた。
「ママ?」
ハンネは、なきそうになっていた。
「どうして、マジョなんかとあそんでたんだい! おまえには見えないの!? こいつのかおについた、のろわれた黒いじゅうじのモンショウが! あああああ! マリアさま! ゆるしてください! わがむすめハンネのぐこうを! どうか、どうかごじひを!」
 白ぶたはハンネをだきしめると、なきくずれた。いつのまにか、くすりのこうかがきれていた、わたしのかおをみてしまったせいか、ふるえながらマリアにゆるしをこいていた。
 わたしはふるえた。ゆびさきに力が入りこんだ。マリア。いだいなるめがみマリア。わたしたちをめちゃくちゃにしたマリア。
 わたしはねがった。
 
 きえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろきえろ

 

 すると、ひとすじのきぼうがおとずれた。
 いつのまにか、ふたりは、あたらしいすがたに生まれかわっている。これならわたしとハンネは、なかよしでいられるし、あの白いブタだって、ちゃんとみとめてくれる。
 わたしは太くてみにくい左うでを、ふみにじると、ばらばらになったハンネの右うでを、だきしめた。かるかった。ワンピースが血でよごれちゃったけど、うれしかった。
 はじめての、おともだちができたから。

殺戮のルナ・メイジ 3章

 その日の夜空に浮かぶ橙色の満月は、無機質な箱の中の、惨劇の舞台を照らせない。
 目覚めると、世界が牙を剥いていた。無垢なる視界は、広漠の絶望に埋め尽くされている。戦慄のあまり背筋が凍りついて、肉体の震えが止まらない。宇宙のすべてとともに、体中が切り裂かれる予感がするのに、全身が磔にされたように固まって、立てない。
 吐き気を催す臭い。異様な寒気。天井の梁から滴る、緋色の雨。眼前に散らばる、黒い血を垂れ流す、夥しい数の死骸。痛々しく分散する、白い衣を纏った人間の四肢。ぶしゃぶしゃの胴体から溢れる、赤紫色の泥。
 ドロシーはコンクリートの床に尻を打ちつけたまま、死屍累々の地獄を眺めていた。目を見開き、声にならない呻きを上げながら。
「なんで、そんな顔をしているんだい?」
 十字架は、ドロシーを宙から見下ろしながら、嬉しそうに語りかける。「ぼうやは今から、君が心より愛する仲間たちと共に、素晴らしき新世界に旅立てるのだよ? 一切の蹂躙や陵辱が起こりえない理想郷で、黄金色の幸福に満ちた生活を送れるようになるのだよ? なのに、どうして怯えている?」

 

ぴちゃあん
             ぴちゃあん
       ぴちゃあん     

 

「辛かったろう? 苦しかったろう? 永い間、ずうっと、ずうっと。でも、もう大丈夫さ。そこに着けば、もはや苦渋とは無縁の生活を送れるのだから」
 十字架は紅い雨粒を受けながら、pbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbbと脳を揺さぶるような音波をたてつつ、ゆったりと浮かんでいる。その真下で横たわる死者たちは、口、腹部、胴体の四つの切断口から、黒紅色の薔薇を床に描いていた。
「ぼうやには聴こえないのかな? かつての同輩たちが唱える、すべての魂のために捧げられし歌が」
 少年は目線を上げた。
 聖なる神の使いを自称する、邪神が笑っている。
「……残念だな。あんなにも美しい歌声が、ぼうやの胸の奥に届かないとはな……おや……おや……私のそばで彷徨っている彼等……つい先ほど送ってあげた彼等も……寂しがっているみたいだ……君の門出を心から待ち望んでいるようだ……視えないかい?……ぼうやのお友達の姿が……」
 十字架が壊れた笑い声をあげた。すると突如、虚空が切り裂かれた。紫色の瘴気が溢れ出す、渦潮状の扉が開かれ、一匹の巨大獣が、重厚な足音を立てながら現れた。
 ドロシーは、荒々しい息を吐き、殺意の涎を垂らす魔物を、凝視する――一年前に読んだ冒険小説、『エリーの冒険』に登場していた、紛うことなき、あの怪物!――今も鮮明に覚えている。あのおぞましくも繊細なタッチの挿絵に描かれていた、真っ赤に充血した目をした獅子の頭部、背の中央部に人間の男の顔が浮かび上がっている逞しい山羊の胴体、黒く鋭い両目の間に刻みついた十字型の紋章、物語のなかで無垢な子猫を咬み散らかした毒蛇の尾を。

 本の思い出が走馬灯のように蘇る。物語のキーパーソンである一五歳の少女エマは話の序盤で、祖母の病気を治すために、薬屋のいる町へ向かう途中の山道で『ヒトクイキマイラ』という名の、人間が主食の魔獣と遭遇する。エマは必死に逃げようしたが、ヒトクイキマイラの足は速く、すぐに追いつかれてしまい、八つ裂きにされそうになってしまう。
 けれど奇跡は起きた。突如、巨大な炎の玉が空から降ってきて、ヒトクイキマイラは一瞬にして焼き尽くされ、甲高い悲鳴を上げながら死んでいったのだ。エマが上を見やると、そこには空飛ぶ魔法の箒に跨りながら、にっこりと微笑んでいる赤い髪の少女がいた。彼女こそが、物語の主人公であるエリー・セントワーズであり、この出会いがきっかけで二人は仲間になって、壮大なる冒険の幕が開かれていくのである……。
 嗚呼、無意味だ! おとぎ話を思い出したところで! エリーは夢の世界の永住者であって、現実には存在しない! 今ここにいるのは、刃の如き牙と、猛々しい四本の脚を、赤黒く濡らした、地獄の使者だけなのだ!
「素晴らしい! 素晴らしい! 一切が麗しすぎて堪らない! これこそが究極の芸術である! いかに才気に満ちた画家であろうと、本物の死者たちが織り成す情景の美しさだけは絶対に表現できるはずがない!」
 心の底から愉しそうに、十字架は謳っている。
「待たせたな、ゼロワン。あれが本日のメインディッシュだ。もうすぐ食べさせてやる」
『ゼロワン』――そう呼ばれたヒトクイキマイラは、けたたましい唸り声を発すると、前脚を一歩踏み出す。キマイラの手前に落ちていた一本の腕が、風船が破裂したように潰れ、悲嘆の鮮血が飛び跳ねる。
 ヒトクイキマイラは、じりじりと迫ってきた。灰色の体毛の下に生えた人面瘡の上に、天井の梁から一滴の紅い雫が落ちる。徐々に詰まっていくドロシーとの距離。瑞々しい死者の血液を垂らす乳白色の牙から、目を逸らせない。可憐な獲物を見据える獅子の眼には狂喜が宿されている。
「先ほどの労働の対価としては充分だろう、ゼロワン。さあ、極上の餌を堪能したまえ。骨の髄まで、たっぷりと……徹底的に壊せ」
 悪魔の呟きが、きこえてきた。獣の息が顔に、あたった。そして太い前脚の爪が肩に食い込み、少年は押し倒されて、恐怖のあまり気絶した。
 邪神は狂気を帯びた高笑いをあげた。この時の彼は、己の立てた計画が、もう間もなく完璧に成功すると確信していたのだ。
 
 だが
 突然――
 何の前触れもなく
 ガラスの割れたような音が
 辺りに反響した

 その単調な響きが
 暗黒に囚われた世界を破る
 前奏曲であることを
 誰もがわかるはずなどなかった……

 

 ゼロワンは、仰向けに倒れ込んでいる少年の左肩から、ズジュ……と歯牙を抜き、音のした方に目線を移すと――空間が歪んでいる。

 白い霧のような、神聖なる気の漏れ出した、渦潮状の扉が現れており、その扉の前で、赤髪の女が立ち尽くしていた。

 男は十字架の身体に隠した眼を、生きた影を纏った少女に向けた。(何だ……何が起こっているのだ!?)
 女が何者であるか、はっきりと判別できないが、少なくとも『L』側からの刺客ではないのは確かだ。彼女からは艶やかな闇が視える。全身からは破滅の空気が醸し出されている。そして隠しきれない『D』の力と意思が溢れている。その姿を眺めているだけで、つい自らの悶死を思い描いてしまう。
 キマイラは室内に轟音を響かせた。これは今、ゼロワンの前方で佇んでいる彼女の足を竦ませて、徹底的に喰らい尽くすための威嚇である。
 だが魔女は全く動じておらず、両の瞳は虚ろなままだ。
(……?……もしや……)
 よく見れば、どこか見覚えのある面影だった。赤い髪、細い釣り眉、切れ長で藍色の吊り目、筋の通った鼻、小ぶりな耳、整った唇、白く清らかな肌、すらりとした体つき――全体的に端正な容貌であるのだが、目の下の黒い隈と、全身から漂う強大な暗黒の気配が、見る者に異様な陰鬱さを与える。そして何より、彼女の左頬についた、黒く小さな十字形の『D』の紋章が印象的である。
(……まさか……奴は……)
 もし自分の予想が当たっていたとすれば、ここで彼女を殺そうとするのは、何の罠も用意していない現状では、まずい。生身の凡人が無防備で戦場に赴くよりも、遥かに恐ろしい。
 十字架はキマイラにテレパシーを送った。
「いいか、我々は現在、危機的状況に立たされている。だから、ここは一度、撤退す……ゼロワン!?」
 しかし魔獣は命令を拒んだ。失神しているドロシーの真上を通り抜けて、標的めがけて直進する。疾風の如く。地を震わす雄叫びを上げながら。増幅する邪気。剥き出しの殺意。飛翔する殺戮者。揺れる鬣。
(このポンコツめ……愚かな真似を! ……MPの消耗は可能な限り避けたいのだが……やむを得まい!)
 そう判断し、緊急脱出用の呪文を唱えようとした。これさえ発動できれば、キマイラともども本拠地に戻れる上に、彼女も確実に始末できるはず……。
 だった。魔女は何かを呟いた。
「……ベル」
 邪神は耳を疑った。
 ゼロワンは、まるで身体を氷漬けにされたかのように、暗い宙に囚われた。獅子の瞳に驚愕が浮かんだ。
 魔女は再び、はっきりと言い放つ。

「バベル」

 キマイラの全身に極度の苦痛が走り、その血走った眼が見開かれる。殺戮獣の体躯が段々と膨れ上がっていく。
 ゼロワンは鋭い悲鳴を上げた。
 鼓膜の破れそうな爆破音がした。
 獅子の頭がついた山羊の胴体から、毒蛇の尾と四本脚が切り裂かれて、黒い鮮血とともに空を舞い、床に叩きつけられた。
 少女は無表情で目の前に転がっているヒトクイキマイラの亡骸を、虚ろのまま眺めている。けれど、その奥で横たわる、数多の死者の海には視線を移さない。
 背筋が凍り付いた。
(……奴以外の者に『バベル』を唱えられるはずがない……絶対に間違いない……)
 ――かつての記憶が、はっきりと蘇る。
(……こいつと本気でやり合うとなれば……今はまだ……準備が足らなすぎる……) 
 幸いにも、自分の存在には気がついていないようだ。十字架は静かに唱えた。
 「スペース……ムーヴ」
 すると邪神は一瞬のうちに、一切の音も立てずに、虚空の内へと消え去っていった。

 

 ……ゴーーーーーンンンンン……。
 鐘に似たチャイムの音が、少年の意識を、闇の中から現実へと引き戻す。
 瞼を開けると、紅色の雨が止んでいる。僅かに時が流れたせいか、室内が更に暗くなっている。ドロシーは上体をゆっくりと起こし、あちこちを見回すと、いつのまにかアンク十字がいなくなっており、自分を食い殺そうとしたキマイラがバラバラになっている。
(……あれ?……どうして僕は、ここに?)
 ようやく気がついた。さっきまで一階の、地下倉庫へ向かうための部屋にいたはずの自分が、何故か二階の作業場にいることを。嗅ぎ慣れたカビ臭さ。つい数時間ほど前まで稼働していた、運搬用エレベーターに繋がっていた木っ端微塵のベルトコンベア。青白い液体と青々とした煙が漏れ出す、完璧に粉砕されたドラムマシン。グシャゴナになった産業用ロボットたち。白い作業服を着たまま皆殺しにされた同僚たち……。
(……これから……どうすればいいのかな……みんな……殺されちゃった……)
 涙が浮かんだ。左肩から流れる痛々しい赤が、ぴちゃりと落ちた。胸の奥が冷たい痛みに囚われた。絶望の闇に覆われた。
(……もう……かえろう……)
 書類の提出など明日でいい。工場長の行方も、あとで探せばいい。少年は立ち上がると、体を後ろに、作業場の出入り口の方に向けた。
「……えっ?」

……キュオオオーーーーーンンン……

 不思議な短音が、辺りに木霊する。その音とともに、彼の前方にできていた純白の丸い穴が縮んでいき、無くなっていった。
 そして、そこに見知らぬ少女が、悲涙の鮮血を吐きながら倒れ込んでいた。

 

殺戮のルナ・メイジ 2章

 扉を閉めると、一面の薄闇に覆われた。辺りを見回すと、どうやら狭く古びた部屋に入ったようである。室内は、がらんどうで、埃臭さが漂っている。

「………………………………………………」

(行き止まり?)と一瞬だけ思ったが、おかしい。あのドアには『地下倉庫』と書かれたプレートが張り付いていたではないか。少年のイメージでは、ドアを開けると、すぐに工場の奥底へ長々と続く階段があり、そこから下っていけば倉庫に辿り着くはず、だったのだが。

「………………………………………………」

 だが進むほかに道もなさそうだ。とりあえず隈なく調べていこう。そう判断し、足を踏み出そうとした。

「………………………………………………」

 ところが、なぜだか身体が硬直して、全く動けそうにない。どこかから何者かに麻痺の呪文を受けたかのようだ。

「………………………………………………」

 しかも胸のあたりが、急に苦しくなってきて、吐き気まで込み上げてきた。

「………………………………………………」

 目眩がする。
「………………………………………………」

 彼は扉のそばで立ち尽くしたままだ。
「……………………………………………よ」
 尋常ならざる寒気が襲いかかってきた。
「…………………………………………だよ」
 意識が朦朧としてきた。
「……………………………………だめだよ」
 やがて少年は気絶した。
「…………………………坊や……だめだよ」
 ”囁き声”には気がついていなかった。
「……坊や……こんなところで……寝てはだめだよ……本当に君が眠るべき場所は……ここじゃあないんだよ……ねえ……坊や……ねえ……ねえったら……」
 しかし、まるで目覚める気配がない。

 ならば心臓の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥の奥へ語りかけるしかない。
「起きろ」
 氷柱の声が、彼の意識を呼び覚ます。
 小柄な身体が、百獣の王に睨まれた草食動物のように震えあがった。視線の先に、部屋の中央部に、そこに在るはずのない『物体』が、床に描かれている十字型の黒い紋章の真上で、優雅に浮かんでいた。
「ようやく、気がついてくれたかい?」
 全身が少年よりも遥かに小さく、総身が漆黒色で、中央部に薄桃色の細い唇が付いたアンクの十字架が、どこか楽しそうな声音で語りかける。

「はじめまして。たしかドロシー君、でいいのかな?」
 少年の頭の中は真っ白になっていた。
「彼から君の名を教えてもらった時は、少女なのかと思ったが……なるほど。君は元々、女性として生まれてきたようだね。が、この島に強制連行される以前に、売春婦として働いていた痕跡を何とか消したかった坊やは、ある魔術師の助けを借りて、自身の性別を転換してもらったからなのか……嗚呼、すまないねえ。思い出したくもないことを思い出させてしまって」
 得体の知れない悪意を感じ取った。なぜ自分の名前のみならず、触れられたくない過去の一部まで知っているのだろう。
「どうして怯えてるんだい? もっとリラックスしてくれていいんだ。別に君を地獄へ連れていくつもりなんてないんだ……」
 ドロシーの頬は真っ青になっていた。どういうわけか身体の小刻みな震えが止まらない。十字架の全身からは、強大な邪気が、無彩色の殺意が醸し出されている。
 黒い十字架は葉を揺らす風のような音をたてながら、ゆっくりと少年に近寄ると、親しみをこめて言った。

「私は聖神マリアの使いの者さ。きょうはマリアの言いつけによって、君をとても素敵なところへ案内しにきたんだよ」
 未知の物体は、呆然としている彼の耳元に回り込むと、小ぶりな唇を蠢かす。
「私は君がここに来る未来を予知していた」
 少年はアンク十字の輪の部分を、横目で凝視する。
「君は工場長と会いたくて、その彼が現在、この部屋の奥の地下倉庫に居るかもしれない、と、あのキツネ目の青年から聞いて、魔防壁の封印を解いたのだろう? 違うかい?」
 室内が更に寒くなった気がした。
「そして君は今、疲れ果てている……日々の過酷な労働のせいで……本当は心底やりたくもない仕事に追われているせいで……」
 混乱が加速する。
「……とても……悲しくて……たまらない……穢れなき魂を宿した者が、この世界の勝手な都合のせいで、汚臭に満ちた建物に閉じ込めれれ、くる日もくる日も、あんなにも恐ろしい物質の製造に携わらなければならないだなんてね! 嗚呼! 実に恐るべき話だ! 大粒の涙を禁じ得ない話だ! しなやかな心と肉体が、破滅への道を進んでいる現実が、私は憎くて堪らない! すべて紛れもない事実だろう? あの二年前に起こった軍事侵略によって、君は牢獄のなかで、週六日、七時から二十時の間、ひたすら馬車馬のように酷使される運命を余儀なくされたのだろう? 違うかい?」
 十字架は嘲笑いながら、囁いた。
「私に見透せないものなど、ないのだよ」
 少年には何も言い返せなかった。
「けれど、だ」
 突如、硝子が砕け散ったときの音がした。
「君の望む道は、今より切り開かれる」
 天井の細長い電灯は砕け散っていない。
「もう、そこまで来ている。真なる革命の気配が。歓喜の産声が上がる予兆が」
 辺りの薄闇が、徐々に濃くなってゆく。
「いいかい? ぼうや」 
 黒い十字架が、深い闇へ掻き消えてゆく。
「天国は、すぐそばにある」
 ぽとん。
 白い作業帽の上に、一滴の雫が落ちてきた。
「人間にとっての天国は、己が胸の奥に眠っているんだ。どこよりも深く、寂しげなところで、君が帰ってくるのを、待っている」
 ドロシーは、ぼんやりと上を見上げた。
「だから、目を覚ますんだ。君にとってのユートピアは、この地上にはないんだと、ね」
 しかし、見渡す限りの黒。
 どこを見回しても、単調すぎる漆黒。
「迷える子羊を天国……いや『神の国』へと導くためならば、私は手段を選ばない……無償の愛を捧げるために……」
 ――ぽと、ぽと、ぴちゃっ、ぴちゃっ……無限の夜のなかで、見えない雨が降り出す。常闇が、徐々に薄れてゆく。

 

 ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん ぴちゃん

 

「さあ、目覚めのときだ」

 

Piiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii……。 魂を吸い取っていきそうな音楽が鳴り響く。頭の中が揺さぶられて、ぐらぐららりらりらりリリリと揺れて、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。ざ、ざ、ざ、と雑音が規則正しく鼓膜の中で弾みだす。目の前が時々、うっすらと白くなる。頭の中が刃物で掻き回されているようだ。ざん、ざん……がん、がん。頭皮の内側が鉄のハンマーで叩かれている感じもする。息をするのが苦しくなる。いたいいたいくるしいいたい……。
 やがてドロシーは虚無のなかへと沈んでいった。

「ぼうや?」
 十字架は声をかけて、自分の術が成功したかどうかを、念のために確かめた。
 少年は、ぐったりと倒れ込んでいる。
 醜い笑みが、こぼれた。

殺戮のルナ・メイジ 1章

 声が聞こえたような気がする。けれど、それがどこから放たれたのか、どのような声かは分からない。テレパシーか空耳? なぜだか奇妙に心に引っかかり、少年はしばらくの間、動かしていた手を止めて、じっと耳と心を澄ませていた。

 だが工場長の掠れた怒鳴り声が、彼の体から遠く離れたところから、邪魔をする。「貴様、何をぼうっとしている! まだ今日の分は終わっていないぞ! さっさと働け!」
 少年は、「す、すみません」とあたふたと小さく返事をしながら作業に戻る。今が仕事中だと忘れていた。多分、疲れていたせいだろうと結論づけて、気をとりなおす。掌に神経を集中させる。ベルトコンベアを流れる、粘土のような柔らかさをした青く透き通った『蒼魔玉(そうまぎょく)』という玉を、右手で掴む。素早くかつ注意深く(……指跡をつけたり、へこんだ跡を残したりすれば、彼は工場長に叱り飛ばされてしまう……)。その球体を、ゴム手袋をはめた両手で包み込み、少年の左手についた十字型の白い紋章の軽い疼きを感じながら、さっと撫で回し、カゴつき台車の中に、柔らかな表面に傷がつかないように、そうっと入れる。カゴの半分を埋め尽くすそれらは、一見本物の水晶玉と見分けがつきそうにない。
 ……ズキリ、グラグラグラ、グニャグニャリ……。

 まただ。また強烈な偏頭痛と目眩がしてきた。この工場で働かされはじめてから、度々起こるようになった症状。昨日からの体調不良による食欲の低下により、配食のパンとスープに口をつけられなかったせいもあってか、いつもよりも具合が著しく悪い。

 当然、この状態では作業の効率が悪化するので、「癒しの呪文」を使うしかなくなる。少年は早速、いったん持ち場を離れ、手袋を外し、右手の五本指を左手の甲に乗せる。手の真ん中に貼り付いた“白魔紋(しろまもん)”に精神を集中させて、ぽっそりと唱える。

「ヒーリィ」

 ――紋章が煌めいた。一つの言葉が少年の中に聖なる光を注ぎ込み、身体に巣食った死霊を追い払ったかの如き爽快感を与えた。心地よい暖かさが全身を包んだ。茨の棘が刺さったような頭痛も、意識を壊しそうな目眩も、ひんやりとした風の中に掻き消えたのである。

 これならば職務に支障をきたさない。少年は自分の持ち場へ迅速に戻り、そしてまた黙々と単純作業を再開する。いつものように頭から雑念を捨て、立ちっぱなしのまま、手だけをひたすら動かすのだ。(……余計なことを思っちゃいけない。今、僕達は薄汚れた奴隷……僕には、ここで上司に命じられるがまま働くしか生きる道がない……そして僕は、とにかく生きなきゃいけない……)

 

 工場内の端で、ずらりと並ぶ錆びかけのドラム型マシンがグオオオオと轟音を立てている。産業用ロボットが、ドラムの下部についた四角い口から青の球体を取り出し、淡々とベルトコンベアに載せてゆく。白の作業帽と作業服をつけた人間が、それをせかせかと撫でている。どんよりとした空気が黴臭い作業場に流れている。少年は蒼魔玉が積み込まれた台車を、出荷口に運び終えたところだった。

 今日中に出荷する分が終わってから、どれくらい経っただろうか。午後三時の休みを過ぎてから、時間の確認を忘れていた。工場に一個しかない時計は壊れていた。普段は腕時計をつけているのだが、今日に限って家に置いてきてしまった。その上、ここには窓が一つもないため空の色を知ることもできない。今が十七時だとすれば、まずいのだ。出荷報告書の提出時刻を過ぎてしまう。工場長は少し期限に遅れただけで説教するタイプのため、急いで見つけ出さなければならない。工場内全体は、そこまで広くない。おまけに、このフロアで稼働する機械装置は、わずか三種類、蒼魔玉の原型を生むドラム型マシン、円形のベルトコンベア、それに繋がる地下行きの運搬用エレベーターしかないため、内部の見通しが良い上に、作業員数は約二十名しかいない。だから少し探せば、すぐにでも見つかるはずなのだ。
 少年はアクアブルーの目を素早く、きょろきょろ動かしながら、作業場を歩き回る。しかし二階には、いない模様。一階だろうか。内階段のぼろぼろの手摺を横目に、カンカンと音をたてながら降りた。(あの人が、いそうな所といえば)――検品室と休憩室と、事務室。まず確かめるのは階段から降り、すぐのところにある、高級な香水のような清らかな香りが漂う検品室。ここは蒼魔玉の原材料に傷がついていないかをチェックする場所。今も二名の作業員たちが、それを裸眼で検査している……が、ここ、には、いない。次は検品室の向かい側にある休憩室。朝会や昼食にも使われる部屋である。もし今が十六時四五分ぐらいならば工場長は間違いなく、パイプ椅子に座りながら配食のインスタントコーヒーを嗜んでいるはずだ。が、またしても見つからない。残る可能性は事務室になるのだが、あまり期待できそうにない。彼は普段、あそこで事務作業をしないのだ。普段、工場長が書類やパソコンと格闘しているところは二階にある小部屋なのだが、そこは壁や床にカビやホコリが溜まりに溜まっている上に、生ゴミのような汚臭が漂う不衛生極まった空間なのである。使用者曰く、「掃除をしようにも仕事が多すぎて手をつける暇もないし、下の者にやらせようにも現場が忙しすぎて、やらせる暇がない」らしいが、ならば普通に一階の事務室でやれば良いのでは、と思うのだが。ともあれ一応、確認しなくてはならない。本来ならば単に二階の部屋のデスクに置いてくれば済む話なのだが、こんな日に限って、なぜだか扉に鍵が掛かっていたから。提出書類をさっさと渡して、工場から早く脱け出したいのだから。少年は足早に、休憩室の隣にある部屋へ入室する。

 室内では五人の事務員がデスクトップ型パソコンの前でパイプ椅子に座りながらキーボードをカタカタと叩いている。事務室の中は清潔だが、冷たく、張り詰めた空気が漂っているために居心地が悪い。「すみません、工場長どこにいるか知りませんか? 出荷報告書を提出したいんですが」 

 そう尋ねると、頬に茶色いシミがぽつぽつと付いている二人の若い女性は、「あたしもさっきまで探してたんだけど、どこにもいなかったわね」「外にでも出かけたんじゃない?」 だが二人の中年男は、「いや工場の外回りには、いなかったぞ」「もしかすれば地下倉庫じゃないかい?」
 地下の倉庫? 聞いたならあるのだが、ここに配属されてから、そう長くは勤めていないので、場所が分からない。他の従業員の話では、倉庫には大量の蒼魔玉の不良品が収納されているらしいのだが。工場員たちは、どうすれば地下へ行けるのだろうか? この工場には蒼魔玉専用の小型エレベーターはあるのだが、おかしなことに、関係者専用のエレベーターやエスカレータはおろか地下に繋がる階段すらもないのである。
「あの、工場長って、普段どうやって地下倉庫に入るんですか?」
「いや、そいつは俺たちも不思議に思って、聞いたんだけど……あいつは何故か、貴様らに教えるわけにはいかない、の一点張りでよお。全くワケわかんなくて困るねえ」
 彼は子犬のように可愛らしい顔を歪ませた。(えぇ……打つ手がないなんて……)。額に右手を置きながら必死に解決法を考えていると、部屋の一番奥にあるデスクで作業をしている、キツネ目の若い男が、「俺なら分かるよ、行き方」と、掠れた声で言った。

「えっ! どうすればいいんですか!?」

 男は少年の方へ見向きもせずに、 
「MP(マジックポイント)は余ってる?」

 MPというのは、この世界で生きる大多数の人間であれば可視化できるパラメータ。この世界での一般常識として、これを把握したいと判断した場合、片目を閉じ、そのとき脳内に生じる、機械で加工されたような謎の女性の声による報告を受けて、残量を確認する。少年もまた、その過程を経て、術を使える回数を知ることができる。「あ、はい。ちょうど半分、残ってます」

 人々は何らかの術を用いる際にエネルギーを消費する。たとえば先に少年が唱えた「ヒーリィ」を使用するには3ポイントのエネルギーが必要となり、詠唱者のMPが3未満であれば発動しても無効となってしまう。「ただ、3ポイントしか無いですが……」

 男は頭を小刻みに左右に動かし、首の付け根まで伸ばした黒い髪を揺らしながら言う。「MPが1ポイントでもあれば充分……じゃあ今から案内するから、ついておいで」

 キツネ目の男に招かれるがまま、工場の出入口に向かう。(工場の外回りから、行けるのかな?)と思ったが、どうやら外れのようだ。「ここから、地下に進めるんだ」

 男は玄関の扉の前で、細長い人差し指を、鋼色の壁に指す。

「今、俺たちが目にしている、一見なんの変哲もない、これ。実は、魔術によって封印された、倉庫への入口が隠されているのさ」

 少年は口をポカンと開けた。そしてダボダボの白い作業服を着けた小柄な体を、のろのろと動かし、秘密の扉が隠されているらしき壁にで触れてみる。けれど左手が疼かない。蒼魔玉に触れたときの、あの奇妙な感覚が伝わってこない。

「本当……なんですか?」
「事実だよ。いつも工場長は、この『壁』から地下へ入ってる」

「ど、どうやって、ですか?」
「ここには魔防壁(まぼうへき)っていう非常に高性能な対魔術用のバリアが張られているために、どれだけ強大な魔力を注入しようとしても、糠に釘を打ったような効果しか得られない。この封印を解くには、君が普段作業している時と同じ方法――つまり、ただ蒼魔玉を撫でるだけでは駄目なんだ」

 すると長髪の男は、突如、彼のしなやかな両手を勢いよく掴み、手の甲へと視線を向けた。少年は驚きのあまり体を震わせ、その異様に鋭い眼を上目で見つめた。

「怖がらなくていい。さっきMPが余っているかと尋ねたのは、あの中へ入るための条件をクリアしてるか、確かめるためさ」
 男はズボンのポケットから黒い指サックを取り出し、自らの右手に填め、それを少年の左の手袋の甲に乗せ、両目をつむり、呟いた。「……アサーテイン……」
 ――疼いた。あの煙草の先端の火にかすったような痛みが生じた。ゴム手袋を外してみると白魔紋は、黒くチカチカと点滅していた。「ふむ。良い状態だな」

「あの……何をしたんですか?」

「いや、君が嘘を言っていないかどうか、ちょっと試してみただけだから、そんなに気にしないでくれ……」

「……? は、はぁ……」

「今、俺がしたことに違和感を覚えたのなら、あとで説明してやるから、とりあえず地下室の方を優先させよう」

 男は壁に手を触れて、目蓋を閉じる。

「……キャンセレーション……」

 ピィーーーーーーッ……。壊れたパソコンの起動音に似た音。

 少年は目を見張った。目の前に黒ずんだ斑点がまばらについた十字型の白い紋章が、うっすらと浮かび上がっていた。

「俺が唱えた呪文は、この『魔防壁』が仕掛けられてることを証明する紋章を出現させるためのものさ。それを表出させない限り、絶対に地下倉庫へは辿り着けない」

「僕は何をすればいいんですか?」

「君たち製造員が蒼魔玉をつくるときと同じ要領で、こいつに魔力を注入してほしい」
 水色髪の少年は、男の指示通りに、壁に浮かぶ十字紋を優しく撫で回してみた。
「で、しばらく待てば……ん?」
「あっ!」
「思ったよりも早く出てきたな」
 二人の視界から紋章が消えた代わりに、先程までなかったはずのものが、『地下倉庫』と記されたプレートの付いた白いドアが現れている。緑銅色の丸いドアノブから漂う錆臭さが、奇妙な現実味を醸し出している。

「これで万事解決ってわけだな。さ、早く書類を提出してきな」
 キツネ目の男は、そさくさと事務室へと戻っていった。少年は彼の後姿から得体の知れぬ不気味さを感じ取っていた。(あの人、なんで、そんなことを知ってるんだろ……)

 だが、あとで尋ねれば良いだけの話だ。この扉の向こうに工場長が居れば、ようやく仕事が終わるのだ。今日は体も心もクタクタだから早く帰って明日に備えたい。少年は重い瞼を擦りながら、古びたドアノブを、ガチャリと回した。

 

 男は彼が扉の中へ入ったのを確認すると、小型の通信機を胸ポケットから取り出した。

「……様……様……にございます……準備が整いました……現在あの者は向かっております……貴方の下へ……」

殺戮のルナ・メイジ 0章

 彼女にとって人類を滅ぼすことなど造作もなかった。彼女にとって自分以外の人間など芥ほどの価値はなかった。彼女にとって命になど塵と差はなかった。彼女からしてみれば現実と虚無に何の違いがあるのか分からなかった。

 無数の命は無の彼方へと去り、ただ血塗れの死体が世界中に散らばっていた。苦悶の表情を浮かべた死体達に魔女を呪い殺す力はなく、天に裁きを下せない。街にも山にも草原にも、四肢のちぎれた骸は転がっている。それは魔女の行使による結末。あらゆる生命は無に帰して、この地上には赤い髪の少女しかいない。いかなる魔術も兵器も、彼女の前には無力だったのだ。
 清廉な建物と、雄大な自然と共に、彼女は今、生きながら死んでいる。この世界の全ては彼女のものだ。けれど、この地上にはもう夢が失われているのだから、少女は堕落する他に道がなかったのである。
無限の堕落の中で、彼女は物思いに耽っている。海は蒼くて、森は緑で、空は青くて、少女の髪は紅緋色。でもそれらは本当にそんな色をしているのか? それらがそうである意味は? それらは夢を見るのか? 彼女は、世界が終わったあの時から、いつも考え事をしていた。脳を動かすのは嫌いではないし、空白の世界では、やることが限られるのだ。
 心は退屈だったけれど、体を動かす気力はなかったから、結局何もしない毎日を送っていた。人類が滅びても、自然や建物、食糧や玩具等が残存している今の世界は、ある種の人間にとって、まさに理想郷であり、聖地とも言える。
 紅蓮の魔女は、とある森の奥深くにある小さな木の家で暮らしている。ワンルームだが八畳程の広さなので住み心地は悪くない。部屋の中には幼い頃から大好きだった絵本や小説、七歳の誕生日を迎えてから、すべてが壊れた“あの日”まで書き続けていた赤い日記帳、慣れ親しんだバイブレータ、一三歳の頃より愛用するドラッグが散乱しており、掃除も碌にしない上に窓を開けようとしないため、あちこちから汚臭が漂っている。この部屋には人類を滅ぼして以来、生きた屍と化した彼女にとっての世界が凝縮されているのだ。
「……ひま……だるい……死にたい……」
 ベッドに横たわりながら何の意味もなく、誰にも届かない嘆きを吐き出す。いっそ狂えれば楽なのに、ドラッグに溺れようとしても、何故か身体や意識も、そのままだ。
「……変ね……あたし……ちっともおかしく……ならない……」
 ベッドの傍の窓から、綺羅星が輝く空を眺めているうちに、ふと思った。夜空に輝く星達は何故輝いているのか、何故落ちてこようとしないのか、仲間達と群れながら輝くよりも、この地上に落下することを望むたった一つの星があってもいい。星だって堕落の味を知りたいかもしれない。星だって夜空が裂けて、虚無の中へ飲み込まれてみたいかもしれない。彼女は心の中で綺羅星達に尋ねてみた。
(……ねえ、あんた達は朝になったら誰にも見えなくなっちゃうのに、何でそんなに必死に輝いてるのよ。虚しくならないの?)
 綺羅星達は何も答えない。
「……つまんない……」
 彼女は夜空から視線を外し、枕に顔を突っ伏せて、寝ようとする。けれど眠りたいのに、眠くなかった。頭痛と眩暈がしたからだ。幻が「お前に眠る資格はない」と語りかけてくるからだ。それでも睡りたかった。もし自分が枕するうちに死んでいたら儲けもの、軽い目眩に苦しめられたら現実。これほど陰鬱なギャンブルも他にないだろう。要約すれば、この身体がどうなってもいいから、早く楽になりたいだけ。
 それでも後悔はしていなかった。これはこれで世界にとって正しい在り方だろう。大抵の人間、いやすべての生命には元より存在理由などない、それどころか自分たちが生まれてきたこと、生きることが大罪なのだ。こうした破滅的な思想を形成したわけも、とうに忘れている。そもそも何処で生まれたか、どんな風に育ったか、何を学んできたか、どんな人達と関わってきたか、そういったことすら、よく覚えていなかった。かつて望んだ夢を具現化したのに、何故ちっとも嬉しくないのか。彼女自身が分からなかった。一面の黒が視界を覆っていた。
 すべては沈黙していた。世界も、少女の魂も、何もかも空っぽのまま、時は流れている。

 

 その日の夜は、満月が空に貼り付いていた。それは彼女にとって夜空の至宝。退廃した現世の街並みすら、月明かりの下では優美なる都と化す。古びた廃墟もメルヘンチックなお城へと早変わりし、満月は囁くのだ。「ユートピアは、もうすぐやってくる」。もしかすれば、こんな世界のどこかで白猫とドブネズミが手を繋ぎながら踊っているかもしれない。二匹は幸せそうに笑いあっていて、ダンスの終盤にキスをするのかもしれない。そしてお月様と夜空に、こんばんは! と笑顔で語りかけてみたくなったから、今夜はカーニバル・ナイト。

 だからこそ少女は、骸たちの集う街へ遊びにきたのだ。地上の地獄を見渡すのも久しぶりだった。アスファルトやコンクリートに染み込んだ黒い血、散乱した手足、屍どもの顔には絶望が表れていた。死の香りが魔女の胸をときめかせた。
 彼女は高らかに歌い上げる。
「何もかもが素晴らしいわね! 死ねば誰もが仲間なんだから! そう、あたしは今、生きている! 満月も祝福してる。この世が創られた唯一つの意味は、あたしが全ての生命を踏み躙るためだって!」
 誰にも届かぬ叫び声を放ち、どうしたいのだ、どうして死体の一部をナイフで切り落としたのだ、何故お前は生首の断面を唇で吸いながら、腐った肌を愛でているのだ……そう誰かが魔女に呼びかけたが、それが誰の声なのかは、わからない。
 けれど、しばらくもしないうちに名も知らぬ男の頭部を投げ捨て、暗闇を顔に塗りながら、呟いた。
「……下らない……」
 首遊びにも飽きた。唾を吐き捨てた。魔女の足元に転がる骸達は、白目を剥き出しにして夜を眺めている。魔女は黒い血のついた腕と足を拾う。暗い空へ放り投げる。そして彼女は、足下の骸の顔を踏み潰して、自らを絞め殺すように、修羅の叫びを上げる。
「ドブネズミはあっ! 世界中のどんな宝石よりもおおお! 美しいいいッッッッッ!!!!!」
 街中にソウルヴォイスが響き渡る。肩まである赤い髪を揺らし、青の心を解き放つ。紅の叫びによって、僅かながらも自我を浄化できた。けれど。すぐに冷えた。この儀式は結局のところ徒労に過ぎないのだと。魂を空にぶつけようが奇跡は起きないと。私だけの夜が何かを生むはずなど永遠にないのだと。
 それでも少女が、空に満月が現れる度に外へ飛び出し、虚しさを体に重ねてしまうのは、彼女の最期の望みが血塗られた自己を切り落とすことだから。

 今日も、限りなく狂気に近いライブを終えたあとに生じる想いは、ひとつだけ。いつも通り、虚しくて仕方ない。

 満月が暗雲に隠れた頃、魔女は死体遊びにも飽きたから、帰ることにした。退廃のこびりついた、害虫と恋人のいないボロ家に。あそこに戻ったところでドラッグやバイブレータに溺れることしかできないのだろうが。現実逃避のために絵本や小説の世界に埋没しようとしても、床に散らばった本どもの内に宿る意志を読み取れなくなった今、あれらは単なる紙束でしかない。

 いつしか彼女は街を去って、夜露に濡れる森の中へ辿り着いていた。寒空の風がびゅうびゅうと吹き荒れている。赤い葉っぱたちがひらひらと落ちてきたが、血の雨や猛毒の林檎は降りそうになく、切り株は歩かない。一輪の白い花が自分の目の前へやってきた少女に微笑むと、魔女はそれを踏みにじった。
 彼女は紅い葉で着飾った木々のそばを通る。住処に戻るまで足を進める。ふらふら、ふらふら。端正な顔からは生気が失われている。吊り目は暗黒に囚われている。黒いストラップシューズの裏側は土に塗れる。紫色のPコートの袖と黒いスカートが小さく揺れる。首に巻かれた赤いスカーフと、その下にかけられたネズミのペンダントが強い風になびく。枝葉の間から夜が差す。
 紅い木々と、青紫色の切株が少女に話しかけようとしたが、あの宵闇のとりついた横顔を見てしまうと何の言葉もかけられない。彼等には、彼女が生きた亡骸にしか見えなかった。女の横顔は語っていた。
「猫の喉が潰れちゃったから、瞳の中から命の泉が無くなってしまったの」
 樹木の匂いが鼻の中に伝わってくる。それは彼女にとって何の変哲もない死臭。魔女にとって一つの死体と一本の木に全く違いは無い。どこにいても考えることはいつも一緒だ。少女はあの日から、永遠にシロイネコと手を繋ぎたいだけの屍となってしまったから。
 魔女の影の上を浮かぶ使い魔は、大罪を背負いし主の後ろ姿を眺めながら、思った。
「不思議だ。絶息を望むにもかかわらず、未だに呼吸をしていることが。私は知っている。絶大なる魔力を誇ろうとも、細胞や血がどれだけ狂ったものであろうとも、自らの肉塊ぐらい壊す気になれば、すぐにでも壊せることを。紅で焼き尽くすことなど、わけもないはず……私には彼女が未だに生き続けている理由が、分からない」
 魔女の王は絶命の王国を歩きながら、見えない涙を流しながら、崩壊してゆく。
 かつて、かつて、かつて、あの日……。嗚呼、思い出せない、思い出せない、本当に思い出せない! 森がぐらぐら揺れている。それもドラッグのおかげ? 違う。少女の掌から行方不明になった白い猫のせいだ。血の色は赤じゃなくて白だ。血は液体じゃなくて、砂だ。それを教えてくれた……は夢の中にすら現れない。常闇に……の姿は浮かばない。手足はおろか、耳すらも! 少女は……の耳が大好きだった。それなのに……は砂塵と化したのだ! 空がくるくると廻る。世界がぐにゃぐにゃと歪んでゆく。思い出せない! 思い出したい! 思い出したくない! あの優しすぎる声を! あの白くて柔らかい髪を! あのスカイブルーの瞳を! 目蓋の裏から暗闇が銃弾を放つ。それは幼子の声となって、被弾する。ねえ、どうしてこんなところで暮らしているの? 何で僕達の手足はとれちゃったの? 教えてよ、お姉ちゃんはどこに居るの? 吐き気がする。怨嗟の声に精神を破壊された少女は、ばたりと倒れる。 
 夜風吹く森の中、彼女は暗い土の上でうつぶせながら、目を閉じる。不浄な荒土がコートとスカートを汚す。辺りは、単調な絶望と暗黒への希望に包まれていた。漆黒の景色には何も浮かんでこなかった。闇は唸り声をあげず、黙り込んでいた。銀の星達は、地上めがけて落下しようともしなかった。
 風の下の魔女は、宵闇の底で蠢きもせずにいる。

 

 …………ブウウーーーーーーンンンーーーンンン…………。

 そんな時、何の前触れも無く、蜜蜂の唸るような音が聴こえてきた。ノイズが耳の中で反芻する。脳味噌が揺れる。意識が僅かに戻ってくる。少女は億劫そうに目蓋を開き、上半身を反り上げて周囲を見渡す。だが、おかしなところは見当たらない。森の中で、緋色の木々が、本当の笑い方を知らない人間のように哂っている。地を這う木の根が地獄へ誘おうと手招きしている。血塗られた無数の亡者が魔女を見つめている。嗚呼、ただの日常だ。いつもどおりの景色が彼女を鬱屈にさせるだけだった。目蓋を再び閉じる。完全なる虚構の世界に辿り着くために、あるいは永遠の眠りにつくために。冷厳な風が細い身体に当たる。一筋の涙は流れない。無照明の舞台の上では、蜜蜂の唸り声のようなノイズは鳴り続いたまま。

 少女は呻く。

「…… …… …… ……」

 彼女が「空白」を吐いた瞬間、呻き声に反応するように、冷たい夜が、言葉を放った。

 

「……ル……ナ……?……」

 

 幻聴? 少女は頬を軽くつねる。

 しかし雑音と共に、空は、ささめく。
「……ルナ?……」

 

 彼女は、目を、見開く。聴こえる、宙から、耳に入るはずのないヴォイスが。辺りには何者も居ない。けれども、どこかで聞いたことがあるような気がする上に、何故だか心に引っかかる。単なる二文字が世界変革の予兆を感じさせた。ルナ、恐らく名前? それなら、名の持ち主は誰? ルナルナルナ、ル・ナ・ル・ナ、と独り言を繰り返す。あの日、失われたはずの心臓が高鳴る。びゅうびゅうと唸り声を上げる夜風と共に、少女は柔らかな身体をゆっくりと起こし、立つ。彼女は森の中をもう一度見渡す。おかしなところは見当たらない。紅い木々は無表情となり、地を這う木の根は手招きをやめ、死者たちはいなくなっている。声は、どこからか聴こえてくるというより、誰かがテレパシーで魔女の魂に訴えかけてくるようであった。世界は執拗に「ルナ」と繰り返している。そのせいか、また頭がグラグラしてきた。それでも少女は探しはじめる。肉体の上げる悲鳴を無視して。「ルナ」の真実を求めて。

 そして彷徨うなかで一つの結論を出した。
 わたしがルナ? 
 少女は歩みを止める。夜の森からペンダントへ目を移す。心のなかで首まわりからぶら下がった灰色のネズミに尋ねた。あたしがルナなら、どうして自分の名を忘れていたの? 
 ネズミは何も答えない。
 彼女は苦笑した。この世のありとあらゆる物はぜーんぶ無価値なの。命だってそう、本当は赤ん坊の頃から、みんなみんな亡骸と違いはないの。それはあたしだって。おんなじ。だから、あたしがルナだからって、どうでもいいのよ。
 魔女は崩壊の大地に寝転がり、瞼を閉じる。わかってる、わたしの物語が、とっくに終わっていることぐらい。
 だが、そう思ったとき、唐突にノイズが止まり、完全なる沈黙が訪れた。奇妙に感じたため目を開くと、

 気がついた。

 

「革命」が起こっていたことを。

 
 それはあまりにも突然すぎた
 視線を闇に移していた隙に 一瞬で
 木々が 土が 風が 
 なくなっていた
 辺り一帯は 
 まっさらな純白に 覆われていた
 そこで

 彼女は浮かんでいる  
 心臓の 高鳴る音が
 木霊している
 そこに在るのは 
 たったひとりの赤髪の少女だけ

 彼女は、今、自分が、どんな顔をしているのか、どんな言葉を発すればいいのか、まるで分からなかった。 
 再びノイズが鳴り出す。そして何の前触れもなく、青年の透き通った声が、少女に語りかけてくる。
「……ルナ……やっと……見つけた……」
 混沌が、混沌が、何もかもを司っている。少女は錯乱する。心臓は鳴っているのに、視界のすべてが真っ白だから。完全なる無の空間、白く無限の虚無が、手足を縛りつけている。身体が何所かに吸い込まれる感じがする。

 だけど、どうして、死にたくなるほど綺麗な声をしているのだろう。あまりに懐かしすぎて、涙が零れそうになるのは、なぜなのだろう! 
 少女は見えない“彼”に語りかけた。
「……あたしを呼んでいるのよね?……」
 夢幻のなかの青年は、彼女の呼びかけに応える。
「……久しぶりだね……ルナ……」
 僅かな沈黙の間、ぶつりと切れた記憶の糸を辿る。……嗚呼、ようやく思い出せた。そう、間違いない、わたしの名前はルナで、ファミリーネームはカノン。大魔道師の両親の一人娘であり、親愛なる隣人と偉大なる歴史から呪われた十八歳の少女であり、世界のすべてを破壊した魔女の王、だった。
 そう、無意味な情報に過ぎない。自分のことを思い出したところで、何の感慨も無い! 
「……なん……で……あたしを……呼んで……くれたの……?」
「……もう一度……ルナにとっての青空を……見せたかった……いや……もう一度、一緒に見たかったんだ……」
 彼の言葉が、胸の奥を抱き締める。暖かな陽の光が体中に伝わってくる。その陳腐な表現はルナにとって、神様の誕生日よりも素晴らしく、世界中の何よりも愛おしかった。何時の間にか、一筋の涙が、頬を流れて、無垢なる白の中に、落ちて、なくなった。それでも、わからなかった。あの声を耳にした覚えはあるのだが、彼の名前が、思い出せない。ルナは漠然と理解した。多分わたしは自分の魂にとって、本当に大切な記憶を忘れてしまったのだ、と。だから問い掛ける。「……ごめんなさい、折角お話してくれるのに、あなたはあたしを知っているのに、あなたのことを、ちっとも覚えてない……」

「……忘れちゃった?……構わない……大切なのは……僕のことじゃなくて……ルナの未来……」

 ……未来、未来、未来……嗚呼、髪を掻き毟りたくなる衝動に駆られる。壊れた金切り声を上げたくなってしまう。

「……ねえ? ルナ……いつか言ったじゃないか、本当のルナはすごく可愛くて優しい子だから、世界中のみんなから愛されるべきなんだって。世界が間違いを犯したせいで、君が誰から忌み嫌われても、僕はルナの、ルナにしかないあたたかさを誰よりも知っているんだ。そして僕は、たとえ君の側から離れていたって……」
 不思議で仕方なかった。彼の言うことなどルナにとっては戯言に過ぎないはずなのに、耳を傾ければ心が安らかになっていくのが。何故だろうか、彼の言葉の一つ一つを拾うたびに心が壊れていくのは! 
「……君の右手を、僕の左手は繋いでいる……」
 そして、いつのまにか、頭が
「わかるよ……ルナの掌が凍えてるのは、温もりを求めているからだって……」
 裂ける 爆ぜる 張り裂ける
「……だから僕は残された力を使って、君にとっての永遠の宝物が見つかる場所に連れて行く……それが僕からの最後のプレゼント……」

 回る 廻る まわる
「……大切なのは……あの時のように……青空から宝石を掴み取れる日がくること……」
 死にそう 死にそう! 死にそう!! 
「……いいかい?……今から……ルナの肉体をそこに運ぶ……そうすれば……奇跡は起きる……大丈夫……怖がらなくていい……たとえ……新しい現実が君を拒んだとしても……もうひとりの僕がそこにいる……」
 だから
「……そこだと……もう……君と話せなくなるけど……ルナが……『それ』さえ手放さなければ……僕は……のことを……ずうっと……守ってあげられる……」
 今
「……たぶんルナは……僕の言葉を……すごく古臭く感じるかもしれない……でも僕は……君と過ごしたありふれた日々の中で……紡いだありふれた言葉のひとつひとつに……太陽の輝きを感じたからこそ……わかるんだ……もう一度……世界で一番幸せそうに笑ってくれる瞬間が……必ずやってくることを……」
 どこに
「……だから……飛び立つべきなんだ……ルナの本当の居場所へ……」
 い
「……もう少し経てば……僕たちの……別れの時が……やってくる……でもね……それは……けして……二つの魂が……離れ離れになるっていう意味じゃないんだ……」
 る

「……ルナ……これだけは忘れないで……数多の星でさまよう……すべての魂は……どんなに壊れた世界の中でも……絶対に……心の糸を結ぶことができることを……」
 の
「……僕が……君にとっての幸せを……掌に感じてほしいのは……僕の魂が……白い雲の漂う青空と同じくらい……ルナを……大好きだったから……」
 か
「……戯言じゃない……かならず……夜明けはやってくる……その時がくるまで……僕は……ずっと……祈り続ける……」
 わか
「……僕は知っているんだ……ドブネズミの……」
 らな
「……には映らない……」
 い

「……うつくしさを……」
 
 それからしばらくの間

 

 ルナは

僕の将来の夢!ヽ(・∀・)ノ

 私個人のささやかな夢を語ってみる。たとえば自分の家族や恋人や親友などの”大事な人”の生命が、酒鬼薔薇のような猟奇殺人者に奪われ、その事件の詳細と感想を加害者の直筆によって語られたノンフィクション本(事件を起こしたことについての反省など一切せず、むしろ殺人を達成できたことに多大な快楽を覚え、また”やりたい”と思っているという意思が表明されているような内容……「絶歌」など温い)が出版されたとしよう。おそらく通常の人間であれば――今現在の私であれば――、その忌まわしき凶事についてを何の配慮もなく表現するに至った加害者に対し、絶大な不快感や限りない憎悪などを抱くのであろうが、このような暗黒という偽名のつけられた虚無を抱いてしまうようでは、まだ低次元な立ち位置にいるのだと自覚せざるを得ないのである。

 私は真なる善と真なる悪を超越する立場に、たどり着きたいのだ。真なる善とは絶対不変と信じられし絶望を無限のような希望に変える力であり、真なる悪とは絶対不変と信じられし希望を無限のような絶望に変える力。それらが入り混じった空間こそが、宇宙としての世界。私は世界と一体にならなければならない。私が創り出そうとする永遠を、何者かの精神の大地として構築するためにも。

 

(この話、気が向いたら続きを書きますね)

題:「沈黙の狂気が、そこにあった」

 4時間前に見た夢のメモ書き。

 私は夜道を散歩していた。その道中、ごうごうと炎上している大きな洋館を見かけ、慌ててポケットから携帯電話を取り出し「火事です!」と通報したのだが、なぜか通話相手が物腰柔らかい老婆で、耳が遠かったせいなのか、こちらの話が全く通じない。これではキリがないと即座に判断し、とりあえず言わなければならないことを伝えられるだけ伝えて電話を切ったあと、すぐさま燃え盛る館の前へ、「ヤヨイさん!」と叫びながら駆け寄った。しかし火の勢いが強すぎて、とてもじゃないがヤヨイを助け出すなど不可能だった。

 洋館の燃え盛るさまを怯えながら見守っていると、なんの脈絡もなく地獄の業火が、聖なる魔法にかけられたかのように、みるみる弱まっていき、何事もなかったかのように元通りの白い豪邸に再生し、そこから住人らしき30代後半の女性ふたりが飛び出してきて、私の横を通り過ぎていく。黒い短髪で銀縁眼鏡をかけた前歯の一本欠けた女性が、「ヤヨイはどこ?」と極めて軽い口調で、傍にいる黒い長髪で釣り目の綺麗な女性に問いかけていて、「私たちより先に、どこかの川原に逃げ込んで倒れてるらしいよ」と、不条理なほどに呑気な調子で返答されていた。私は思い当たる節のある川原へ迅速に向かった。そこではヤヨイを見かけなかったが、「うー、うー」と涎を垂らしながら、ぬかるんだ地面の上に敷かれたダンボールの上で寝転ぶ、ロリータファッションの女装をした中年のような性別不詳の醜い人間ならいた――これは明らかにヤヨイではない、はずなのだ。

 しかし私の後に到着した例の女性陣は、その人物を「ヤヨイ」と見做しているようだった。二人は彼?の両腕と両足を無造作に掴んで、無表情に、どこかへと運んでいった。

 得体の知れぬ虚無感に襲われた私は、何も見なかったかのように自宅へと戻っていく。

 ここで夢は終わる。